【赤色巡りレポ④】 金沢・ひがし茶屋街 【五遊郭の一、東廓】
東京、京都、大阪……と歴史ある元遊郭の探訪レポを紹介してきたが、次は金沢に行ってみたい。
一般的に五大遊郭といえば、江戸吉原、京都島原、大阪新町、伊勢古市、長崎丸山ではあるのだが、個人的には金沢も、遊郭の展開規模としては負けていないと感じる。
私自身が幼い頃に金沢に住んでいたこともあり、また、今でも縁があって定期的に訪れているので、親しみがある由縁もある。
金沢は石川県の地方都市だが、「加賀百万石」で有名な、経済的にも文化的にも大変繁栄したまちである。
戦時下に空襲に遭わなかったこともあって、昔ながらの屋敷や街並みが遺る一方、現代美術館や駅前広場など、新しい文化の発信地として、今も生き生きとにぎやかな都市だ。
繁栄した町のお決まりとして、金沢にも花街・遊郭が発展した。最盛期には市内に5つも遊郭があり、それぞれ東新地(東廓)、西新地(西廓)、主計町、愛宕、北新地(北廓)と呼ばれていた。
以下の地図に5遊郭の位置関係を示す。
特に東新地と西新地は、江戸時代に加賀藩主の前田氏が、金沢城東西に流れる浅野川と犀川のほとりに設置した、歴史ある遊郭である。
今回はこの、東新地……東の廓(くるわ)について書いてみたい。
いつも通り、以下に東廓周辺の地図を示しておく。
※愛宕遊郭・主計町茶屋街についてはこちら
※西廓・石坂遊郭についてはこちら
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上述の通り、東廓は金沢市内の北東を流れる浅野川のそばに作られた遊郭だ。
今でも花街として現役で(遊郭としてではない)、主要な観光名所「ひがし茶屋街」として観光客がたくさん訪れる場所でもあるため、美しい景観が維持されている。
「廓」という名の通り、元は周囲を塀に囲まれた隔絶した空間であったが、今はその名残もなく、”街並みの変化で周囲との相違がわかる”程度になっている。
茶屋街には石畳が敷かれ、細かい格子戸の美しい茶屋建築がずらりと並び、今でも芸妓さんの芸が鑑賞できる場所もあれば、観光客向けに飲食店や土産物屋になっている場所など、様々ににぎやかだ。
現在のひがし茶屋街の様子を、いくつか載せてみよう。
茶屋町の景観は昔ながらの趣を残しつつ、また芸妓さんも現役でありながら、敷居はそれほど高くはなく、観光客も楽しめる風情となっており、バランスの良い街だと言える。
東に卯辰山、南に浅野川があることもあり、都会のように空気が澱みにくい、快適な立地というのも高ポイントだ。
ひがし茶屋街ならではの特徴的な景観といえば、このべんがらの赤色。
他の花街・色街跡でも赤色を建物のアクセントに使う例は珍しくはないが、ここまで全体が赤い建物が多いのは、この辺りに独特の風情と言えよう。
茶屋街を歩いていると、芸妓さんの芸事を見られる(一般的なお座敷遊びより気楽な、観光寄りの営業形態もあるようだ)お茶屋や、イベントのポスターなどもよく見られる。
とはいえ、なかなか機会がないのでお座敷の雰囲気だけでも見てみたい……という方におすすめなのが、元お茶屋の「志摩」と「中や」である。
まず、国指定重要文化財の「志摩」から。
こちらはひがし茶屋街の目抜き通りに位置している。
文政三年(1820)に建てられたお茶屋ということは、ここが東廓として整備されてすぐの建築ということだろう。
よく維持管理されており、また江戸時代から今日まで手を入れられたこともないらしい、貴重な建築だ。中に入って直接内部を見学することが可能なのがありがたい。
入ってすぐの階段を登って、2階に上がると、控えの間を含め7部屋の和室が連なる。
客が床の間を背に座ると、正面が必ずひかえの間となる造りになっており、襖をひらくと、芸妓の舞や遊芸が見られるという仕組みだそうだ。
ここがお茶屋として営業していた頃には、琴、三弦、舞、謡曲、茶の湯、和歌、俳諧などなど……たくさんの芸事を交えた、遊興の文化が深まっていったのだろう。
ひがし茶屋街の(特に目抜き通りの)お茶屋は、よく花街・色街で見られる高欄が2階に見られないが、中庭を見下ろす内向きの窓には、美しい高欄が設けられていた。
ここから夜の中庭の灯籠や紅葉を見下ろすのは、さぞ風流だったことだろう。
上がってきた時とは反対側の階段から降りると、台所や帳場などの機能的な場に繋がっている。
お茶屋は高級な御膳を外注することも多いが、この「志摩」には竈や井戸、石室(冷蔵庫のような空間)も設けられているのがすごい。
帳場の奥の「みせの間」は資料室になっており、書画や当時の備品が展示されていた。
こんな美しい場所で、こんなに美しい物を見ながら、美しい芸妓を見ることができたのか……とため息の出るような展示の数々。
