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【赤色巡りレポ⑥】 金沢・にし茶屋街+石坂遊郭 【五遊郭の二、西廓と北廓】

金沢の遊郭シリーズをここまで掲載してきたが、最後は西廓と北廓をご紹介したい。
前の記事と同じように、まずは全体の位置を確認するために、金沢市内の遊郭位置相関図を再掲する。

金沢5遊郭の位置関係
(以下全て、元地図はGoogleマップより)

西廓は東廓の記事でも軽く触れたが、文政に金沢の遊郭が整備された際、東廓と同時期に作られた遊郭である。またの名を西新地という。
浅野川の北東にできた東廓に対し、西廓は金沢城から見て反対側、犀川の南西に作られた。
ひがし茶屋街と同じように、今ではにし茶屋街という現役の花街となっている。

※東廓についてはこちら↓


北廓はもともと金沢城の北西の位置にあったが、金沢市内の近代化に伴い、学校や市場ができたことで移転を余儀なくされた。
移転先は西廓の北側にあたり、「金沢城の北」という名前の所以を失ったためか、北廓・北新地という呼び名から、次第に石坂遊郭と呼ばれるようになった。
こちらは東廓の北に発展した愛宕と同じような立ち位置で、高級な花街を主軸とした西廓に対し、庶民向けの色街的側面が強かったようだ。敷地内に大きな県道が通ったこともあり、今はちらほら名残を感じる住宅街となっている。

※愛宕についてはこちら↓

本記事では西廓と北廓をそれぞれ、写真と共に紹介していこう。


西廓→にし茶屋街

上に記したように、旧西廓こと、にし茶屋街は金沢城から見て、犀川の南西に位置している。以下におおよその地図を示す。

にし茶屋街へ金沢の中心部から赴く場合、香林坊の前を南下して、犀川大橋を渡って行くのが一般的だ。
犀川は北の浅野川と並び、金沢市内を横断する大きな河川である。浅野川を渡って赴くひがし茶屋街に対し、金沢城から見てちょうど対照的な位置となっていると言える。

犀川と犀川大橋。大橋は、レトロな鉄骨の美しい橋だ。

この辺りは広い平野部なので、ひがし茶屋街のあたりと比べると開けた印象だ。そのせいかはわからないが、昔から、とにかく寺社が多い地域でもある(古地図を見ると見事に卍だらけで、ちょっと面白い)。

周辺は寺社や古い史跡の多い、静かな町並みだ。

金沢出身で、性をテーマにした作品を多く残した室生犀星もこのあたりの出身で、記念館が作られている。
犀川沿いの雨宝院は、幼少期の犀星が暮らしたこともあり、記念碑も建っていた。

犀川に面した雨宝院。とてもいい雰囲気だ。

犀川を渡り、野町広小路の交差点を西へ折れると、にし茶屋街の入り口がある。

美しい茶屋の並ぶにし茶屋街。

にし茶屋街は一本の通りを中心とした茶屋街で、ひがし茶屋街ほどの規模ではないが、ひっそりと静かな趣を感じられる。
所属する芸妓の数はひがしより多いらしいこともあり、観光地へシフトしているひがしに比べ、より本来の花街らしさが味わえると言えるかもしれない。

静かな一本通りで、ひがしとは全く雰囲気が違う。
落雁で有名な諸江屋も。本店はこのすぐ近くにある。
寒椿の美しいお茶屋の軒先


元検番

通りのいちばん端にはもともと検番であった、西料亭組合の建物がある。
お茶屋を大きくしたような東料亭組合とは違い、擬似洋風の近代建築らしい水色の建物が印象的だ。

検番の玄関前には石橋の跡らしき構造物がある。

裏手には木造の建物が連なり、にしの芸妓さんたちはここで歌舞芸事を練習しているらしい。

水色の外壁と、コロニアルを思わせるポーチ付きの造形が印象的な元検番。
奥の稽古場はシンプルな木造2階建て。

検番はしっかり残っている旧西廓だが、ではその範囲はどこからどこまでかというと、判然としない。金沢の旧遊郭に言及している資料は圧倒的に東廓についてのものが多く、またネット上ではどうしても、西廓よりもその北にできた石坂に興味を惹かれる人の方が多いようだ。
廓というからには、周囲を何らかで隔絶されていたのだろうが、「一町四方を塀で囲まれ」という以外の記述を見つけられなかった。

