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「専門用語に沈む瞬間、その先にある光」


 大学の大教室で行われる経済理論の講義。教授は淡々と難解な数式やモデルを黒板に描き、時折、教科書には載っていない専門用語を軽やかに投げてくる。教室の一番後ろの席でノートをとる私には、その言葉たちが宙を舞う奇妙な暗号にしか見えない。それでも周囲を何気なく見渡せば、なぜか皆、わかった顔をしているから不思議だ。あれは単なる「わかったふり」なのか、それとも本当に理解しているのか。問いかけは虚空に消え、授業は淡々と進んでいく。

 こういう状況は案外、多くの学生が経験しているのではないか。経済理論に限らず、高度な概念が次々と登場する授業やセミナーで、いつの間にか自分だけが「おいてけぼり」になっているような感覚。専門用語とは不思議なもので、それがわかると会話は一気にクリアになる。だが、ひとたび理解から外れると、言葉がただの記号となり、話し手とのコミュニケーションラインは細く、弱くなっていく。

 問題は、わからない自分を「認める」ことが難しい点にある。授業中の一瞬で、周りはまるで高度な言語コミュニティーを形成しているように見え、そこから自分だけが弾かれているような、いびつな疎外感が胸をえぐる。「手を挙げて質問すればいいじゃないか」という正論もあるが、周囲の「当然これくらい知ってるでしょ?」という雰囲気に押されて、なかなか踏み出せない。頭の中では「自分はなんて愚かなのだろう」と自己否定のスパイラルが始まり、気づくとノートには黒板の半分ほどしか書き写せていない。

 しかし、少し立ち止まって考えてみると、専門用語とは「ただのツール」に過ぎない。新しい理論や概念を構築するための共通言語であって、それ自体が知性や価値を保証するものではない。むしろ、わからないなら、それを理解するための導線を探す行為こそが学習の本質だ。そして、この「わからなさ」をなんとか突破しようとする瞬間に、知的成長の鍵が潜んでいる。

 例えば、講義後に教授や助教に直接質問することで、一見複雑な用語の裏側にある単純な発想を教えてもらえるかもしれない。同級生や先輩に尋ねれば、同じ疑問を共有していた人とのつながりが生まれるかもしれない。さらに、専門用語をネットで検索して、解説動画を見ると、驚くほどわかりやすいたとえ話に出合うこともある。つまり、わからないという事実は次のアクションを取るきっかけであり、そこには新たな理解の扉が待っている。

 大事なことは「わからない」自分を責めすぎないことだ。特に経済理論のような抽象度の高い分野では、一度にすべてを理解するのは至難の業だし、わからない瞬間があって当然だ。むしろ、そういう瞬間に直面した際、自分がどう動くかが後々の学習を左右する。わかったふりを続けるより、一歩踏み出して壁に向き合う方が得策だ。知識は暗号が解けた瞬間、突然クリアに見え始める。それまでは少しずつ情報を集め、ピースをはめ込んでいく時間なのだ。

 新聞コラムの末尾なら、「同じ経験を重ねた先輩方が、あのとき質問しておけばよかった、と後悔する声は意外と多い」と付け加えよう。人は誰しも、わからない瞬間を恥と捉えがちだが、学びの場において「知らない」「理解できない」は起点であって終点ではない。専門用語の壁に直面したとき、それを足場にして自分なりの学習方法を編み出す。この行為こそ、将来どの分野に進もうとも役立つ「問題解決力」の萌芽だ。

 経済理論の講義中、教授の声が遠くに聞こえ、隣の席の学生がうなずくたびに一瞬焦りを感じるかもしれない。だが、その不安な気持ちは、あなたが「本当の意味で理解したい」と願っている証拠でもある。その内なる葛藤こそが、学習者としての成長エンジンだと捉えてみてほしい。いつの日か、あなたは同じ用語を初めて耳にする後輩や同僚に、分かりやすく教えてあげることができるかもしれない。その時、自分が知識の輪の内側で微笑んでいる様子を、ちょっと想像してみるのも悪くない。

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