さすがの重要文化財だ。
お茶屋を見学できるのは志摩だけではない。
志摩のある目抜き通りの1本裏手の通りには、元「中や」というお茶屋だった建物が「お茶屋文化館」として公開されている。
志摩とは異なり、ひがし茶屋街に多い真っ赤(であったであろう)な外観。
こちらも文政三年(1820)の建築だ。
こちらは志摩の別館として紹介されることもあり、内部の造りや展示方法はかなり志摩と似通っている。とはいえ、そもそもお茶屋というのはどこもこんな感じだったのだろう。
玄関を入るとすぐ左手に階段が見える。2階へ登るとお座敷だ。
(2階はカメラでの撮影が禁止だったので、スマホ撮影の写真を載せる。)
華やかな壁色の座敷が連なるのは志摩と同じだが、メインの座敷は3部屋で、それとは別に「はなれ」の座敷を有しているのが独特だ。
このはなれが特別で、群青色の壁紙が鮮やかな、不思議な空間となっている。
お茶屋建築のならいとして、階段は2箇所。奥の階段を使うと、志摩と同じように茶屋の裏手に降りられる。
階段を降りると、中庭の脇の廊下に出る。中庭は美しい飾りの入った丸窓と赤い壁に囲まれ、水琴窟の配置された可愛らしい庭になっている。
館内に入ってすぐ登った階段の裏手には、ちょっとした台所があり、中ほどの和室には様々な展示物が陳列されている。
志摩もお茶屋文化館も、どちらも似た造りではあるが、それぞれ個性もあって面白いので、ぜひそれぞれを見学してみてほしい。
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さて、お茶屋の世界にたっぷり浸ったあとは、再び街中を散策してみる。
お茶屋文化館の近く、ひがし茶屋街の西端には、こんな建物がある。
大規模なお茶屋のようなこの建物は、今では東料亭組合の建物として登録されており、お茶屋や芸妓の取りまとめ的な機能を果たしているようだが、遊郭時代は「検番」として機能していた。
検番というのは、江戸時代においては芸者屋を取締る建物で、芸者の取次、送迎、玉代の勘定などを行う場所を指した。また、明治以降は料理屋・待合・芸者屋の業者組合事務所の俗称であり、芸妓の斡旋や管理、金銭管理を行っていた。
このように「検番」は、いわば遊郭全体の見張り番・お役所的な立ち位置にあったので、遊郭の出入り口のそばに設置されることが多かった。
東廓においては、この建物だけでなく、昔は東端にも検番が設置されていたらしい。
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ここで一度整理しておかなければならないのが、遊郭、花街、色街の区別である。
東廓は元は遊郭として作られた遊里である。遊郭は廓(くるわ)とも呼ばれ、周囲を堀や塀で囲まれ、一般の街とは切り離された、遊興の領域だ。
吉原で有名なように、江戸時代はこのような空間では、芸(芸者遊び)と色(肉体関係を伴う男女の関係)はセットであることがほとんどだった。
当時このような女性は「遊女(ゆうじょ)」と呼ばれたが、時代が下って、芸と色が分けて語られるようになると、芸を売る女性は「芸妓(げいこ)」、色を売る女性は「娼妓(しょうぎ)」と呼ばれるようになった。
今でこそ芸妓さんは芸だけを売るものであり、肉体的なサービスは行わないという事実が一般化しているが、一昔前までは渾然一体であることが多かったのだ。
これは全国的な傾向ではあったが、特に金沢においては、昭和時代に書かれた遊郭巡りのバイブル「全国遊廓案内」の金沢の項に、この事実が明確に記されている。
「芸妓」を名乗る、芸を身につけた女性が普通に夜にも付き合うため、体を売るだけの「娼妓」は逆に少ない、とも記されている。
このように芸と色は長らく渾然一体となってはいたが、明治以降、日本に西洋文化が流入して売春に対する風当たりが強くなるに従い、ある街では引き離されたり、ある街ではまた融合したり、と複雑な変遷を見せる。
筆者はこのような街のカラーに従い、芸事の披露を主としていた街を「花街」、身売りを主としていた街を「色街」と便宜上呼び分けている。
花街はたとえば京都・祇園や上七軒、色街はたとえば飛田新地や五條楽園などが挙げられるが、時代によっては花街も色街の側面を持っていたり、色街にいる女性が芸妓としての芸を身につけている、ということも往々にしてあったという。
これらの区分に則して言えば、「金沢”東廓”は遊郭として生まれ、昭和頃まで芸と色の渾然一体となった花街と色街両方の特徴を有していたものの、現代においてはすっかり芸一本の花街・”ひがし茶屋街”になった」と言うことができるだろう。
