創造主との関係を見る【残酷で気まぐれな神はいない】
2024年が明けた。昨年の終わり頃集中して見つめていたテーマで、「ここをきれいにalign(整列・提携)していかないと、どんな志を持っていても本人の人生には破壊的」と思った内容がある。
2022年12月中のライブ配信でも何度か取り上げたが、各々の人生に「その人自身の、創造主との関係・創造主への思い」が表現されるという点だ。
私自身も例外でなく、常にそこ(創造主との関係)を見つめることで発見がある。人生を「生きること」「経験すること」を通して、ああ、私はこんな思いをまだ持っていたんだ! と意外な気持ちになりながら自覚することがある。
昨年末から明るみに出して私自身つくづく眺めていたのは、以下のところだ。あなたにも同様の心当たりはないだろうか? チェックしてみよう。
それらの内容が創造主に対するどんな誤解に基づいて生じているかは、後半で詳しく解説する。
自己を分裂させる誤解
自分の人生における活動、内外の動き、それらの元となるあらゆる考えの中で、
公益性がある、他者の役に立つ、何かに貢献できる……と「自分でそう思えるもの」に関しては、創造主の加護やサポートがあることを受け入れる。
一方で、
自分個人のニーズや望み、願いであると「自分で分類しているもの」に関しては、創造主の加護やサポートから除外する。つまり、そこにはそれが適用されない、対象外と考えている。
言い換えると、自分個人の「瑣末な」望みは犠牲にしなければならない。もしくは犠牲とまではいかないにしても、せいぜい後回しにすべきだ。そんなところは満たせているかどうか気にするべきじゃないと。
……はいはい、これはよくある「自己犠牲」の観念ね。自分のことは犠牲にして「利他的」に生きることを「善」の姿勢とする……あれ、でもどうしてそんな観念がもっともらしく思えるんだろうか? と、そこのところを深く考えたことはあるだろうか。
誰が価値判断をしているのか?
すでに気づいている人もいるかもしれないが、ここには「価値判断」が関係している。自分の中で生じるものごとに順序をつけ、何を優先すべきかを決めている。
別にそうしてもいいけれど、誰が、何によってその価値判断をしているのかをあなたは自覚しているだろうか。果たして、本当にあなたの人生にとっての「優先順位」のわかる者が価値判断をしているのだろうか?
こうした疑問への答えを理解するために、私たちの「アイデンティティー」を確認しよう。
あなたが、自分を誰で、何であると思っているのかを。
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