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【赤色巡りレポ③】 大阪・堂島新地 【曽根崎心中の舞台→北新地】
吉原、島原ときて、江戸期の三大遊郭でいけば次は大阪・新町遊郭であろうと思われる方が多いと思うのだが、そうは行かないのが大阪大空襲。
戦後も赤線として営業した吉原や、空襲を受けなかった京都島原と違い、大阪は空襲の被害を大きく受け、また他に大きな色街が多かったこともあり、三大遊郭の3つめは綺麗に地図から消えてしまったのである(もちろんいくつか所縁の場所は遺っているが)。
そういう事情もあり、大阪でまず1番に行った赤色探訪は旧「堂島新地」。
……ただ単に、この頃筆者が堂島新地を舞台とした「曽根崎心中」にどハマりしていただけなんですけどね。
「曽根崎心中」とは、かの近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃のお話で、簡単に言えば「相思相愛の遊女のお初と客の徳兵衛が、結ばれない現世を悲観して心中を遂げる」という悲恋物語である。
この作品、江戸時代当時に世間に大流行し、登場人物に倣った心中まで流行るほどだったらしい。浄瑠璃は馴染みのない方も多いだろうが、世間と、後世の様々な作品に影響を与えた名作なのである。
(ちなみに、近松門左衛門は他にも「心中天網島」など、自作の中で多くの遊郭・遊女を描いている。こちらの縁地巡りもいずれしてみたい。)
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資料も見られるほか、土産として「近松せんべい」も売られていた。
そんな名作の影響を受けた音楽の一つが、デッドボールPによるVOCALOIDのオリジナル曲「曽根崎心中」。独特のビートに曽根崎心中のセリフがそのまま当てられ、古今の文化の融合を楽しめる音楽になっている。
私が当時いかにこの曲にハマっていたかというのは置いておいて。
実は「曽根崎心中」は、実際の事件を題材にした物語。堂島新地、天満屋の女郎・はつと内本町醤油商平野屋の手代・徳兵衛が曾根崎村の露天神の森で情死した事件をもとに作られている。
この堂島新地と、当時存在した曽根崎川の対岸の曽根崎新地とが、今や繁華街となっている北新地の大もととなっているのだ。
(詳しいストーリーはぜひ原作か、これをもとにした作品を視聴してみてほしい。)
……この辺りを踏まえて、曽根崎・堂島新地の一部であった北新地、北新地やおはつに所縁のある寺と、お初天神こと露天神社を探訪してきた。
以下に、昔の曽根崎川と関連地を加筆した地図を載せておく。
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なお、「新地」とは主に関西で、遊郭などの遊所を指す際によく使われる言い方である。
北新地
まずは現在の北新地から。
北新地とは、大阪の2大繁華街(いわゆる「ミナミ」と「キタ」)のうち「キタ」と呼ばれる方の繁華街であり、ミナミに比べると範囲は狭いが、高級感のある店やサービスが売りのエリアとなっている。
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無数のクラブやバー、ラウンジの入ったビルが立ち並び、合間に花屋やドレスショップ、高級料亭なども多い、大阪でも有数の歓楽街だ。
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最寄駅はJRの北新地駅。とはいえ、梅田の諸交通機関からも十分に歩ける距離である。
橋の跡
上地図を見ればわかるように、北新地は、近代以前の堂島新地・曽根崎新地を基盤として、それらより少し北の、二新地の東側に栄えている。
昔は北新地駅と北新地の間にあたる土地に曽根崎川が流れており、堂島新地はその曽根崎川と、南側の堂島川との間に挟まれた中洲にあった(曽根崎新地は曽根崎川の北側対岸)。
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このような立地のため、新地に渡るための橋が各所にかけられていて、その橋ごとに筋や区画が名付けられていたようだ。
曽根崎川が、明治42年の「北の大火」と呼ばれる火災で瓦礫だらけになった後に埋め立てられたため、風景も大きく変わってしまったが、当時の名残を探して歩いてみよう。
堂島新地の北を流れていた曽根崎川には、堂島小橋、浄正橋、梅田橋、桜橋など、たくさんの橋がかかっていた。
当時の川筋沿いに歩くと、いくつか名残が見つけられる。桜橋(櫻橋)と浄正橋は石碑が残されており、わかりやすい。
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また、助成橋や汐津橋などは道筋の名前となって残っている。
埋め立てられた曽根崎川は、またの名を蜆川といった。蜆川の名前を残す石碑が、北新地の東端にある。
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また、埋め立てられた北側の曽根崎川と違い、南側の堂島川は今も中之島との間に滔々と流れている。
堂島大橋をはじめ、たくさんの橋が昔のままの場所にかかっている。
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どれも現役で水の都に活きている。
川のあちこちに橋がかかる様子は、大阪が水の都・なにわと呼ばれていた頃の姿を偲ぶことができる風景だ。
曽根崎川が埋め立てられず残っていたら、こんな感じの風景が北新地のあたりにも広がっていたのだろうか……。
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当時の大阪の地形と、川の多さがよくわかる。
