素直でいることの連鎖、ひとつの自分で生きること
この1、2ヶ月で急速にメルトダウンして戻れなくなった実感がある。メルトダウンと表現したのは、まとってきた二重性の崩壊で、これは望ましい変化だ。
意識的にかぶせた仮面とまではいかなくても、本人にとって礼儀のつもりのものや、学び取って人生に採用してきた「外」との接し方、必要と信じて他者や世界との境界に作ったバリケードのようなもの。
それらを、崩壊させる流れになった。
これは私だけの実感ではないだろう。二重性が通用しなくなってきている。今、問われている。
「リアルな自分でいる? それとも、まとい続ける?」と。
変化は、気づくことから始まる。
あたかもふわっと、何も境目がなくグラデーション的に「自分を使い分けていた」ところから、どんなときに、どんな抑制を自分自身が行っているのかに気づく。
厳密に、きつめに指摘するならば、それは「嘘の私」だ。
「自分の思う世界や社会の型」に合わせて作った自分を前面に出し、その奥に素直な自分がいる。
素直な自分は、表に出しっぱなしにしてはいけない。そんなに真っ直ぐでは、ケガをするかもしれない。誤解されるかもしれない。何か失敗するかもしれない……。
だから、この素直な自分は奥にしまわれる。大丈夫だと思った相手や状況に対してだけは出されるが、そこでだって、拒絶されたり「失敗した」と思ったりする出来事を重ねる度に、素直な自分は度々引っ込められる。
そして代わりに「ちょっとアレンジされた自己」「改変された自己」などが登場する。
無自覚にこういうことをしている私たちが、どれだけ疲れていることか。
人間関係を潤滑にするため、あるいは社会の好ましいマニュアルに沿うため、息を吐くようにこういうことをしていたら、生涯でどれだけのストレスを溜めるのだろう。
自然を相手に嘘はいらない。そういった思いで自然界や生物たちに癒しを求める。定期的に、自然を感じる場所へ出かけたり映像を見たりする――たとえばそんな風に自分のバランスを調整する場合もある。
人によってはバランス調整の効果が、自分の極める技術や趣味、スポーツといったものにあるかもしれない。
けれども、癒しの必要性自体を、なくすことができたらどうだろう?
それこそが本当の解決ではないだろうか。
癒しは同時に起こり、ひとりで癒されることはないということ
私たちはお互いに癒し合っている。多くの場合、自然にそうなっている。
意図せずして、誰かが誰かを癒す。インスパイアする。
それが起こったときのことを私自身思い返すと、そんな状況を観察してみると、あることに気づく。
それぞれの「私」の中で何が起きているのかを理解できる。
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