1「吉田喜重」原爆に翻弄され生きる女たち
「ペイル・ビュー遠い夏」はノーベル平和賞のカズオ・イシグロの『遠い山なみの光』を原作に、吉田喜重監督・脚本で撮影直前に中止となった『ペイル・ビュー 遠い夏』の台本ですが、その台本のシーン13 の佐知子の家の居間に出割れた鏡が出て来る。それは荒れ果てた庭にも夏の陽差しがあふれ縁側をはさんだ居間の なかは薄暗く、陰気に感じられる。わずかに並べられた家具の なかで、ひときわ眼を引く鏡台。だがその表面は大きくひび割れている。団扇で風を送りながら、悦子はその鏡台を見つめる。お茶を持ってはいってきた佐知子が訊く。
佐知子「なに見てるの―――鏡?」
悦子「立派か鏡台なのに―――」
佐知子「万里子が割ったの。ヒステリーを起こして」
悦子「あげん小さい子でも、ヒステリー起こします?」
佐知子「わたしが割ったと思ってるのね」
悦子「――(黙ってほほ笑む)」
佐知子「死んだ主人が買ってくれたの。たったひとつの形見―――」 悦子「(冷えたコップのお茶を手にして)いただきます(そしてひとく飲むと) ご主人は戦争で?」割れた鏡はここでも居間を写している。
全く別物だが鏡の女たちでは娘は家出して記憶喪失になっている。
鏡に映る本当の自分。記憶お亡くした女の追憶は殺人者なのか。娘の記憶は母の記憶と交錯する。昭和20年8月15日の惨事が、人生を狂わせる。割れた鏡の向こう側だけに、本当にことが、隠れている。あの海で泣いてる娘はだれ。私はまた、あの日を探す旅に出るのだろうか。全てを捨てて。置き手紙もなく。記憶もなく。置かれおくものは何も無い。ただ割れた鏡だけが全てを知っているのだ。母子手帳をお守りとして。母だけがむすめの帰りを信じているのだった。
制作公開 2002年 ‧2時間 9分作品
#69石川播磨火の山荘から
浜辺の病院ベランダの景色
#73リーガルロイヤルホテル
3006号室正子の部屋
物語
東京郊外の閑静な住宅街に住む川瀬愛。以前は亡き夫と娘・美和の3人で暮らしていた。美和は20歳の時に家出をし、4年後に帰ってきた。しかし、美和は娘の夏来を生むと、夏来を残し母子手帳だけを持って再び姿を消した。24年後、愛おばあちゃん(母)のもとに、市役所から連絡が入る。愛は夏来のおばあちゃん。正子は記憶喪失の女で娘美和?。夏来は失踪した女正子?の娘の子供。郷田は知り合いの叔父さん
#56
愛「いいえ、わたしは夢を見ているだけで幸せです。あの人が、美和であ
ってほしいという夢」
#57川瀬家・二階
郷田は口を閉ざすしかない。
夏来の部屋。正子が庭に面した窓辺にたたずんでいる。 夏実が背後から声をかける。
夏来「この部屋は、母が使っていたころと、同じだそうです」
正子は顔を左右に振ると、言う。
正子「美和さんの写真、ありません?