こうして昔の地形と今の風景を照らし合わせながら歩くのはなかなかに楽しいので、歴史を楽しむ手段としておすすめだ。
市場の跡
南北の川の水運によって栄えた当地に、新地が出来たのは元禄元年。
その繁栄ぶりは相当にすごいものだったらしく、中洲には新地以外にも蔵屋敷が立ち並び、元禄10年には南側に米市も立って大変栄えたという。
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当時の様子を描いた絵に思い馳せる。
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商業の街・大阪の発展の一端が、この場所にあったと言っても過言ではない。
辺縁ゆかりの寺院
一通り周辺の川(跡)を歩いたあとは、所縁の場所へ行ってみる。
大阪の歴史は新地を中心に、あるいは新地を包含して栄えたものだったと言っても過言ではないので、所縁の場所が多いのである。
浄裕寺
そのひとつが、梅田橋の北側にあった浄祐寺。現在の最寄りは阪神福島駅になる。
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新地の遊女たちの信仰を集めていた寺だそうで、境内には「五大力の墓」と呼ばれる墓もある。これは1737年、色恋その他を巡って薩摩の武士に殺された、曽根崎の遊女・菊野、とめ、くら、きよと、関係者大和屋重兵衛の五人の墓だそうだ。
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このストーリーは当時センセーショナルだったようで、脚色されて歌舞伎の「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」の筋書きとなったようである。
詳しい話に興味のある方はぜひ調べてみてほしい(結構切ない……)。
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新地の歴史と所縁はあるのだろうか。
久成寺
また、キタから少し場所は離れるが、谷町の南にある久成寺には、「お初の墓」と呼ばれる墓碑がある。
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これが「お初の墓」だと言われている。
境内に貼ってあった新聞の切り抜きによると、この久成寺はお初の務めていた天満屋が檀家だったこともあり、昔からお初の墓があると言われていたが、墓石は長いこと行方不明だったそうだ。
それを不憫に思った住職が、お初の300回忌とされる2002年に合わせて再建した墓石がこちら。戒名は檀家の方が古い書物から見つけたとか。
曽根崎心中及びその元の逸話が、地域にも親しまれていることがよくわかるストーリーだ。
(……とはいえ、「お初の墓」と言われるのは実はここだけではない。他の場所もそのうち巡ってみたい。)
お初天神(露天神社)
以前紹介した吉原や島原がそうであったが、新地と所縁が深いのは神社であることが多い。神社の参道などに花街・色街が作られることは多いが、寺の門前町では(廃仏毀釈以前の昔はあったとしても残っているものは)多くない。
仏教では性的な享楽が厭われるからか、近代以降も寺と新地が関係を持っていることはあまり多くないのだ。
お寺が赤色の歴史に関わってくる場合、それは吉原の浄閑寺や今回のように「墓場として」という場合がほとんどである。
一方、「曽根崎」「お初」と聞くと多くの人が連想するであろう神社がある。露天神社ことお初天神だ。
遊女「おはつ」の名を冠したお初天神は、前述した通り、境内ではつと徳兵衛が情死(実際のふたりも曽根崎心中の作中でも)した、深い所縁のある場所だ。
位置は堂島新地からは少し離れており、一般的な最寄駅は大阪メトロ谷町線の東梅田駅になる。とはいえ北新地からなら「変に乗り換えに苦心して電車を探すくらいなら、歩いた方が早い」程度の距離である。
このことを考えると、堂島新地のしじみ橋から出発した二人が心中するには、ちょっと近すぎる場所のような気がしないでもないが……当時はこの露天神社の境内が今よりも広く森になっていたことを思うと、遠くに行く気はないほど追い詰められた二人が、人目を偲んで果てるにはちょうど良い場所だったのかもしれない。
東梅田駅からお初天神までの参道は、「曽根崎お初天神通り」というアーケード街になっており、あちこちに見られるおはつと徳兵衛のモチーフからも、「曽根崎心中」がこの地のアイデンティティに大きく寄与していることがよくわかる。
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アーケード街の南端に、露天神社の西側の入り口があり、鳥居をくぐれば境内である。
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作中で「曽根崎の森」と謳われた露天神社の境内も、今やすっかりビルの谷間。とはいえ、高層ビルの密度が濃い梅田においては、この空間だけが昔ながらの高さを残し、空の広さを確保している。
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今は大きな木が数本、木陰を供してくれている。
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下水に集まるネズミなどを食べているようだ。
昔ながらのこの場所は、ビルの立ち並ぶ大開発を免れ、人々の憩いの場所となっているようだ。
露天神社自体は「曽根崎心中」よりずっと前、1300年前まで由緒があるようなのだが、境内を見回すと想像するよりもずっと多く、おはつと徳兵衛をモチーフとしたオブジェや石碑が見られることに驚く。