ただ、街歩きをする中で「もしかしたら……」と思える痕跡はあった。
にし茶屋街の通りの東側、南大通りとも呼ばれる国道157号線との間には約3mの高低差があり、境目のあちこちに古い石垣が見られるのだ。

しっかりした造りの美しい石垣があちこちに見られる。

この石垣に関する記述もどこにも見つけられなかったのだが、もしかしたら大阪・飛田新地の壁のように、一部は壁で囲み、一部は自然の高低差を利用した石垣にしていたのかもしれない(あくまで筆者の想像なので、何か情報をご存知の方はぜひコメントを下さい)。


裏通り

ちなみに、二階建てで総格子のお茶屋建築は、目抜き通り沿いにあるものがほとんどだが、一本裏の通りに入ると、昔はこの辺りも現役だったのではないかと思われる建物がちらほら建っている。

木虫籠の美しい茶屋、タイルの華やかなレトロな建物も。
ただの住宅街にしては、洒脱な街灯が。
料亭の鑑札が見られる建物も。
雰囲気を感じる建物。
なんとなくカフェー系列の意匠を感じる集合住宅も。

旅館風の建物もわんさか。中には転業旅館もあったのかもしれない。

茶屋建築ではないが、地方花街でよく見かける旅館・料亭風の建物がたくさん見られた。

また、後ほど詳しく紹介するが、旧石坂遊郭エリアに近い西側の方には、色街らしいタイルなどの意匠が見られる家屋もあった。

白いタイルと赤い窓枠が印象的。
こちらは大きなタイル貼りの壁を持つ家屋。

金沢中心部からにし茶屋街に赴く場合は、上に述べたように犀川を歩くのが一般的だが、これらの建物を探しながら、裏道を抜けて歩くのもおすすめ。
公共交通機関を使うなら、北陸鉄道の野町駅が最寄りである。


野町稲荷神社

この野町駅とにし茶屋街の間には、野町稲荷神社という小さな神社が鎮座しており、そこに遊郭時代の痕跡を認めることができる。

小さな神社だが、美しく維持管理されている。
お稲荷さんの台座には、「西廓子供中」「東廓子供連中」と彫られている。
大正12年とのことだが、とても綺麗に維持されている。


野町駅前

駅前には野町湯という湯屋がある。花街や遊郭の近縁に、湯屋は見逃せない要素だ。

なぜかタイル絵の施された壁面と、雰囲気ある下坂の路地。

営業しているかはわからないが、趣深い路地があったりタイル壁があったりと、存在感は強い。

由来が気になる美しい壁タイル。
野町湯の隣には、レトロな喫茶店「未完成」が。

この辺りの町並みだけでなく、野町駅も昭和感溢れるレトロな駅だ。ここから北陸諸駅にアクセスするのも、趣があって楽しいだろう(ちなみにこの路線の反対側の終点である鶴来もまた、大きな遊郭があった町だ。いずれご紹介したい)。

野町は北陸鉄道石川線の終端駅。列車もレトロだ。

にし茶屋街に関しては、資料も少ないが、筆者の見聞もまだまだ不足している。次回は茶屋街の店や資料館もいくつか訪問し、また追加レポしたいと思う。


北廓→石坂遊郭

さて、今度は北廓について見て行きたい。
北廓については赤線らしい雰囲気を有する、移転後の石坂遊郭の方が有名だが、他の遊郭と違うのは「移転」という歴史を包含している点だ。
個人的に歴史の変遷にも興味があるし、あまり他の人もレポしていないので、旧北廓が現在どうなっているのかは気になるところ……。

