Cafe SARI . 7 「 恋愛って何なの? 」
「マユちゃん大丈夫?そろそろ終電の時間じゃない?」
カウンターに突っ伏すようにして酔い潰れたマユを諭すように沙璃は声をかけた。マユは元々酒に強いが、今夜はズブロッカをストレートでもう5杯も飲んでいる。
「うぅ〜〜ん、いま何時ですかぁ?」
「11時半よ。ほら、明日も仕事でしょ?早く帰って寝た方がいいわよ」
「あぁん、まだ大丈夫ですよぉ。電車なくなったらタクシーで帰るから。あと30分、閉店時間までここにいさせて、おねがい沙璃さぁん・・・」
「まったくしょうがないわねぇ。マユちゃん、どうしちゃったのよ。そんなに飲んで大丈夫なの?」
恋愛に悩む女はどうしようもなくお酒が飲みたくなる時がある。飲んだからといってその恋が上手くいくワケなどさらさら無いとわかっていても。どうしようもなく持て余しているその感情を一時の慰めだと知りつつも、お酒に頼りたくなる時があるものだ。身に覚えのある沙璃は小さくため息をついて、今夜はとことんマユに付き合おうと覚悟を決めた。
「とにかくほら、お水飲んで。帰るまでに少しでも酔いを覚ました方がいいわ」
冷たいミネラルウォーターをグラスに注いで前に差し出しすと、マユはようやくゆっくりと顔を上げた。
「沙璃さん、『恋愛』って一体何なんでしょうね」
「好きな人がいるのね。その人と何かあったの?」
「なぁ〜んにも!…なんにもないんです。悲しいぐらい。きっとこの水みたいに、彼にとって私は無味無臭なんですよ」
マユは目の前に置かれたグラスを掴み、ゴクゴクと一気に水を飲み干すと、フゥ〜〜っと勢いよく深い息を吐いた。目が据わっている。
その恋は始まったばかりだという。29才になるマユにとって、とても大切にしたい恋なのだと。その人のことを思うと何も手につかなくなる。動悸がして、眩暈がする。四六時中、頭の中にいて、マユを支配する。その気持ちをどうにか相手に伝えることはしたものの、イマイチ進展しない。さてどうしたものか。このままでは一向に未来への希望を見出せない。少しでも良い反応が欲しい。焦るばかりで心が疲弊する。こんな状態は自分にとって良い恋と言えるのだろうか?恋って一体なんなのだろう。マユは拗れる自分と戦っていた。
「5歳。大きいんですよね。この年齢差は。彼、私の5歳下なんです」
「ということは彼は24ってことね。若いわね、確かに」
例えば、35歳と30歳なら?きっとそれなりにいろんな経験を経てきた男と女として自然と相手を思いやり、互いに尊重し合える関係性を作り上げられたのかもしれない。
同じ5歳差と言っても年代によっては感覚的に微妙な距離感や価値観の違いがネックとなることもあり得る。24歳男子といえばまだまだ子供に毛が生えたようなものだ。学生気分も抜けない年齢だろう。対して29歳女性とは。三十路を目の前にしていろいろと考えることも多く、社会に出てそれなりの経験を積んでいる。まさに年齢的にもキャリア的にも、社会の中心的な立ち位置。仕事も慣れて任されることも多く、責任感も増して大人としての自覚も十分備わった頃だ。この年代の5歳差はかなり大きいのかもしれない。
「沙璃さん、これって恋愛なんでしょうか? 私、わからなくなってしまって」
「彼はなんて言ってるの?」
「何も。付き合おうとも言ってくれないし、会う約束をしても突然キャンセルされたりするし。この前は私と会ってる時に違う女の子から電話がかかってきて、なんだか訳ありみたいに喋ってて。私のことどう思ってるのか知りたいけど、怖くて聞けないんです。やっぱり知り合ってすぐにカラダの関係を持ったのがいけなかったんでしょうか。私はそうなったことをとても嬉しく思ったし、彼もそうだと信じてたんです。でも、その先がないんです。会うたびにカラダを重ねても、心は反対にどんどん遠のいていってるような気がして・・・」
なるほど。年齢差による恐れや遠慮が彼女にある以上、そのことがネックとなって彼の本心を聞く決心を鈍らせている。もしも聞いて、彼に将来を考える気がなかったとしたら、そのショックから立ち直る自信がない。だったらこのまま、結論を急がず、彼が会いたいと思うときに全力で応じるしかない。拒否しようものならもう二度と声をかけてもらえないかもしれないのだから。そんなのは耐えられない。彼が目の前から消えてしまうのだけはどうしても避けたい。マユはそんな気持ちを沙璃に訥々と告白した。
・・・恋愛って何?
