「読み込む力」と「読み解く力」
私には「読み込む力」があります。という話ではない。
ましてや「読み解く」力があるとも言えない。言えないからこそ何度も読み込む。そして読み解く力を鍛えたい。
先日、ここnoteで行われた大きな公募企画の発表があった。
御多分に漏れず、ちょうど推敲し終わった小説があったので私も応募してみた。結果はいわゆる「擦りもしなかった」というやつ。まぁ想定内なので全く問題なし。
しかしこの結果をめぐって、SNSで結構落ち込んでいるという人がいることがわかって少し心配になった。選ばれなかったことがショックだと。なんて正直で素直な人たちだ。そして、そんな人たちに向けての励ましや士気上げツイートを見てなんてこの世はあたたかいんだと感動すらした。
選ばれる人がいるということは選ぶ人がいるということ。選ぶ人は人間であって神様じゃない。同じ人間なのだ。あなたも私も同じ。同じ立場で同じ人間。
嗜好は一人一人違う。思考も一人一人。そしてテーマによってもフィールドによっても求められるものは全く違う。だから「そこに当てはまらなかっただけ」であって、どの作品も形になっただけで素晴らしいのだ。形にするには情熱がいる。そして哲学もいる。「書きたいこと」は一人一人の人生の中で培ってきた事実と経験の積み重ねで生まれてくる。空想や妄想であっても、それはその人の中から湧き出てくる結晶のようなもの。なんて尊い。なんて奇跡。もうそれで十分な価値がある。文章であれ、映像であれ、音楽であれ、絵であれ、形にするということは、人間としてとても高尚な行為だと思う。
ここnoteは元々書き手たちの集まり。それは高いレベルの読み手の集まりとも言える。受け取る側の土壌が豊かだから、どんなトスもパスもアタックも、予想以上のミラクルなレシーブが返ってきたりする。これがたまらなくて続けていけていると言っても過言ではない。本当に素晴らしい読み手集団だ。
しかし、だからと言って、書き手側の期待通りに読んでくれるとは限らない。放流された作品は、その時点である意味書き手のものではなくなる。どう捉えられるかは読み手側に委ねられる。「ここが素晴らしかった」というポイントが書き手の意思とズレていたり、響いて欲しいポイントをスルーされていても、「ちょっとちょっと、そこ、違うって。あ、それとあそこ、もう一回読んできてよ。そこんとこが重要なのよ」などと注文はつけられない。
だから尚更、今回受賞されなかった作品の中に素晴らしいものがあったとしても「あの作品、もう一回読んでよ!なんでわかんないのかなぁ」などと言ってはいけない。わかっちゃいるけど、まぁ悔しいわよね。
そもそも読み手の側にはいろんな事情というものがある。年齢、性別、人生の経験値、などなど、言い出したらキリがない。そして「だったらどんな人間なら完璧に読み解くことができるってぇの?」と言われても正解などない。だから読み込む。この作品に込められた著者のメッセージは?哲学は?何を言わんとしている?それが自分なりに受け取れるまで何度も読み込む。
私の好きな作家さんが言っていた。「書きたいことがあるから書くんだよ。哲学があるから書けるんだよ。だから、書きたいことを書けばいい。それは一回で書き終わるわけがない。書き切れるわけがない。だからどんどん書いて。書いて書いて書きまくって」
私は良いと思った作品は何度も読み返す。読み進めたい気持ちをぐっと堪えて、途中、最初から読み返したりすることも結構ある。ちょっと待って、もっと受け取れるものがあるんじゃないか、と何度も。それは「味わい尽くす」と言い換えてもいいかもしれない。そして解釈を深めてゆく。作者の言いたいことは何だろう。根底にどんな哲学があるのだろう。読み込むことで現れてくる心の機微や情緒がさざなみのように押し寄せてくる。あぁ、いい作品だ。そんな風に一つ一つ丁寧に読むのが好きだ。
渾身の作品は「その場」では選ばれなかったかもしれないが、それはその作品がたまたま「その場」に合っていなかっただけであって、作品自体の価値とは全く関係のないものだと思う。価値ある作品はたくさんある。それをしっかりと味わい尽くすためにも「読み込む力」と「読み解く力」を鍛えていきたいと思う。