旧北廓

というわけで、まずは北廓のもともとあった場所を見に行ってみた。
文献などから旧北廓だと予想されているあたりの地図を、以下に示す。

実際の道筋は古地図を見る限りもっと雑然としているが、現代の地図に書き起こすとこんな感じになるようだ。

※このあたりの考察に関しては、以下の金沢まちゲーション様のサイトに詳しいので、大いに参考にさせて頂きました。ありがとうございます。

移転前の北廓があったのは、今の武蔵ヶ辻の近く。当時の松が枝町から栄町のあったあたりに位置しており、ここは後に開校される旧松ヶ枝町尋常小学校の北側、そして近江町市場の西側に当る。

北廓が認可されたのは明治18年、移転したのは明治32年。ちょうど日本全国と共に金沢市内も近代化の波に乗っていた時代であり、小学校や市場のそばに遊郭があるのは教育・風紀上望ましくないとのことで犀川の南まで移転させられることになったのである。

さすがに明治期に歴史を閉じた遊郭とあっては痕跡もないかもしれない……と思いつつ、まずは金沢まちゲーションのサイトにも紹介されていた、旧遊郭の中心であった(であろう)大通りを見に行ってみた。

明らかに住宅街には広すぎる道幅だ。

道筋というのは、意外と昔のままに残るものである。他の遊郭跡にも言えるが、上の写真のように、単なる住宅街にやたらと広い道が残っていることが多いのだ。
これは遊郭の中心となる目抜き通りには、真ん中に桜の木が植えられた吉原・仲之町通りに倣ったスタイルが、採用されることが多かったためであろうと思われる。
ここも昔は、桜の木が植えられていたのだろうか……。

※吉原のレポはこちら↓

上の大通りを除けば、旧北廓跡にはむしろ歩行者用の細い道が多い。

雰囲気のある町並みが多いが、金沢はもともと古い町屋の多い町であり、遊里らしい姿が残っているかと言われれば、断言は難しいところだ。
建物を詳細に見ていこう。

色硝子と高欄の美しい、大きなお屋敷。
並んだ町屋。硝子越しに廊下が伺える。
雰囲気のある町屋色々。色硝子や格子戸、べんがら塗りの窓枠など……。

このあたりは「あれ、もしかして……?」と思えそうな外観の建物群だ。
単なる商店・旅館建築かもしれないが、造り的にも廓関連のものであってもおかしくはない。

こういった建物よりも多かったのが、以下のような、地方によく見られる旅館建築。
にし茶屋街の裏通りにあったものに、造りや細かい意匠が似ている。

丸窓に目を惹かれる。
立派な瓦屋根や門塀が美しい。
現役の旅館もあった。
旅館建築はエリアの南部の方に多い。茶室があるものもあった。
旅館建築の入り口に敷かれた、カラフルな玉砂利。思わずため息が出る美しさ。
旅館の屋号だろうか?鮮やかな緑のプレートや、
にし茶屋街にも見られた色の綺麗な石壁の意匠。

1940年代の金沢市街地図を見ると、この辺りは旅館街だったらしい。遊郭移転の後、旅館街に転業となったようだ。


遊郭跡のセオリーでもあるが、旅館建築の他には、料亭や仕出しの店もちらほら見られる(もちろんこれらの店が当時からの歴史を持っているかは不明だが……)。

寿司屋さんとうなぎ屋さん。美味しそう……。
今も営業中かはわからないが、鮮やかな緑の壁の割烹屋さん。
うずら鍋と天ぷらが名物だったらしい。

そして極め付けはスナックやバーなど、いわゆる「夜のお店」。
古かったり古民家だったりで、ド派手に目立つような店はないが、よく見るとちらほら……普通の住宅街にしては軒数が多いように感じた。

隠れ家的なバーかスナックだろうか……営業しているようだった。
ラウンジなどが入っていたらしきビル。看板も残っているが、現在は営業していないようだ。緑の丸柱や、壁の丸いタイルが可愛らしい。
ラウンジビルの前には真っ赤な薔薇が咲き乱れていた。

都市計画区域の観点から見ても、色街の歴史を完全に拭うのはなかなか難しい。
こういった建物があるというのも、北廓の移転後にも、その地で夜の町を営業しようと思う人々がいたためなのかもしれない。


