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【読書メモ】クラフツマン:作ることは考えることである

『クラフツマン:作ることは考えることである』リチャード・セネット著、高橋勇夫訳、筑摩書房、2016年

米国の社会学者リチャード・セネット(Richard Sennett)の The Craftsman. Yale University Press. 2008. の邦訳版。僕は、南米コロンビアの先住民族ワユーの手工芸品のことをテーマのひとつにしていて、最初は「修士論文に使えそう…」と思って手に取ったのですが、その後、なんやかんやで積読になってました。ティム・インゴルド(Tim Ingold)の『メイキング:人類学・考古学・芸術・建築』を読んでるうちに、そうだそうだと、思い出したように読みました。

著者は、マサチューセッツ工科大学(MIT)や、ロンドン経済学校(LSE)でも教鞭を執るセネット氏。本書は、「作るという行為」について、とことん考えたもので、敢えて一言でまとめるなら、副題の「作ることは考えることである」に尽きます。セネットが、人間を「ホモ・ファーベル(homo faber 作る人)」と表現していることにも、それが表れています。

ワユーの女性手工芸家の編み物姿を頭に思い浮かべながら、ふむふむ、なるほど、などと読み進めていきました。いろいろと感じ入るところはたくさんあるのですが、ここでは二つだけ触れておきたいと思います。

まず一つ目。

ある到達点があるとして、そこにより早く達した人の方が優秀である、とされます。しかし、それよりは遅いけれども同じ到達点に着いた人は、より早い人より「劣っている」のでしょうか。たしかに、スピードという「程度」においては差がついているけれども、同じ到達点に着いているわけなので「質」においては同じはずです。セネットは、そうした「程度の差」を強調することで「質の差」と見せかける構図について指摘しています。

これについては、僕も「なるほど!」と思いました。以前に書いた記事「もうすでに先に誰かが言語化してるじゃん」問題についてでも、感じていたことなのですが、「自分が思いついたことが、すでに誰かが思いついていたものだったからといって、その思いついたことの価値が減じるわけではない」と、なんだか繋がることでもあるなぁ、と。

これって、教育とかにも当てはまりそうだし、子どもたちに相対する上でも、とても重要なことのように思います。

ある課題に対して、より早く解決にいたる子もいれば、少し時間はかかっても、やがて解決法を見つける子もいます。その差は、それにかかる時間という「程度」の差でしかなく、「質」の差ではありません。

「時間で区切る」ことは、システム上、ある程度は仕方ないのでしょうけれども、その時間内に到達できたことは、あくまでも「程度」において先んじていただけ、という考え方は持っておきたいものです。

そして、二つ目。

技術の継承において、時に、それをどのようにやればいいのか、言葉でははっきりと説明できないことが多々あります。いわゆる「体で覚えろ」といったことです。でも、そうした「言葉で説明できない」ということは、「愚鈍である」ことを意味している訳ではない、とセネットは述べています。

これについても、前に書いた記事「流暢に喋る愚者」より「拙い言葉の賢者」とも繋がる感じがしました。

一つ目の「程度の差と質の差の同一視」と相俟って、二つ目の「言葉で説明できないことを愚鈍とみなす」ようなことは、時々、日常生活でも垣間見えます。もちろん「愚鈍だ」とまでは、さすがに言われることはないですが。早すぎるテンポの会話は、ゆっくり考えている人の意見をスルーし、聞こえなくしてしまいます。どう言葉にしたらいいのか考えているうちに、次の話題へと移っていってしまいます。

そういう声こそ、僕は聞いてみたい、と思ったりもするのですが。

ちょっと、セネットの意図からは離れてしまったかもしれませんが、それも読書の自由、ということで、どうかひとつ。

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