マユの言葉を胸の中で反芻する。
沙璃は見るとはなしに遠くを見つめた。あれが恋愛だったのかと聞かれると、今となっては自分でもはっきりとした答えは出ない。
離婚してからの三年間、沙璃は誰ともつき合わなかったわけではなかった。気まぐれに一人でふらりと出かけた先で、それなりの出会いはあった。お互いに一人だったこともあり、グラスを重ねるにつれて意気投合したような錯覚に陥った。少なくともその時は、とても開放的な気分になって独り身の自由というのを満喫した。
5回ほどデートした。いや、8回だったか? 自然と関係は進んだ。大人同士、独り身同士の自然な成り行きで、沙璃にとってはなんの疑いようもないぐらい、彼のことを日毎に好きになっていった。このまま、もしかするとまた将来を考える時が来るのかもしれないと、淡い期待にも似た感情が自然と湧き起こるのを抑えることの方が、逆に不自然だと感じるほどの良い関係だった。
一つの季節を共に過ごし、次のシーズンに向けて、デート用の洋服を新調する楽しみを久しぶりに思い出した頃だった。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
彼のその一言で、一気に心が凍りつくのを感じた。あぁ、やはり期待した自分が馬鹿だった。自分のような離婚歴のあるアラフォー女に本気になどなるわけがないじゃないか。彼は30を過ぎたばかりの、人生で一番勢いのある時を自信たっぷりに生きている雄だ。選び放題に女はいるだろう。ましてや結婚を考えるのは自分より若い女に決まっている。私は何を考えていたんだ。何を夢見てたんだ。そう思うと自分に対して呆れるばかりで、彼には恨みつらみの感情のかけらも思いつかなかった。新しい彼女ができたんだ。だからもう会えない。今までありがとう。そう言って彼は去っていった。気持ちいいほどに淡々と。そしてまた沙璃は元の日常に戻った。幸い、自分を慰める術はいくつも持っている。辛いとか悲しいとかの感情はなかった。ただ、そんな自分の器用さに少し嫌気がさしただけだ。
それから3ヶ月が経った頃、突然彼からLINEが飛び込んできた。なぜ彼のアカウントを消していなかったんだろう。まだ私は彼に未練があるというのか。もしかするとこんな風に、彼からまた連絡が来るかもしれない。ほんの一欠片でもそんな事を考えていた自分に猛烈に腹が立つと同時に、即ブロックできない弱さを、まるで他人事のように俯瞰して見ている自分がいた。
話す時、じっと目を見つめて少し首を傾げる彼の癖が好きだった。愛を語りながら、私の指をやさしく撫でる彼の手が好きだった。寂しがり屋でわがままで、二人でいる時はとても甘い時間を過ごした。このまま時間が止まって、ずっと二人だけの世界に浸っていられたらいいのに。そんな乙女のようなピュアな心を抱かせる人だった。もしかしたら夢を見ていたのかもしれない。そうだ、あれは全部夢だったんだ。そう自分に言い聞かせ、毎日を淡々と過ごすことに気持ちを切り替えた。そしてまた一つの季節が過ぎ去ろうとした頃、そのLINEは来た。
「彼女と別れた。沙璃、もしまだ余地があるなら、会ってもらえないかな?」
余地?
余地って何なんだ。私はそんな都合のいい女だとみくびられていたというわけか。寂しさを紛らわす相手は私じゃなくてもいいはずだ。他を当たってくれ。もしまた関係を復活させて、あの頃抱いていた恐れや気負いを再び背負うことを考えるとゾッとした。きっとまた若くて可愛い相手が見つかったら、涼しい顔をして「今までありがとう」と言ってさらりと去っていくだろう。そんなのは容易く想像できた。
可笑しくて涙が出た。LINEを消さずにおいてよかった。もし消していたら、ずっとあの感情をいまだに引きずっていたかもしれない。こうして再び、彼からのLINEによって、自分という存在が彼にとってどういう立ち位置なのかがダメ押しのように明確に分かったのだ。沙璃は返信せずにブロックして彼の痕跡を消し去った。
「ねぇ、マユちゃん。あなた、彼といる時の自分が好き?」
「え? 何、自分のことが好きかって?」
「そうよ。彼と一緒にいるときの自分よ。思い出してみて」
「う〜〜ん、彼と会う時はいつもより丁寧にお化粧して、洋服も彼の隣にいて恥ずかしくないように気を遣って可愛くしていくの。なるべく若く見えるようにね。お洒落は楽しいし、多分そんな自分は好きだと思う」
「わかる。心が華やぐものね。いつもよりキラキラしてる自分に嬉しくなったりしてね」
