言葉は近似値
2022.04.12
端的にいうと、きょうは「暑かった」。今も扇風機をつけている。
新しいエディタ
いま書いているこのnoteのエディタが新しくなった。新機能で使いそうなのは「区切り線」かな。
(↓意味なく使ってみた)
猫びより発売日
本日『猫びより』の発売日。
どうか『はぴはぴくるねこ』(くるねこ大和/KADOKAWA)10巻と併せて読んでもらいたい。
今回のエッセイは「こういうの、なんかすごくぴったりくる言葉、あったよな……」って言葉を探して「ああ!」と、その言葉にたどり着いた過程、そのまんまを結びに持ってきています。
エッセイって、書き始めるまで、ずっと「どう書こうか」を考えているんだけど、いざ書き始めると、割と「ライブ感」があって、自分でもどんな感じにまとまるのかは、書き始めないとわからない。
僕の書くエッセイがいつも500w程度と短いからかも知れない。(ちなみに必ず短歌を先に決めてからエッセイを書き始めています)
今回のエッセイは、書きながら思考した過程と結末がそのまま文章になった感じで、気に入っている。
そうでなくてもいつだって「ぴったりくる言葉を探している」のだ。
エッセイに限らず、短歌だって、ツイートだって、会話だって。
……で、なめらかに次の話題に続く。
きょう作った短歌
いつだって「ぴったりくる言葉を探している」のだ。
なぜなら「言葉」はただでさえ、考えていることの「近似値」でしかなくて、言葉に置き換えるだけで、少しずつずれるものだと思っているから、できるだけその「ずれ」を少なくするために、極力合致する言葉をフル回転で探すのだ。
でも、「エモい」とか「刺さる」とか「モニョる」(「やばい」とかもそう)って、その作業をサボっている、と感じるんだよね。
自分の中で吟味も咀嚼もできていないまま、言葉だけが投げられて、もちろん受け手(読み手)もぼんやりとした「なにか」を受け取らされる。
ずいぶん手前で放り出している感じが苦手。
《その奥にある「ほんとう」を放棄した「エモい」も「刺さる」も「モニョる」も苦手》
枡野浩一さんの短歌のほうがもっと辛辣だった。
届いている
届いているし、さらに遠くに届きそう、と感じる。
『三十一筆箋 −猫猫−』
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嘘のこと
ずっと「『俳優』という職業への光の当たりかたって、ちょっといびつなまでにすごいよな」と感じている。
「演技が巧い」というのは、言ってみれば「嘘が上手だ」ということだよね。嘘が上手なことが、こんなに社会的に評価されるのって、なんかすごくない? って思うんだよ。
決して、演じることを軽んじているわけではない。
一度短い落語を覚えて、ポッドキャストで披露したことがあるんだけど、覚えて、感情を込めて、表現するって、めちゃくちゃ難しい。自作の短歌の朗読だって満足にできないのだ。
ポッドキャストや朗読は「声」だけだけれど、演技はこれに動きや表情も加わる。どんな超人だよ、って思う。だから「演技が巧いこと」はものすごいことなのは知っている。
でも、スポットライトを浴びる理由は、そういうことへのリスペクトだけではない気がするのだ。
偽札作りは重罪という話を聞いたことがある。
人を殺めたり、傷つけたりするわけでもないのに、だ。
それはつまり「社会に重大な混乱を引き起こしうる」という理由らしい。
「俳優」という職業も、「偽札作り」と同じなのではないか。
あまりに演技が巧い人は、社会に混乱を起こしうるのではないか。
だから、あえて光の当たる場所に置かれているのではないか。
……みたいなところに落ち着く。
そんなそんな。