推敲をあまりしないことが恥ずかしかったこと
以前、とある読書会系のオンラインイベントに参加したとき。
とある参加者の方から「推敲がちゃんと出来ていないと、文章が恥ずかしいので」という話を聞いたことを、ふと思い出した。
そしてその話を聞いて、僕は酷く恥ずかしくなり、落ち込んだ。
僕が書く文章は、あまり推敲しない。
もちろん仕事でライティングに関わるときは最善の注意を払って何度も読み返すし、その仕事ぶりが否定されたことはないくらいにちゃんとやっている。
けれど、突然
自分の書いたプライベートの表現に関しては
読み返すことをしなくなってしまう。
これについては、何度か考えたりもしたし
その推敲の話に面食らったときも、悩んだりしたけれど
そこから改善してはいない。
もう少し突き詰めれば決定的な答えが出るのかもしれないけれど
大きな理由と思われるひとつに「推敲するのが怖い」というのがある。
これは理解されないかもしれないけれど
自分で自分の間違いを探すのが、自己否定に繋がってしまうから。
そんなことないだろうと、多数の人が思うだろうけれど
自分にとってはそんなことすら、自己否定に繋がってしまう時期があって。
だから、よっぽど本気で誰かに「見てもらうんだ」とチカラを入れる文章以外は、推敲することを避けていた。
そもそも、誤字脱字を見つけたとしても、それをとやかく言う気持ちになれない。たとえ商業誌だったとしても、むしろ商業誌に携わって校正していた経験があるからこそ、よっぽどコンプライアンス的に問題が起こりそうなところ以外は「そうだよね、あるよね。人間だもの」と思ってしまうから。
ある種の「味」なのかもしれない。
物は言いよう、というか。
物の見方を変えれば、それも悪くはないと思える。
もちろん、その人のように徹底的に推敲して文章を毎回書ければ、それがベストだということも、間違いない事実だと思う。ただ、だからと言って、推敲しなければ、誤字脱字や文章構成が誤っているという文章が間違いだとも思わない。
そもそも、間違いってなんだろう。
誰のモノサシが正解で不正解なんだろう。
常識や非常識っていったいなんだろう。
僕は残念なことに、そういうコトへの執着をこぼれ落としてしまった。
それも良いか悪いかなんて、誰が決めることなのか、わからないけれど。
冒頭のイベント後に、正直な気持ちをSNSで書いた。
すると、当時僕の文章を「好きだ」と言ってくれた友人の方から「推敲しない文章も素晴らしいんですよ」と、詩人の方が本で書いていたことを教えてくれた。
その人の優しさを僕は忘れず、今もずっと心に留めている。
今は離れてしまったけれど、いつかまた、話したいな。
推敲をしなかった、僕のありのままの文章を持って。