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『また猫と 猫の挽歌集』あとがき

世界猫の日で、かつ企画編集で携わっていただいたキャッツミャウブックスの7周年の日でもあるので、編集部の許可を得て、『また猫と 猫の挽歌集』(雷鳥社)のあとがきを全文掲載いたします。

まったくネタバレのないあとがきなので、安心してお読みください。

著者(仁尾智)あとがき      


 生きていくことの傍ら、猫を保護したり、保護した猫の里親さんを探したり、ときには子猫の一時預かりのボランティアをしたり、という活動をほそぼそとやってきた。もう四半世紀近くそんなことをしているので、その間、たくさんの猫を看取ってきてしまった。

 猫を看取るときには、たくさん短歌がうまれる。気持ちが、これ以上になく動くからだと思う。そして、「短歌にする」という行為には、効能があると思っている。

 大好きな猫が日に日に衰えていくときや、いなくなってしまったときの吐くような悲しみは、そのたびに短歌にしてきた。「短歌にしてきた」と書くと自発的行為のようだけれど、実際には、悲しみから身を守るように「短歌ができてしまう」というほうが正しい。

 悲しみが短歌の形になると、少しだけ自分の中から外に出せたような気持ちになる。逃れがたい渦の中から、一瞬頭を上げて息つぎができる。短歌にする過程やできあがった短歌を目にすることで、自分に起こっている事態を客観視できるのだと思う。つまり、この本に収録されている短歌は「自分が楽になるために書いた短歌」なのだ。たくさんの猫を看取って、そのような短歌が歌集になるくらいたまってしまった。全部僕が僕のために書いた短歌なので、嘘のない歌集にはなっていると思う。

 ……が、その反面、歌集としてまとめるに当たっては、大いに迷った。「そんな自分が救われるための作品で歌集を?」というわずかながらにあった歌人としての矜持とのせめぎあい。「猫を、しかも猫の『死』を利用していることにならないか」という罪悪感。「猫の挽歌集は、誰かの役に立つかも知れない」という気持ちと「役に立つってなに? 短歌はそんなものじゃないのでは?」という気持ち。また「我が家のように何匹もの猫を看取る悲しみと、例えば幼少期から二十年間一緒にいた一匹の猫を看取る悲しみが同じであるわけがない。悲しみなど共有できないのだから、何かをわかったような顔で本なんて出すべきではないのでは?」という葛藤。

 そう、悲しみは共有できないのだ。それぞれが、まったく別の悲しみを抱いている。

 ただ、「命」を前にしたときの右往左往や詮無い気持ちはみんな同じなのだ、とも思う。「もっと早く気づいてあげられていれば」とか「最後の瞬間に一緒にいてあげられなかった」とか、そうした自責の念や後悔も、多かれ少なかれみんなが抱いている。そして、そういう「同じ気持ち」のほうを共有できる機会は、意外と少ない。もしかして、余白の多い「短歌」という形であれば、その機会になり得るのではないか。

 最終的には「誰かの役に立つ、というより、回り回って猫のためになるのでは?」という考えに至って、踏ん切りがついた。

 この本を読んだ誰かが、少し前を向けて、また猫と暮らし始めてくれたりしたら、この本を作った甲斐どころか、僕が存在した甲斐があったとまで思える。

 最後に。

 僕の迷いをまるごと引き受けてこの本を世に出してくれたキャッツミャウブックスさんと雷鳥社さん、装丁を引き受けてくれた仁木順平さんには感謝しかない。本当にありがとうございました。

編者(キャッツミャウブックス店主 安村正也)あとがき


「うちから何か本を出しませんか?」

 たぶん世界初の猫歌人を名乗る仁尾智さんに、どこかに必ず猫が出てくる本だけを置いている猫本専門店オーナーの私が持ちかけたのは二〇二二年の暮れのこと。

「猫の挽歌集を出したいんですよね」

 彼が即答した挽歌集とは、つまり猫の死を悼む短歌だけを集めた歌集ということだ。あまりポピュラーなテーマではないので、猫本専門店から発信すれば、読んでほしい層に届きやすいのではないかということらしい。

 猫を飼う人はますます増えているが、通常は猫の寿命の方が短く、飼い主は愛猫に先立たれることになる。一方で、猫の長寿化に伴い、死別に関する猫本のテーマも、かつて主流だった【ペットロス】から、近年では【終活】【介護】【看取り】などに特化・分化してきている。とは言え、それらの書籍からは猫の一生における個々の場面でやるべきことや心構えは学べるものの、亡くした後の「誰にも言えないし、言いたくない、でも誰かに分かってほしい」という複雑な心情を代弁してくれる本はなかなか見つからない。そんな声を当店に来られるお客様からも耳にしていた。

 猫と暮らしている方であれば、愛猫の闘病中はもちろん、元気な時でさえ、猫の看取り話を聞いたり読んだりするのは辛いはずだ。その反面、看取りの前後でそうした話に触れると、「みんな同じなんだな」と少しだけ気持ちが楽になることもある。

 かくいう私も、二〇二三年の春に二名の店員猫を相次いで亡くしたのだが、その直後から、ずっと読めなかった猫の終活や看取りのエピソードを号泣しながら読み始めた。そのなかで特に、この歌集にも収められている一首に救われ、結果的に、里親として新たに二名の保護猫を迎え入れることになった。

「挽歌集、ぜひ出しましょう!」

 猫歌人の構想に私も即答した。看取りの状況もその前後に抱く感情も人それぞれなので、他者が分かったような振りをすることはおこがましいと感じている。逆を言えば、他者から分かったように振舞われたくないとも思っている。二〇一七年に猫本専門店をオープンして以来のつきあいである彼も、同じ感性を持っていると信じていたので、迷うことは何もなかったのである。

 これをあとがきに書く私もどうかと思うが、この猫の挽歌集は、今すぐには読めなくても、読めると思えるまで、常備薬のように本棚に並べておいていただくだけで構わないような気がしている。ただ、「本当はまた猫を飼いたいのに、しんどいのでもう飼えない」という思い込みをお持ちだったら、お読みになった後にそれを拭い去って、里親を待っている保護猫に手を差し伸べるきっかけにしていただけると嬉しい。

 本書は、当初キャッツミャウブックスの刊行物として出すつもりだったが、猫歌人と猫本専門店の想いに共感してくださった雷鳥社さんから出版されることになった。それによって、より広く、より多くの方々のお手元に届くことを強く願う。そして、みなさんが心に同じことばを思い浮かべることを。

「また猫と」


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仁尾智(におさとる)
そんなそんな。