「そうなの!普段はどうでもいい格好で出かけるのに、彼と会う時は気合が入るわ。ワクワクするしドキドキする。やっぱりこれって恋よね?」
「そうね、恋に恋してる状態よね」
「恋に恋してる・・・」
「彼と一緒にいる時、素のまんまの自分でいられてる?」
「・・・ううん、全然。素なんて出せないわ。どうしたら彼に嫌われないでいられるか、どうしたらもっと好きになってもらえるかばかり考えてる」
「そんな自分は、好き?」
「・・・好きじゃ、ない。すごくしんどいし、いつも無理してる」
「マユちゃん、私ね、今後もし好きな人ができたら、その人といるときの自分のことが好きになれる恋愛がしたいなって思ってるの」
「それってどういうこと?」
「恋愛って相手との関係性が大事なんじゃないかな。どちらか一方が無理したり気を遣ったり我慢するような関係は、いくら相手のことを好きだからと言って長続きはしないと思う。まずは自分がその人といる時に幸せでいられるかを考えるの。素のままで、無理しないで、余計な計算や気遣いをやめて、ただ私という人間でいる時、あぁ幸せだなって感じられることが自分を大切にするってことだと思う。まずは自分を大切にしないと、人のことなんて幸せにはできないわ。そんな余裕は観音様でもない限り誰も持ち合わせてはいないのよ」
「自分を大切にするって、そういうことなんだ・・・」
「そう。だから、まずは自分のことを好きになって欲しいな。マユちゃんらしく、伸び伸びと自由にいられることを大事に」
「でも、彼に嫌われたらどうしよう・・・」
「マユちゃんがマユちゃんでいられない恋愛なんて、なんの価値があるの?無理してるマユちゃんしか愛せない彼に、この先ずっと気を遣いながら続けていくことにどんな意味があるの?そんなのはいつか必ず、限界が来るわ。その時、自分のことを嫌いになるのはとても悲しいことよ。いつでも、どんな時でも、まずは自分のことを一番好きでいて欲しいな。ハッピーなマユちゃんはとても魅力的よ」
「沙璃さん、私、ずっと無理してたんだよね。5歳も年上だし、もうすぐ30になるし、このまま上手くいけばもしかしたら結婚できるかもしれないって。だから尚更彼に嫌われないようにと思って、必死に可愛い女を装ってた。しんどいよ、もうこんなの」
そのとき、マユのケータイの通知音が鳴った。彼からのLINEだ。
マユは飛びつくようにLINEを開いた。どうやら彼からデートのお誘いが来たようだ。
「どうしよう。沙璃さん、彼が明日会いたいって」
「いってらっしゃい。そして、本当の自分でいられるかどうか、確かめてきたらいいわ」
「自信ない。きっと彼の顔を見たら、またいつもの取り繕った自分になってしまいそう」
「だったらもう会うのをやめることね。また同じような自分になることがわかっているのにもし会いに行ったら、ますます自分が嫌いになってしまうわ。決断するのは自分なの。いつも選ぶのは自分でなければ、前へは進めないのよ。行って確かめるか、行かずにこの恋をやめるか。どちらにせよ、マユちゃんが選ぶのよ。誰のせいにもしないためにね」
「そっか、諦めるんじゃなくて自分で選ぶのね。確かめるのか、やめるのか。でも、どちらにしてもこの恋はうまくいきそうにないわ」
「もう答えは出てるじゃない」
「本当だ。もう出てる・・・」
みるみるうちに浮かんだ涙は、そのまま留まることを知らずにマユの頬にぽろりとこぼれ落ちた。
沙璃は見ないフリをして、もう一杯お水をすすめた。
「さぁ、これを飲んだらもう帰ろう。明日の朝、もう一度自分の胸に手を当てて考えてみて。どっちを選んでもいいわ。マユちゃんの気持ちに素直に従って」
「うん、沙璃さんありがとう。きっと私、選べると思う。自分のことを好きでいたいから」
せっかく出したのに、一口も手をつけずにあったベーコンとグリュイエールチーズの入ったキッシュ・ロレーヌを沙璃はホイルに包んで手土産に持たせた。
「明日の朝ごはんよ。温めて食べてね」
「沙璃さん、ありがとう」
恋は盲目というけれど、本当はしっかりと見えている。見ている方向を間違えているのだ。本当は一番見なければいけない、自分の内側に目を向けていないだけだ。
少しの時間を要するかもしれないけれど、きっとマユちゃんも自分が決めた道を堂々と歩んでいけるだろう。自分のことが好きな自分を、大切にするために。
沙璃はしっかりと前を向いて歩いていけるよう、BGMのボリュームを上げた。マユに捧げるはずのビルのピアノは、何故か自分へのファイトソングに聴こえるのだった。