【赤色巡りレポ⑦】 奈良・木辻遊郭+元林院 【日本最古の遊郭】
東京、京都、大阪と来て、次はやっぱり奈良について書きたいところ。奈良の遊郭は数こそ多くないものの、どれも特徴的だ。
その中でも特に、奈良市にあった木辻遊郭は日本最古の遊郭として有名で、その遊里としての起源は寛永年間にまで遡る。「江戸・吉原遊郭を作る際に木辻の遊女を連れて行った」と言われているので、その伝統と歴史の古さはお墨付きだ。
さらに木辻の女の街としての起源は古代まで遡ることができ、8世紀の前半(718年頃)に元興寺がこの地に移転してきた際、その造営の労働者の相手をする遊女が集まったことに由来しているらしい。
もちろん8世紀の古代には「遊郭」などという枠組みはまだなかったが、古都としての奈良の歴史が古いだけに、色街としての歴史も最古というわけだ。
奈良市の女の街の範囲は、近代になって木辻遊郭が繁栄を誇るに従い(おそらく奈良駅に鉄道が開通したこともあって)、より奈良駅に近い地域にも広がることになる。
それが元林院(がんりいん)と呼ばれる地域で、遊郭としての歴史を持ちつつも、やがて花街本位となっていた街である。芸妓の数は少ないながらも今でも花街としての文化を残しており、娼妓本位で繁栄し、昭和33年の売春防止法施行で消えてしまった木辻遊郭とは対照的だ。
このような、遊郭が赤線化して滅ぶ一方で、近隣にできた花街が残るという構造は、以前記事にした金沢の愛宕遊郭とひがし茶屋街、石坂遊郭とにし茶屋街にも見られたが、京都の祇園甲部・乙部や上七軒・五番町など、様々な地域で共通する仕組みのようだ。
少し話が逸れたが、今回はそんな、木辻遊郭と元林院について書いていきたい。
木辻遊郭
木辻遊郭は、ならまちとして観光地化されつつあるエリアの中でも南側に当る地域にあった。ならまちから一度坂を上がり、そしてまた下る、起伏のある地域だ。
以下にいつものように、関連する地図を示しておく。
近鉄奈良駅からは歩いて15分ほどだろうか。そこそこ時間はかかるが、JRの京終駅ができてから賑わったとも聞くから、そちらからアクセスする客の方が多かったのかもしれない。
坂の頂上あたりに四辻があり、特徴的な景観となっている。
このあたりは標識や看板にも「東木辻町」の名前がある。「木辻」の名前は今でも生きているらしい。
木辻遊郭は現在の東木辻町・鳴川町・瓦堂町一帯に存在していたようだ。
東木辻町と瓦堂町の看板は見つかった。鳴川町の看板は見つからなかったが、同じようにどこかにあるのだろう。
遊郭はいわゆる「悪所」に作られることが多く、周りから少し海抜が低いエリアや、隔絶されたエリアであることが多いのだが、ここは近代に新たに計画して作られた遊郭ではないためか、他より一段高い地域になっているのが面白い。
木辻遊郭の北側の周縁には、高低差がわかる石垣があちこちに見られる。
一方、木辻遊郭のいちばん西側は坂を下りきったところで終わる。ここは昔大門があったという境界線らしく、今でもその名残のアーチに、ビッグナラという施設の広告が掲げられている。
木辻遊郭の目抜き通りは、この大門から続く東西の通りと、先述した十字路で交わる南北の通りの2本のように思われる。
歩いてみるとわかるが、どちらも同じくらいの規模感であり、周辺の動線を考えても実際にどちらが優勢だったのかはいまいちわからない。
ちなみに、しっかりしたソースを示せないのでなんとも言えないが、このアーチに広告のある施設・ビッグナラがあった場所に、かつては木辻遊郭の検黴所である病院があったとかなかったとか。
木辻遊郭内の建物を見ていこう。
こちらはリノベはされているものの、端々に凝った意匠が見られる大きな建物。
こちらは高欄が木板でできているのが面白い建物。
この木板高欄の建物の目の前に、以前は「静観荘」という旅館があった(写真は2018年撮影)。
大きな銅板葺きの唐破風屋根が美しいこの建物は、本家岩谷楼という名前の、木辻遊郭最大規模の妓楼建築だったが、2021年に閉業し、2022年に取り壊されてしまった。
この写真を撮った当時はそんなにすぐ消えてしまうとは思いも寄らず、宿泊しなかったのが心残りでならない。
なお、これは余談であるが、静観荘の一部の調度品や備品は、京都・八幡市の橋本遊郭跡にある旧第二友栄楼で引き取られ、保管されている。