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そんなわけで、ひがし茶屋街も目抜き通りの周辺こそ、花街らしい茶屋建築の連なる風景だが、少し外れの方へ行くと、色街に見られるような意匠を持つ建物が残っているのが、目につくようになる。
これは、次の記事でもご紹介しているが、愛宕遊郭という、東廓の北側にできた遊郭だった土地が、修景整理もかねて現在のひがし茶屋街に組み込まれたという歴史にもよるらしい。
この愛宕遊郭は、東廓が花街に変遷してきた一方で、色街に寄っていたエリアだったようなので、その影響があるのだろう。
※愛宕遊郭について詳しくはこちら↓
こちらは東廓の北端にあたる場所に建つ、木造3階建て。
格子戸の美しさは目抜き通りの茶屋と変わらないが、少し奥まった玄関や、足元の色鮮やかなタイルなど、色街によく見られる意匠にドキドキさせられる。
筆者は個人的に、このような「独特の色」が見られる赤色な風景が大好物なので、この建物を見つけた時は声が出そうになった。
こちらも北側にある3階建て。東廓の目抜き通りの茶屋は全て2階建てに揃えられているので、こんな高層建築は「楼閣」の趣が強く、艶を感じてしまう。
他にも、ちょっと洋風な張り出し窓のような意匠が見られたり……
松の木の見事な純旅館風の建物があったり……
昭和な風合いたっぷりな商店が見られたり……
「ひがし茶屋街」と括られるエリアにも、よく見ると通りごとに、趣の異なる建物を見ることができた。
ちなみに東廓の北東には、宇多須神社という立派な神社が鎮座している。
宇多須神社は通称毘沙門さんと呼ばれ、金沢でも有名な尾山神社と由緒に関わりを持っている。
この神社では節分の日に、ひがし茶屋街の芸妓さんたちによる舞の奉納と豆まきが執り行われるそうで、大変艶やかだと聞く。一度は訪れてみたい。
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茶屋街の周辺をぶらぶら歩いていると、味わいある民家の硝子戸に「三味線をひいてみませんか」という張り紙を見つけた。
中に入ってお婆さんに声をかけると、2階で好きに弾いてみて、とのこと。
2階の座敷らしい和室には、三味線と基本的な弾き方の指南書が置いてあり、初めての経験ながら大変楽しく弾くことができた。
花街の古民家に響く三味線の音は、しみじみと味わい深い……この建物はどうやら和楽器を扱う商売をされていたようで、他にもたくさんの三味線や和楽器が置いてあり、拝見することができた。
べんべんと三味線を弾いていると、お婆さんがお抹茶と、梅の形の落雁を出して下さった。なんともほっこりした、素敵な文化体験だ。
ちなみに、落雁は金沢の名物である。
ほろほろした食感の甘い砂糖菓子で、老舗の諸江屋が有名。諸江屋はあちこちに支店があり、筆者が幼い頃にも何度か買いに訪れた記憶がある。
季節ごとに美しい小箱で落雁のセットが販売され、お抹茶にはぴったりのお茶請け。
諸江屋で正月に販売される辻占には、遊郭にも関連した文言が記されているとかいないとか。
落雁だけでなく、ひがし茶屋街は金沢グルメを一通り楽しむにもぴったり。
こういうところが、花街や遊郭に詳しくない人間でも楽しめる、街づくりの工夫であろう。
金沢名物ののどぐろの御膳や、金沢の伝統的な金箔を一枚のせたソフトクリームなど、花街そっちのけの観光客然で楽しませて頂いた。
ひがし茶屋街は現代の金沢市街地からは、浅野川大橋を渡って赴くことができる。
この橋は近代建築らしいデザインのアーチ橋で、夜の姿も美しいのでおすすめだ。
この橋を南へ渡ったところに、主計町という茶屋街があるのだが、それについてはまた次の記事で……。
ひがし茶屋街には東側にも小さな梅ノ橋という橋がかかっており、こちらは昔ながらの風情ある、木造風の橋である。
東廓は堀に囲まれた遊郭ではなかったため、遊郭内に入るために橋を渡ることは必須ではなかったが、多くの町民はこれらの橋を渡って、検番が近くに建つ門を通って遊興に赴いたのだろう。
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金沢に住んでいたのはかなり幼い頃だが、お茶の香りと落雁の味、そして古い木造家屋の屋根に降る雨音は、よく記憶に残っている。
直接東廓や他の遊郭跡に赴いたことはなかったが、街全体から醸し出される、独特の時代がかった空気が、私の「和風好き」嗜好を生み出す一片となったことは確かだ。
上述の歴史も影響してか、花街は色眼鏡で見られることもあるが、こういった歴史の名残を美しく残し、現在も多くの人を楽しませている金沢という街に、私は誇りを持っている。
ページの初めに記したように、金沢にはあと4つの遊郭があった。そちらもおいおい、ご紹介していきたいと思う。