前向きに諦める
「諦める」という言葉を聞いて、それは一般的に後ろ向きで、脱力感が伴うようなマイナスの印象を持たれることが多いでしょう。
できると思っていたことが外側からの圧力や何らかの障害によってできなくなる。または自分自身の精神的、あるいは肉体的な不具合によって途中で断念する。などなど。
「諦める」という行為は、希望や目標を志半ばで自分の人生から切り捨てたり置いてきぼりにしたりという、どちらかというと負のイメージが強いですよね。
でも私は、「諦める」は、自分自身の心の中でどう捉えるかによっては全く違った観念を得られる言葉だと思っています。今日はそんな話を。
人間は頑張れば、そして諦めなければ何事も最後には目的や目標を達成できる。若い頃はそう思っていました。可能性しか信じてなかったし、気合いや力ずくでなんとかできた。いえ、なんとかできたと思い込んでいたのかもしれません。
もし達成できないことがあるとすれば、それは途中で私自身がそのことに飽きたから。必要でなくなったから。そんな風に自分の意思でコントロールできていると思い込んでいました。
もちろん望んでも頑張っても、モノにならなかったことなんていくらでもありましたよ。そんなときは自分を責め、落ち込み、卑下し、とことんダメ出しもしましたが、それでもまだまだ先は長いと思えば、泣いて寝て食べればケロッと立ち直るし、またすぐに違う目標を立てることもできました。若さとはそういうものですよね。気力と体力が相互にフォローし合えていたのだと思います。
今はどうでしょう。先がそろそろ見えてきだしたお年頃。そして気合や根性だけではどうにもできないことが山ほどあると、身をもって確信する出来事が年々増えてきました。これはもう、不可抗力の事態です。どう頑張っても結果は見えている。ではどうするか?選択肢は他にありません。そう、諦める。
初めはもちろん悔しくて、こんなはずではないと足掻いてみたりもするのですが、何度も経験するうちに「あぁ、もう“限界“を自分で認めなければ」と思うようになりました。できない自分を認めるのは結構辛いことです。そしてなかなか納得がいきません。しかし、人間はいつか衰えて、その限界を知ることが人としての必須項目なのだと理解するのです。
できないことを認め始めて、私はいろんなことがとても楽になりました。
まずは人を尊敬するハードルが一気に下がりました。どんな人にも得手不得手がある。そしてその人が得意とすること、できることがとても尊いと感じるようになり、自分がやらねばと思うことを「手放す」ことができるようになりました。
人に任せる。それは人を信じることであり、甘えることでもある。若い頃の私が最も不得手とすることでした。
自分でやったほうが上手くいく。そして速い。なんて傲慢な考えだったことでしょう。それは「諦める」という概念がなかった頃の話です。しかも結果はというと、決してベストではなかったにもかかわらず、それを認めようとはしませんでした。根拠のない自信が成せる技です。
今はもう、例えばまだ頑張ればかろうじてできることでも、他の人が同じように、あるいはもしかすると自分より優れた力を発揮するかもしれないと思うことは積極的に任せることがデフォルトとなりました。職場でも、家庭内でもそうです。もう私が頑張らなくてもいいんだ。素直にそう思うようになりました。
それは私にとってはとても前向きな感情です。そうすることで全てがいい状態になると何度も経験し、確信しました。これはとても「前向きな諦め」なんだと。
ある意味それは、自分の限界や力不足を認めることでもあり、正直モヤモヤする時もありましたが、慣れてしまえばこんなに楽で生きやすいことはありません。任された人は士気が上がり、それまで以上に力を発揮するようになります。お互いにいい事尽くめです。
諦めるっていいですね。自分自身への赦しでもあり、エゴの解放でもあり。そして何と言っても人への尊敬と感謝の念が莫大に上がります。それは人間としてとても幸せなことなのだと思うのです。
これから年を取るごとに増えていくであろう「諦める」場面を、単にがっかりと肩を落とすのではなく、人への尊敬と感謝の思いを持って、真摯に受け止めていけたらと思います。最後まで幸せに生きるために。
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