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「聞くこと」 と 「受け取りかた」

かなり深いテーマだ。

接客業の私は「コミュニケーション」をある意味仕事としているので、これはもう昔からの課題でもあるのだけれど、このところSNSの繋がりのなかで何度か掘り下げる機会をいただいて、まだまだ探索の道の途中ではあるけれど、気付いたことを思考の整理として書いておこうと思う。


「聞くこと」はコミュニケーションにおいて場合によっては「話すこと」より重要だというのは私のなかで「一つの答え」として既に出ている。

この「聞く」は「聴く」と置き換えたほうがよいことも既に獲得した。人と一対一で対話する場合、「伝わる」の齟齬を生まないために、まずは相手の話をよく「聴く」が最も重要だと確信する。伝えたはずが全くこちらの意図する内容が伝わっていなかった、ということは誰にでも経験があるはずだが、大抵はこの「聴く」ができていないがための皺寄せ、またはその結果なのではないかと考える。

「聴く」を間違えると次に自分が出す言葉を間違える。どこでどう間違ったか、拗れた話の途中で悶々とすることはないだろうか。「そんなつもりで言ったんじゃないのに」ということ。かと言って、じゃあ、お互いどこから間違ったのか会話の内容を遡って検証していきましょうということはあまりない。仕方ない、あの人はいつもああだから、などとその奥に絡むコミュニケーションを諦めるという場面は日常茶飯事なのかもしれない。言い合いになるのを避ける、めんどくさいと思われたくない、人間関係を悪くしたくない、など大人の事情でスルーすることは少なくないだろう。

これは誰にでも身に覚えがある話なのでそう深刻にならずに日々を送ることにも慣れているかもしれないが、「『聴く』を間違える 」という観点を少し違う方向から考えてみると別の答えが見えてくる気がする。

「聴く」や「伝わる」の齟齬は「受け取りかた」にあるのではないだろうか。

先日、Twitterで仰かおるさんとやり取りしていてふと気がついた。

言葉は人を傷つける。そんなつもりは毛頭なかったとしても、例えばSNSの海に放流された言葉は何処で誰にどんな風に刺さるかはわからない。わからないから日常的に炎上が起こる。それは何故なのか。それは読んだ人の「受け取りかた」にあるのではないだろうかと。

同じ言葉でも読んだ人によっては全く違った受け取りかたをされる。その人の思考癖、性格、コンプレックス、その日のメンタルコンディションなどによって、たまたま読んだ言葉が「棘」になったり「ナイフ」になったり。

「私はあなたのこの言葉に傷つきました。納得がいくように説明してください」と、堂々と正面から言ってくれればまだいいが、Twitterの引用リツイートなどを使って拡散されたりしたらほぼお手上げ状態だ。

「それはあなたの受け取りかたが間違っているからだ」とはなかなか言えないし、もし言ったとしたらその言葉によってもまた新たに沢山の棘が刺さって更に重症化することもあり得る。

そう。「受け取りかた」に正解も間違いもない。だから余計にややこしい。

私は日々Twitterやnoteで文章を書いたり読んだりしているが「書いて投稿したあとはどう受け取られようとそれは読み手次第。放流後の文章は読み手のもの」というのをよく聞いたりする。

確かにそうだろう。だから使う言葉には十二分に配慮が必要だし誤解を招くような文章は控えなければならない。かと言って回りくどい書き方で言い訳がましい表現やくどくどとした前置きやフォロー等は読んでいるだけで背中の辺りがムズムズしてくる。一体何が言いたいのかと。ハッキリせいと。そんなに反応が怖いのか、誤解を恐れるのか、顔も見えない誰かの拒絶反応にビクビクしながらかったるい文章をネチネチこねくりまわすのか、と。

誤解されることを恐れていては本当に書きたいことは書けない。いや、どのように伝えきれるかは筆力の問題なのだろうけれど、必要以上に整ったまあるいキレイな言葉では心に響く表現は難しい気がする。差し障りのない、優しく柔らかく着飾った言葉は誰のことも傷つけないかもしれないけれど、それはだれが書いても同じようだし私が書く必要もないと思ってしまう。そして誰の心にも響かないだろう。誰にも必要のない文章。そんなものは書きたくない。



読んだり聞いたりしていて私自身も傷ついたと実感することは確かにある。しかしその「傷ついた感情」は私だけのものだし、それを誰かに告白したり誰かを告発したいと思ったことはない。傷ついたのは私の勝手だから。その時に私は「あぁ、私はこの言葉で傷ついたんだな。それは何故かな」と自問自答してみる。すると無意識下にあった自分の心情が見えてくる。どの言葉に反応したのか、どの言い回しに、どの思考に、どんな理由で傷ついたと認識したのか。すると少しずつ自分自身への理解が深まる。

「この言葉に傷ついた」とわかると、私にとってのそれは弱み、またはコンプレックスに由来するのかもしれない、などと自己分析にとても役立つ。何故なら他の人にとってはどうということのない言葉が自分にとっては特別な響き方をしているということだから。そんな時は「これは自己を知るチャンスだ」と思うようにしている。

自分を知ることで人生は少しづつ充実してくる。何を面白いと感じ、何が嫌だと感じるか。それを知ることで人との付き合い方も変わってくるし日々何に気をつけ、自分をどんな状態にもっていきたいか、何を目標にすればいいか、それに向かうには今何をすればいいかが少しづつ見えてくる。

ここから先は人生の話になるので深堀りはやめよう。また別の機会に。


「傷ついた」と口に出して言うことはもちろん自由だが、お門違いの感情で受け取り、それを多くの人に場当たり的に公表することは反対に人を傷つけている可能性もあるのではないかと思う。

「私は傷ついた」という言葉は、実は結構な攻撃力と破壊力を併せ持っている。そのことに気がついていながら敢えて公の場で声を大にして言うことで人を傷つけていることもあるのではないかと私は思っている。もちろん、言わずもがな先日炎上した有名なメンタリストのようなとんでもない発言や故意に人を傷つけようと書かれた文章に関しては論外だけれど。


「傷ついた」と感じた時、その相手を即座に攻撃したり反論することだけにフォーカスするのではなく、自分を見つめ直すいい機会だと思って、その言葉を一旦受け取り、その時の自分の感情とじっくり向き合ってみることも必要なのではないだろうか。

これは自戒の念を含めての探究であり、特別にどの文章とか誰のことを指しているなどは全くありません。念のため。


今週の25日(水)20時半から、仰かおるさんと「受け取りかた」についてのお話をTwitterのspacesにてご一緒させていただき対話を試みます。仰さんは以前noteをされていましたが現在はStand.fmブログなどでご自身の思想や活動を発信されています。私はその思慮深さと考察力の高さに非常に魅力を感じ、いつも勉強させていただいています。今回、かおるさんとのTwitterでのやり取りからspacesでの企画に至りました。かおるさんと「受け取り方」の考察をじっくりと掘り下げてみようと思っています。よかったらお聴きくださると嬉しいです。


#コミュニケーション #対話 #聞き方 #受け取りかた #傷つく #気づき #エッセイ #考察










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