話を戻して、引き続き木辻遊郭内を見ていく。
それらしい建物はそこそこ残っているが、決め手となるような遺物はあまりない。
毎度のことだが、遊郭といえば湯屋が付き物。
木辻付近にも現役の銭湯がある。四辻の坂の天辺近い場所の、花園新温泉だ。
旧遊郭エリア周辺には湯屋以外にも、花街に関係のありそうな建物が見られた。
遊郭といえば、忘れてはいけないのが寺社仏閣だ。古来、遊女たちは信心深いものであり、遊所の近くには稲荷神社や投げ込み寺が残ることが多い。
木辻で遊女たちに慕われたのは、こちらの称念寺というお寺だった。
門をくぐると、右手に大きな無縁仏の塚が見える。称念寺は投げ込み寺(身寄りのない遊女たちが遊郭で亡くなった後に葬られる寺)として、木辻遊郭に根付いていた。
木辻遊郭の遊女たちも、この中に供養されているのだろう。
ちなみにこの称念寺には、木辻遊郭の妓楼の格子戸に固有だった、「木辻格子」が遺されていると聞いたのだが、ざっと見たところでは見つけられなかった。
木辻格子は
というものだったらしく、引用元のHPの写真を見る限り、遊郭が張見世をしていた時代の籬(まがき)と、茶屋建築の木虫籠の合いの子のような様式だったようだ。
籬を用いた張見世は大正以降、女性の人権向上を目指した運動で「女性を物のように陳列するのは良くない」とされ、妓楼においてもほとんど姿を消したので、存在しないのも仕方ないのかもしれない。
木辻遊郭の周辺にも、ここに遊郭・色街のあった痕跡を見ることができる。
湯屋と並んで、花街跡近辺にお馴染みなのが質屋。現役で営業しているらしい。かつてはここで資産を換金し、遊びに赴く客が多くいたのだろう。
周辺には商店や衣料店、カフェーだったらしき建物などの名残が見られる。昭和レトロもひとしおだ。
最後に、そもそも木辻遊郭の誕生の発端にもなった、元興寺について。
今でこそ興福寺や東大寺が有名になり、あまり知られていない元興寺だが、南都七大寺として、かつては力のある寺院だった。
元は飛鳥にあったが、平城京ができる時に奈良市内に移転してきたのが由来だという。
現在でも重要文化財に指定されているが、これは何度かの焼失ののちに昭和時代に復興されたものだ。
本来の、つまり木辻の遊所ができた当時に建てられた元興寺の場所には「旧元興寺本堂跡」の掲示が掲げられ、今は奈良町資料館となっている。
現在の元興寺は木辻から少し離れているが、昔はもう少し南、より木辻に近い地域に建っていたようだ。
木辻の女たちを相手に遊んだ男たちが建てた元興寺は焼失し、木辻の女たちも売春防止法施行と共に消え、そして遺構であった静観荘も消えた。
木辻遊郭はゆっくりと、その痕跡を失いつつあるようだった。
元林院
色の街としての役割を負え、姿を消しつつある木辻遊郭跡。一方、元林院はどうだろうか。
以下に周辺の主要な地図を示す。
元林院は先述したように、木辻遊郭から溢れ出るように街が形成され、明治時代には遊郭として繁栄したものの、大正にかけて次第に娼妓の数を減らして芸妓を増やし、花街へとシフトしていった地域だ。
大正時代には200人を数えた芸妓だが、現在は舞妓含めて5人ほどだという。
とはいえ、奈良では貴重な、現役の花街だ。
街並みはというと、古くからある花街の茶屋建築と、昭和以降のカフェー風建築、そして飲み屋が入り混じった、なかなか味のある景観となっている。
こちらは猿沢池に近い、東側の街並み。なんとなく、大和郡山の洞泉寺遊郭など、近隣の遊郭街とも似た雰囲気を感じる。
この道筋にあるのが、「お茶屋BARつるや」さん。本物の芸妓さんが経営する、お茶屋を活用したBARのようで、以前はランチ営業などされていたようだが、今はされていないようだ。
気になるので、夜にまた訪れることとしたい。
一方、元置屋を利用したお店もある。こちらは「まんぎょく」さん。今は和食のお店として営業されているらしい。
立派な見世構え。お茶屋は各地で公開されていることも多いが、置屋というのは逆にあまり見ないので、ここでも食事して見学してみたい……。
元林院では他にも、立派なお茶屋建築があちこちに見られる。元は料亭・割烹・待合などだったのだろう。
こちらは高欄の、ひょうたんの透かし彫りが素敵な建物。
もともと純粋な花街ではなく、遊郭に由来していたこともあってか、面白い意匠の建物がちらほら見られるのが楽しいところだ。