わたしかどうかわかるわ」
夏来「残っていません。それを見て、
わたしが恋しがるといけないと思って、ママが処分したそうです」
正子は振り返ると、言う。
正子「あなたは、お母さんを恨んでいることでしょうね」
夏来「いいえ。あなたが母であってもあっても、あなたは他人ー他人です」
正子「そうねあなたを産んで、いなくなったてですものね」
夏来「わたしがこうしてお会いしたのは、興味があったからです。女としてのあなたに」
正子「女としての わたしに?」 軽く声を立てて笑うと、正子は駅く、
正子「わたしのような女の、どこに興味があるというのかしら?」
夏来「過去の記憶がなくても、たったひとりで生きてきた―――」
正子「わたしは男に頼るしかない、だらしない女よ」
夏米「あなたがうらやましいんです。記憶がなくっても、生きてゆけるあなたが」正子はそれに答えず、静かに語りだす。
正子「いいえわたしにも、かすかな記憶があるわ。そう、病院。海のほとりに、病院らしい建物があってーきっと思い出したくない、記憶なんだわ」
夏来「どこのか、覚えていません?」 正子はつぶやくように言う
正子「ヒロシマ、広島よ」
24年前に家出した娘かもしれない女性が、記憶喪失になっている。かすかな記憶に広島の病院。話はついにあの記憶。原爆の日に繋がっていく。たんたんと会話形式で進む映画は舞台を見ているだ。
#94川瀬家居間
原爆の後遺症が伝染するのを恐れて、あの人は幼いあなたを抱こうとはしなかった。障子越しに映るあなたの影を眺めながら、あなたに話しかけたの」
言葉もなく聞く正子。
縁側にいる夏来の影も動かない。
愛は正子のほうを振り返って言う。
愛「あなたはこの家を出てゆくとき、わたしに言いました。わたしを生ん でくれなかったらよかったって。でも、原爆による苦しみ、悲しみに、耐えるには、誰かと愛しあうしかなかったのよ」障子の影に眼を移しながら、愛は言う。
愛 「あの人に抱かれているとき、すべての悲しみから逃れることができた。
それが女、わたしという女」
#81父のことあの日のこと
ピーターソン大尉を原爆から救った井沢が、捕虜虐待の罪で起訴されたの。 でも一年後、あの人は原爆後遺症とわかり、釈放された」
愛は正子のほうを見ながら、手を差しのべる。 その手を握る正子。
愛「それから、あなたが生まれた――あの人は、子供を産むことに反対だ った。被爆は子供に遺伝すると言われ、差別されたの。あなたの父が
誰であったか、決して話すな、伏せなさい―それがあの人の遺言だ った」
いつしかおびただしい数の灯篭が、川面を覆いつくすようにし て流れ、あたかも息づくかのように揺らめく。
愛は改まった口調で、正子に言う。
愛「こうして語る日が、いつか来ると思っていました。あなたにすべてをはなし
つぐないがしたかった――この母を、許してください」 いま川面には、幻影としての数かぎりない灯篭が、いのちあるかのように揺らめきながら、彼方に流れ去ってゆく。
ピーターソン大尉は生きていた
アメリカはピーターソンの被曝を公表するのを禁じた。
母子手帳を持つて正子がアパートを出る。
#118川瀬家の居間
郷田「あの人は、奥さんとお嬢さんに感謝していたんです。ほんとうの家族 のように振舞っていただいて。それでも記憶がよみがえらない自分に 苦しくなり、思い出として、あの母子手帳を持って失踪した」のです。
愛はほほ笑みを浮かべると、おだやかな表情で言う。
愛「帰ってきます、あの人は。あの母子手帳を大事にしてくれているかぎりあの人とわたしたちとのあいだが、他人になったわけではありません。かならずあの人は、帰ってきます」
そう言って、いま一度ほほ笑む愛。
その姿が、応接間のひび割れた鏡に映し出されている。
日が傾くなか、郷田が帰ってゆく。
#120ラストシーン
川瀬家・居間
愛がひとり、後ろ姿で座っている。
西日を受けて、明るさを増す白い障子。夏来がはいってきて、愛の背後に座ると、話しかける。
夏来「ママは、ほんとうにあの人を、お母さんだと思っていたの?」
愛は答えない。
夏来「それとも、そう信じたかっただけ
愛はようやく答える。
愛「神さまだったのね、あの人はふと現われて、ふと消えてしまう、神さま」そう言いながら愛は、庭に面して閉ざされた障子のほうを見つ める。
陽差しに白く映える障子の空間。
愛がつぶやくように言う。
愛「あれは、幼かったころの美和。いいえ、夏来、あなた。いいえ、やがてあなたが生む子供の影だわ」
障子に映る幼い女の子の影は、いっそう甲高い声を上げ、楽しげに遊戯をする。ふたたび影を見つめる愛と夏来。だがその影は、強く陽差しを浴びて、障子がいっそう白く、まばゆく輝くあまり、もはや愛と夏来は、その影を見ていること ができない。そして、白一色と化す障子の空間。吉田喜重2001.1.8に書き終えた。
秘密を持つて生きる女は鏡を見るのが怖い。白雪姫の魔女が、鏡よ鏡。教えておくれと唱えるように。割れた鏡には、歪んだ自画像。写ってしまうの本当の自分。女は人生を受け入れるが、ついのぞく鏡に本当の自分を発見して、ゾーッとするのだろう。それでも生きていくのだ。あの日あなたが割ったひび割れた鏡よ。答えておくれ、秘密にしたことへの罰なんでしょうか。女三代に渡る罪はキノコ雲によって呪われたのでしょうか?鏡の女たちは、それでも生きてゆかなければならないのでしょうね。カズオ・イシグロの「遠い山なみの光」へと続く。(終)