「看取る」ということ
幸せ前借り理論
キャッツミャウブックスさんのツイートのおかげで、この短歌が少し日の目を見ることになった。
幸せは前借りでありその猫を看取ってやっと返済できる
――『これから猫を飼う人に伝えたい11のこと』(辰巳出版)より
短歌を作るときにはいつも、短歌を作るつもりで作り始める。
思いついたフレーズだったり、額の斜め上くらいにぼんやりと存在するものを定型に収めていく、という工程を経て作る。
当たり前だ、と思われるかも知れないけれど、この短歌はすこし違う。
この短歌は、短歌にする前に文章にしたものが存在していて、その文章を「短歌化」したものとなっている。
僕の中では文章を短歌にリメイクした印象が強い。
そんな過程の違いもあって、なんとなくぎこちなくも見えるこの短歌は『これから猫を飼う人に伝えたい11のこと』の中で、群を抜いて言及される作品となっている。
それは多分、「何匹も猫を看取った僕が、虹の橋の話では救われきれない自分を、少しでも楽にするために、たどり着いた考えかた」だからだと思う。
「正しい」「間違っている」ではなくて「こう考えることにしている」のだ。無理やり。しんどさから逃れるために。切実に。
看取るって、なんだ?
……で、ここでいう「看取る」ということについて、少し書きたい、と思ったのだ。
辞書的には下記の記載なのだけれど、問題は「臨終に立ち会う」のほう。
(死ぬまでの間)看病する。臨終に立ち会う。
――『岩波国語辞典 第八版』
4年前に母が、2年前に父が亡くなった。初めて「人の死」を目の当たりにして思ったのは「命のことって、わかんないんだな……」だった。
もう難しくなってから、実際に亡くなるまでの時間の長さは、わからないものなのだ。お医者さんはある程度わかるのかも知れないけれど、それを家族にそこまで明確には伝えたりはしないのだ。
そうなってくると、つきっきりで付き添わない限り、いつなにがあるかわからない。「待ってないのに、待っている」みたいな、いつ終わるのか誰にもわからない奇妙な時間が流れる。
幸い我が家は兄弟が健在で、交代で付き添えたけれど、それでも僕は父の最期に立ち会えていない。
でも、それでいい、とも思っているのだ。
(父と猫を同列で語ることに抵抗がある人もいるかも知れないが)それは我が家の猫も同じことで、できる限りついているけれど、難しければ、夫婦どちらかがついていてあげられれば、それでいい、と思っている。
その瞬間、その場にいることに、あまり大きな意味を持たせすぎるべきじゃない、とも思っている。できるだけのことをしたら、あとは「しょうがない」でいいじゃん、と思っている。
最期の瞬間に立ち会えなかったからといって、それまでの日々からは何ひとつ減ることはない。大好きだったことは、まったく変わらない。
立ち会えなかったことは、悔やまれるかも知れないけれど、そのことで自分を責めたり、次に進めなくなったりすることはない。断じて、ない。
だから、もうその「瞬間」にそばにいたかどうか、に重きをおくのはやめていいのではないか。
少なくとも、以降、生きている者が、それによって苦しんだり、気に病むことなんて全然ない。そんなのは、おかしい。
それは、人であれ、動物であれ、同じだ。
なにが言いたいのか
なにが言いたいのか、というと、僕の短歌の中の「看取る」は「臨終の瞬間に立ち会う」という厳密な意味ではなく「最後まで面倒を見る」というくらいの意味だよ、ということが言いたいのです。
あと、もし「あのとき自分の用事を優先して、立ち会えなかった」と悔やんでいる人がいるならば「それは、もういいじゃん」と伝えたいのです。