さて、エリアの南側にある松ヶ枝緑地へ行ってみる。
ここは以前、松ヶ枝町尋常小学という学校の敷地だった場所であり、これができたために北廓は移転する運びとなったのである。
そんな小学校も今はなく、石碑だけを残して緑地となっている。

よく整備された、美しい松ヶ枝緑地。

この辺りは今は高岡町の一部になっており、「松ヶ枝」の地名はすでにない。しかし、旧遊郭時代に使われていたこの地名は、松ヶ枝緑地の他にもちらほら見かけられた。

公民館や会社ビルに残る「松ヶ枝」の地名。

旧北廓を構成していたのは、「松ヶ枝町」と「栄町」。
栄町は廓の北側の一部で、今は武蔵町の一部となっているのだが、こちらは「旧栄町」と書かれた旧町名碑が残されている。

武蔵スタジオ通りの突き当たりに立つ旧町名碑。
旧栄町の街並み。古い建物もあるが、かなり新しい建物に置き換わっている。
旧栄町に立つ、巨大な美建築。料亭だろうか?由来が気になるところ。

近江町市場も近く、今やすっかり現代・金沢市の中心部となった地域のひとつだが、意外と古い街並みが残っていた。
この中に遊郭時代のものがあるかはわからないが……それも含めて宝探しのような楽しい訪問だった。
これらの見聞を踏まえて、今度は移転後の北廓、あるいは石坂遊郭跡へ行ってみたいと思う。


新北廓(石坂遊郭)

前述のように、新しい北廓は、当時の西廓の北西側に移転させられた。この辺りは石坂台と呼ばれていたため、この廓は後に「石坂遊郭」と呼ばれるようになったという。
エリアとしては西廓と隣接しているので、地図としては西廓の項のものとほとんど同じ範囲になるが、以下に示しておこう。

地図からわかるように、にし茶屋街から西へ向かうと、直交するように南北に水路が流れている。泉用水だ。

美しい石垣と水路。流れは結構速い。

ここを越えると、旧石坂遊郭のエリア。水路にかかる橋には、今も石坂の名前が残っている。遊郭入り口には付き物の、”思案橋”(行こうかどうしようかと思案する橋)といったところだろうか。

「石坂2の橋」とある。梅の意匠が施された、小さな橋だ。

とはいえ、現代ではこのあたりの地名は石坂ではもはやない。増泉と呼ばれている。

一見よくある金沢の住宅街だが、よく見ると豆タイルや色硝子など、妓楼建築特有の色っぽい意匠が見つかる。
このあたりは、花街寄りの東廓に接して色街寄りの愛宕があったように、西廓に隣接した「庶民向けの遊郭」だったらしく、花街より色街の風情が強いのだ。
街の雰囲気も前述した旧北廓とはだいぶ趣が異なるように感じる。

愛宕ほどではないが、わかりにくい細い道筋が多い。
息を呑むほどタイルの美しい建築。玄関脇の壁のアールと、格子窓のバランスが良い。
2階の楕円の飾り窓も気になる。
この辺りで見られる意匠いろいろ。昭和硝子もちらほら。
見越しの松が立派な、旅館風の建築も。

そういった事情のためか、石坂遊郭は、売防法施行後に花街として残った東廓や西廓のようには残っておらず、愛宕のように住宅になった店が多かった地域のようだ。
スナックなどに転業したらしい跡も見られる。

あちこちに看板は残っているが、無人なのだろうか。

扉が斜めに傾いていたり、ファサードが独特だったり、ちょっと洋風なカフェー建築も。

そしてこちらが、石坂遊郭跡の中でもディープな雰囲気が残る路地。

色硝子・豆タイルの目白押しで、あまりに美しい……なんとか維持保存されて欲しい建物が多いエリアだ。

青い色ガラス、青と白の三角タイル、洋風な飾りと四角いランプ……
見どころが多すぎて、頭が追いつかない。
扉脇の壁のアールも吸い込まれるようだ。

この通りにある建物の一棟、特別綺麗に管理されているここでは、アンティークな着物を販売する「凛凛」さんが営業されている。

足元のタイルがカラフル。

筆者は着物もよく着るので、お邪魔してみた(写真は許可を得て撮影しています)。
中に入ると、着付けられたトルソー。左手に畳敷の小部屋があり、ここにたくさんのアンティーク着物や小物が並べられている。

