水俣病に対峙する責任
鹿児島県との県境に近い水俣市袋の小高い丘には、水俣病被害者の支援や水俣病の歴史、水俣病とは何かを伝え続けている『水俣病センター相思社』があり、私も何度か訪れたことがあります。
坂を登り、到着して後ろを振り返ると、碧い海が広がり、遠くには恋路島や天草や鹿児島の島々を望むことができます。周囲にはミカン畑が広がり、花の咲く時期、収穫の季節、それぞれの香りを楽しむこともできます。今では風光明媚なところですが、その碧い海・不知火海が、かつては工場排水により汚染され、水俣病を拡散させてしまった場所でもあるのです。昨夜は熊本市で相思社の職員さんの講演を聴く機会がありました。聞いたことのある話も多かったのですが、何度聞いても重い責任を負わされたような感覚を覚えることになります。
不知火海は内海で、外海からの水が入れ替わるには約4年かかるといわれるほど、とても閉鎖性の高い海です。そこにチッソの工場が、メチル水銀を含む廃液を垂れ流し続けたことから、食物連鎖によって魚介類を食べた多くの人の身体に取り込まれ、人々を蝕んでいきました。1953年(昭和28年)から漁村部で被害者が出始め、初期段階には劇症型が多く、『水俣奇病』として伝染病が疑われもしました。そこには差別や偏見が生まれ、工場排水が原因と明らかになった後も、病に苦しむ家族や胎児性患者を隠そうとするなど、水俣病は地域の中でタブー視され続けます。そのタブー視する空気は現在でも根強く残っていて、飲み屋やタクシーに乗っても聞こえてくる『ニセ患者』などの発言は、その空気を如実に表していると、講師の職員さんは指摘します。
1995年の和解、2009年の特措法の制定と、国は2度にわたり最終解決を試みましたが、現在も終わってはいません。国が認めたいわゆる認定患者は2284人、2度の最終解決で被害が認められた人は約8万人、現在も認定を求めている人、裁判で争う人、世間の目があり手を挙げられない人も含めると、水俣病の被害者は一体何人になるのでしょう。被害者を掘り起こされるのを恐れ、国が調査を拒み続ける限りは、全容が明らかになることはありません。
ここにきて、水俣病や公害という言葉を使わないようにしようとする動きが急速に進んでいるようです。一方で、政治家は簡単に「水俣病問題の解決」を口にします。何をもって解決とするのか、問題を打ち切ったり、蓋をすることを解決とは言いません。その上で、あらためて相思社の存在意義を考えてみました。被害者の拠り所であり続けること、真の水俣病を伝え続けることで、決して国の思惑通りに終わらせないことにあるのだろうと思いました。
昨夜の演題は「熊本県民として知っておきたい『水俣病』のこと」。相思社から伝えられ、真実を知った私たちにできることには何があるのか。講演を聴いたその時だけ共感したところで状況は何も変わりません。私たち一人ひとりに、社会の一員としての責任が重くのしかかります。