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それは偶然なんかじゃなくて Vol.3

若いカップルが仲良く店を出ていくとドアの外から彼女の可愛らしい高い声が聞こえた。

「やだぁ、降ってるね。傘もってないよ。」

察したマスターが慌ててビニール傘を1本手に取り二人を追って外へ出た。

雨か…。

そう言えばあの人と初めて出会った時も雨が降ってたな…。

3杯めは重めの赤にしよう。もう少ししっかりと酔いたい。

7才年下のジュンヤと飲むときは軽く食事をしながらカジュアルなワインをグラスで頼むのがいつものやり方。1杯めはイタリアのシャルドネ。桃やアプリコットの香りの柔らかな味わいがリラックスさせてくれる。まるでジュンヤとのベッドの中みたい。私の胸に抱き寄せたジュンヤの柔らかな巻き毛の甘い匂いのようでいつまでも嗅いでいたくなる。子犬みたいなジュンヤ。私の大切なひと。そして私の癒し。

2杯めは爽やかなサンセールのソーヴィニヨン・ブラン。白だとこれが一番好きだ。フレッシュハーブやシトラスの香りでキリッとシャープな味わいが今夜はどうしても甘くなれない私の心と見事にリンクする。

本当はどちらかというと赤のほうが好きで家では毎晩グラスに2杯と決めている。そこまでなら程よく酔いが回る程度で次の日の仕事にも差し支えないからだ。30も半ばになるとお酒の飲み方も少しずつ変わってくる。以前のようにビールやロングカクテルをたくさん飲めなくなった。それよりも料理一皿ずつに違うワインを合わせて楽しむということを覚えてからはもっぱらワイン党になった。私も少しは大人になったということか。

…いや、それはあの人が教えてくれたからだ。

あの人はいつも私の知らない世界を教えてくれた。まだ見ぬ未知の世界の扉を幾つも開いてくれた。私はついていくだけで精一杯で、あの人の好みの大人の女になりたくて必死でたくさんの事を覚えた。

高級フレンチでのメニューの読み方。料理やワインのオーダーの仕方。その場に相応しいドレスコード。香水の付け方や立ち居振舞い。ナイフとフォークのスマートな使い方。

あの人の隣には完璧な女が似合う。私なんかじゃないことは自分でもよく分かってる。悔しいけれど仕方ない。このところあの人がデートに誘うのは隣の課の美しいと評判の彼女だ。仕事もできるし見た目も申し分ない。美男美女の誰もが認める二人。私に出る幕はないのだ。それを証拠にもう3週間もあの人からの連絡はない。

ハァ~~、とため息をついて落としていた視線をゆっくり上げると目の前のジュンヤと目が合った。

「どうしたの?さっきから何度もため息なんて。オレといても楽しくない?」

「あ、ごめんごめん。そうじゃないのよ。ちょっとここんところ仕事が忙しくてね。疲れるてるのよ、ごめんね。さあ、今度は何にする?」

ワインのメニューをジュンヤに渡すと、見もしないで突き返された。

「もう。オレがワインの種類なんて分かるわけないでしょ。ナオさんに任せるよ。」

そうだよね。ジュンヤは私と付き合い出してからワインを飲むようになった。28才の若き青年は何を飲んでも顔色ひとつ変えないしペースが速い。ハイボールじゃないんだからそんなにガブガブ飲むんじゃないと何度言ってもダメだ。そのくせにワインを3杯飲み終わると途端におネムになって目をくしゅくしゅと擦り出す。可愛いな…。でも、なんとなくもの足りない。違う。何が違うのかは分からない。だけど。私の中の満たされないオンナが顔を出してイジワルを言う。

「じゃあ赤にするよ?このミートパイ味が濃いからしっかり目のヤツね。ジュンヤ、まだ大丈夫?眠くないよね?」

ボルドーのシャトー・スオウは17世紀から伝わる歴史ある館。そこで作られたカディヤック・ルージュはバランスよくブレンドされたカベルネ・ソーヴィニヨンとメルロの凝縮された深い味わいがたまらない。高級ワインというわけではないが、こんなカジュアルなワインバーではなかなかお目にかかれない。このシャトー・スオウもあの人に教えてもらった。

ジュンヤは全く興味無さそうにプイと横を向いてスマホをチェックしている。そして突然真っ直ぐに射抜くような目をして私を見つめた。

「ナオさん、誰のこと考えてる?」

「え…何が?」

「分かってるよ。ナオさんには他に好きな人がいること。オレじゃないんでしょ。」

「何言ってるの?そんなことあるわけないじゃない。私はジュンヤのことが好きなんだよ。いつも言ってる。信じてないの?」

心の中を読まれたような気がして慌てて取り繕う。自分を誤魔化すためにわざと少し怒って責めるような目で睨むと、途端にジュンヤは柔らかな表情に戻った。

「ううん。信じてない訳じゃないよ。オレも好きだよ。大好き。…だからさ、今夜は…うちに泊まる?」

「うん、いいよ。明日は二人とも休みだしね。じゃあ今夜はもう少し飲んでいい?」

甘えるように言うと、ジュンヤは大きく頷いてくしゅっと笑った。

あの人は今頃なにをしてるのかしら…。

どこで誰にワインの飲み方を教えてるのかしら…。

その女は私より綺麗?私より可愛い?私より…。

グラスのステムに指を沿わせ、クルリと一度回す。丸みを帯びた大きめのグラスは芳醇な果実の香りを十分に集めて立たせ、グラスの縁に近付けた鼻先から深く吸い込んだら少し目眩がした。

一口含んでゆっくりと飲み込むとジュンヤの熱い視線が絡み付いてきた。

もうやめよう。ジュンヤだけを見つめよう。こんなにも私を欲してくれるこの目を、適当にあしらうことなんてできない。そんな罪深いことはあの人だけで十分だ。私があしらわれた辛い感情をジュンヤに与えることなんて、できない。

何処へも行かないで。私だけを見つめてて。そうすればきっとうまくいく。私の心と身体をしっかりと捕まえてて。お願いね。ジュンヤ。

外の雨の音が強くなった。あの日もこんな雨だった。偶然に乗り合わせたエレベーターに滑り込んできたあの人は、驚いた私に人懐っこくにっこりと微笑んで言った。

「昨日も会ったね。これって偶然じゃないよね。」

私の心を持っていかないで。偶然なんかに振り回されないわ。

私は3杯めのワインを意思を持って味わい、意思を持って飲み干した。

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