広い階段は、客と遊女が並んで上がるためだったらしい。
現在お店のメインスペースとなっている小部屋は、おそらく陰見世の場所だったのだろう。

※陰見世について詳しくはこちら。

袖壁や床のタイルは当時のままだそうだ。

凛凛さんのオーナーによると、この辺りの建物でも大抵、床タイルは現代に至るまでに改装工事などで壊されてしまったり、コンクリートに埋められてしまったりするのだが、こちらの物件はそのまま残っていたのだという。
元の雰囲気を損なわないよう、丁寧にリノベーションされて営業されているそうだ。

頼み込んで見せて頂いた、素晴らしく可愛らしいタイルの浴室。
こちらも当時のままだそうだ。

ちなみにこちらのお店、アンティーク着物や小物のテイストが非常に筆者の好みで、また状態も良く、かんざしや鞄などついつい買い過ぎてしまったのは余談である。また金沢に来た時にはお邪魔したい素敵なお店だ。

最後にもう一軒。妓楼建築らしい建物脇の出口(入り口と別に作られている)のある、このあたりではもう少ない鑑札のついた建物があった。

よく見るとうっすら破風のような傾きある軒もついている。昭和硝子は葉っぱ柄。
石川県公安の「小料理店」の鑑札が。
雪の季節はこんな感じ。

この路地以外にも、妓楼建築の並ぶ通りはかろうじて見受けられる。その一部が、一棟貸しの古民家宿に改装されていた。
内部はかなり現代的にリノベされているようだが、一度泊まってみたい。

雪が降るとこんな感じだ。

最近一新されたらしい一角には、石坂の名前を冠したバーらしきものも。

新しい赤い塗料が眩しい。
「since1820」の文字が魅力的。

大変今更だが、ここの「石坂」は「いしざか」ではなく、「いっさか」と呼ばれていた。それを店名として残してくれているのは、なんとなくうれしいものだ。

このエリアの北側には増泉1丁目緑地があり、その向こうが大きな自動車道路である県道25号線だ。

奥の緑地が増泉緑地。よく子供が遊んでいる。

この道路ができたことで石坂遊郭跡はかなり潰されたと聞く。
吉原でもそうだったが、遊郭跡にある公園や緑地は、大きな店や施設の跡地であることが多い。
増泉緑地はどうなのだろう。大見世か、あるいは歌舞練場的なものがあったのか……。

元はと言えば県道の北も含めて石坂なので、北の方にもちょっと色っぽい店も見つかったりする。

うっすら残った文字は「オールナイト喫茶 茶暮里」。
深い緑のタイルにうっとり。

昔はこのあたりに、北陸鉄道の白菊町駅があったらしい。野町駅が終着ではなかったようだ。


以前はもっとディープな建物も多く残っていた石坂遊郭跡だが、次第に土地が歯抜けになって空き地も増えている。

あちこちにこのような空き地が増えている。
ここにはどんな建物があったのだろう。

花街と違って正史に残らない町並みゆえ、致し方ない宿命のようなものなのだろうが、この先石坂遊郭跡はどうなっていくのだろう。
いずれにせよ、これらの美しい建物が気になる方は、できるだけ早い訪問をおすすめしたい。



ひとつの記事に西廓、旧北廓、北廓をまとめたため、かなりの記事量となってしまった。
以前、私は幼少期に金沢に住んでいたと書いたことがあったと思うが、その地域がこの近く、犀川沿いなのでひときわ親しみがあるのである。
ひがし茶屋街周辺が観光地として大変賑わっているので、「金沢の花街」と言えば市内の北側を連想されがちだが、南側にも色々な歴史の跡があることを知って貰えれば、個人的にもうれしい。


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