のみならず最近では、二人の悲恋(ではあるが魂の上では最後は結ばれるという結末)にあやかってか、「縁結び・恋愛成就の神社」として有名になっているようだ。
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カラフルな赤やピンクの絵馬、お守り、そしてカップル用の顔出しパネル……境内にいらっしゃった地元の方だというご年配は「昔はこんなのも全然なかったんだけど……これも時代かねぇ」と笑っていらっしゃった。
どんな形にせよ、過去の歴史や文学が親しまれ残っていくというのは、個人的には素敵なことなのではないかと思う。
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露天神社周辺
露天神社にはいくつか入り口があるが、南側のものが正門にあたる。
鳥居も門も立派なのだが、よく見ると、そのすぐ東側にラブホテルが立っている。
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先に述べた「寺と神社の違い」というわけではないが、こういったところが神社の大らかさだなと思わないでもない。
また、境内の東側には細い路地のような入り口があり、こちらは数年前まで、かなりディープに入り組んだ小路になっていた(下写真左)。
今では小路の南側が更地になり、ディープさは薄れたものの、飲食店やバーはまだまだたくさん営業しているようだ。
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今でもディープな飲み屋街は存在している(右)。
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店や空間がなくなっていくのは寂しい部分もあるが、新しく生まれる楽しみもある。
この飲み屋街の一角に最近、「ルミステール お初天神」という素敵な喫茶店ができたので、お邪魔してきた。
赤色巡りとは少し空気がズレるが、最後に紹介しておこう。
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もともとこの場所にあった蔵(Googleストリートビューで遡ると、数年前までは普通の蔵である)を改装した店舗で、外観は眩しいほど白いが、中はレトロでシック。
珈琲はもちろん、スイーツや軽食も大変美味しいのでおすすめだ。
見どころたっぷりの大阪キタ巡り、美味しいおやつも頂いて大満足だった。
節分 お水汲み祭り
北新地では節分の日に、堂島薬師堂を中心とした「お水汲み祭り」という、ちょっと有名なイベントがある。
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これは、堂島新地の中心にあり、現在も地域から親しまれている薬師堂で、祈祷されたお香水を汲む「お水汲み」をメインとしたお祭りで、北新地の街中を舞台に、鬼やお化け・龍が練り歩く行列があるのが見どころ。
「お化けの練り歩き」は江戸時代から続く花街の風習らしく、節分の夜にいつもと異なる仮装をすることで、鬼を遣り過ごすのだそうだ。
芸妓が丸髷を結って新造を装ったり、歌舞伎の男役に扮して座敷を回るなどの風習が昭和30年代頃までは各地の花街にもあったようで、それを踏襲・アレンジした現代のお祭りとなっている。
祭り自体は一日かけて行われるが、一般客のお目当ては夕方以降であろう。薬師堂前にある、白龍弁財天の使いだという龍を中心とした街中巡行が見られるのだ。
まず初めに、薬師堂の隣の堂島アバンザで、関係者による舞台挨拶がある。
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伝統的な和風デザインを踏襲しつつも、煌びやかに現代アレンジ(特にメイク)もされている様々な仮装姿が見られる。
その後、行列はアバンザを出発し、ネオンの明るい北新地の街中を練り歩く。季節違いのハロウィンのようで、とても楽しい。
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新地のあちこちに撒かれた豆が散らばり、鬼やお化けが闊歩し、餅をついたり酒を飲んだり。
普段から北新地の夜は華やかだが、この日は皆がちょっとハメを外して一体感を持って楽しんでおり、昔ながらの花街らしい、地域の結束力のようなものも楽しむことができた。
単なる繁華街ではなく、こういった花街の来歴を思わせるイベントには心が熱くなってしまう。
筆者も何度か訪れているが、寒い冬におすすめのイベントだ。
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イベントとは直接関係ないが、こちらは夜の北新地で見つけた小路「蜆楽通り」。字面からわかるように、かつての蜆川に由来している。
曾根崎恵美寿を祀っており、赤い提灯が魅力的。振る舞いの甘酒を飲みながら歩いたのは良い思い出だ。
ちなみに、全くどうでもいい話だが、北新地は個人的に馴染みのある場所である。
若い頃、何かの折でクーポンを手に入れた脱毛サロンが(なぜか)北新地に本店を持つ店で、数年間定期的に通っていたのだ。
今となっては名前も思い出せないが、部屋の真ん中に噴水があったりしてやたらキラキラしていたのを覚えている。あの頃は全く知らなかったのだが、北新地のお店なのだからそれはそうかと今は納得。
若い頃から北新地では、つるとんたんが安くて美味しくて大好きだったのだが、いつかこの辺りの料亭にもお邪魔してみたいところである。
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蜆川にかけて、蜆入りを選んでみた。
その時は(そんな機会があればだが)、またこちらに加筆していくことにする。