こちらの建物は空き家のようだが、屋号らしき名前と鑑札が残っていた。
他では見ないタイプの立派な建物も。
上図でも示したように、元林院の地域は元林院町と、今御門町、南市町と呼ばれる地域を合わせたあたり。
実際歩いてみると、現役の花街色の強い元林院町に対し、南市町は色街の風合いが少し強いイメージだ。
広くはない地域だが、信仰を集める神社が数ヶ所あり、初戎にのみ開かれる南市恵毘須神社は特別に慕われているようだ。
どこの地域でもそうだが、やはり花街や遊郭は寺社との関係が強いようである。
周縁には転業旅館にでもなっていそうな建物もあった。
現役の割烹の建物も。
飲み屋が並ぶ南市町のエリアは、レトロでディープ、ちょっと壮観な景観だ。
建物の多くが、人の視線を避けるために扉が傾いていたり奥まっていたり、出入り口を分けるために2つあるものもあったりで、典型的なカフェー建築だと言えるだろう。
※カフェー建築について詳しく知りたい方はこちら。
スナックや飲み屋になっている建物が多い。古くはあるが小綺麗なので、おそらく現役で営業している店なのだろう。
こちらの飲食店では、鉄格子に守られた美しいステンドグラスを発見。
元カフェーからの転業だろうか。美容室になっているが、傾いた扉に、石やガラスブロック、タイルなどの意匠が美しい。
アーチ形の屋根とタイルの意匠が魅力的な店。
元林院周辺は花街のイメージが強かったので、カフェー建築の多さに正直驚いた。ブログなどを見てもレポはあまり多くないが、遊郭であった木辻よりも数世代後の建物が多く、昭和レトロ・昭和ピンクが好きな方にはたまらないエリアではないだろうか。
元林院の西側には餅飯殿(もちいどの)センター街と呼ばれる商店街があるのだが、そちらへ抜ける路地も素晴らしい。
ただの抜け道かと思いきや、ここに元林院の検番事務所と演舞場がある。花街として現役の証だ。
元林院エリアとセンター街との境にあるのは「ぜに宗」というお店だった建物。江戸時代に創業した、元両替商の店だったらしい(平成を以て営業終了したようだ)。
貝塚遊郭や琴平町遊郭などもそうだが、いわゆる「表」である商店街に対し、色街や遊郭など赤色の街は、その一本裏手にあることが多い。一般の人間はアクセスすることなく、それでいて利便の良い地域発展の典型的な形なのだろう。
このように元林院は、現在は地域に密着しているとはいえ、遊郭だった時代もあってか、元は区切られた地域だった。
その名残がこちら、絵屋橋跡と嶋嘉橋。
絵屋橋という名前なのは、元はこのあたりに絵師が多く住んでいたことに由来するらしい。絵屋橋のかかっていた率川は現在暗渠化しているが、嶋嘉橋の周辺では暗渠ではなく、築250年を越える現役の小橋となっている。
ここまで見てきた通り、元林院は木辻とは対照的に、現在進行形で活気のある街だ。駅や猿沢池から近いこともあり、たくさんの建物がカフェやバルに転用されて生きている(もちろん木辻のあたりも、最近は飲食店や宿などが増えて活気づいてきているが、遺構の転用はあまり見られない)。
そんな飲食店をいくつか紹介しておこう(今後少しずつ増える予定)。
まずは数年前にできた新しい建築・鹿猿狐ビルヂング。町屋の多いこの地域に馴染むようにと計画されたモダンな鉄骨造で、現代的な試みとして建築雑誌にも取り上げられた。
地元に根付いた中川政七商店や、最近人気の高まっている猿田彦珈琲などがテナントとして入っており、そのおしゃれさもあって、観光客で賑わっている。
こちらはケーキとカレーが大変美味しかったキャラメルさん。ケーキは本格的な美味しさでクオリティが半端ない。
なぜだかわからないが、ならまちはカレー屋が多い気がする……。
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日本最古の遊郭として栄えた木辻と、そこから発展して今や一大観光地となっている元林院。この先どうなっていくのか、その歴史はどう語られていくのか。
この先が気になる地域のひとつだ。
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全くの余談だが、猿沢池横の猿沢商店街も改めて見ると、かなり昭和レトロな雰囲気だ。いつかなくなりそうなので、撮っておくことにする。