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加藤和彦 ドノバン 「ミッドライフ クライシス」

「人生の曲がり角に訪れるある事情」について 
「多分ね 本音と言われても困るんだけど、まあ好きなんですね 音楽が」と語る。平成21年に亡くなった音楽プロデューサー・加藤和彦さん。日本を代表するヒットメーカーとして音楽史に大きな足跡を残した。昭和22年京都生まれ。龍谷大学時代に北山修さんをはじめとする仲間たちとザ・フォーク・クルセダーズを結成した。「帰ってきたヨッパライ」や「悲しくてやりきれない」などをミリオンヒットさせた曲を生んだ。解散後も、泉谷しげるや吉田拓郎など、多くのアーティストに楽曲を提供、ヒットメーカーとしての地位を揺るぎないものにした。昭和47年に結成したサディスティック・ミカ・バンド

黒船

 日本という枠を飛び出し、海外でも高い人気を集めた。その後も、歌舞伎や映画、ゲームの音楽など幅広い分野で活動を続けた。斬新でユニーク、遊び心あふれる音楽性で時代の先頭を走り続けた。「帰って来たヨッパライ」で、280万枚という大ヒットを飛ばし、日本初のミリオンセラーに輝いた。作詞、作曲からジャケットのデザインまで、加藤を中心とした自作自演のスタイルは、作曲家が手がけた曲を歌手が歌うという従来の音楽界の通例をぶち破り、シンガーソングライターという存在を世に知らしめた。「ザ・フォーク・クルセダーズ」解散後も、加藤の才能は進化し続けた。名曲「あの素晴しい愛をもう一度」、「サディスティック・ミカ・バンド」、スーパー歌舞伎、ゲームソフト、映画など幅広く音楽を手がけ、作曲家として、またプロデューサーとして手腕を発揮した。「後ろは振り返らない。同じことはしない」が、加藤さんのモットーだったという。寡黙で音楽に厳しく、過去の栄光に縛られることはなかった。常に厳しいまなざしで自分を見つめ、前へ前へと進んできた。スタイルは変えずに、自分に厳しく、独自の道を歩み、孤高の人で、先駆者で、どこまでもカッコ良い。加藤さんの遺体は花に囲まれて、頭のところに遺影とホテルで書き残した遺書が置かれた。遺書は参列者に読まれるように飾ってあり、「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」との趣旨が記されていたという。ある参列者は「音楽界で生きてきた自己の存在を否定しているような印象を受けた。うつで通院していたようで、相当悩んでいた印象です」と話した。参列者全員が白いカーネーションを献花した。最後に加藤さんへの別れと参列者へのお礼をかねて北山があいさつに立った。「彼の中には2人の加藤和彦がいました。1人はいつもニコニコ笑ってステージに立っている加藤さん。もう1人は作品作りにかける厳しい加藤。この2人のバランスが彼の天才を作っていた。いつもみんなにいろいろと相談していたが、今回だけはだれにも相談せずに1人で逝ってしまった」との内容を無念そうに話したいう。2009年10月16日(享年62歳)に長野県軽井沢町のホテルで自殺した音楽家加藤和彦さんの密葬が19日、都内でしめやかに営まれた。出棺時には、友人たちが遺体を霊きゅう車に運んだ。3度離婚した加藤さんが最後に同居していた30代の女性が、にこやかにほほえむ加藤さんの遺影を抱いて助手席に乗り込んだ。周囲には一般人でもあり、マスコミの前に出ることを懸念する声もあったが、「悪いことをしているわけではないから」と毅然とした態度でカメラの前に立った。

還暦からの憂鬱があるとしたら
イムジン河の挫折かもしれない

未発売手売りレコード

約1000枚のレコードを自主制作して自ら店頭に陳列した。 日本民間放送連盟の1969年8月21日の調査で千曲正一版は、加藤和彦版とともに「メロディー自体が韓国人にとって屈辱的なもの」であるため「(韓国人の)国民感情を考慮して」要注意歌謡曲とされず放送禁止とされた。
 サトウさん、彼のいるグループ、新曲が出せなくなってしまったんです。新しい曲を持ってきたので、ちょっと詞を書いてもらえませんか?」その若者とは、加藤和彦さん。当時まだ20歳でした
前の年に出した『帰って来たヨッパライ』が大ヒットしたザ・フォーク・クルセダーズ。第2弾としてレコーディングしたのが、引き裂かれた南北朝鮮を歌った曲『イムジン河』でした。ところが、訳詞をめぐってクレームが付き、発売日の直前に販売中止が決定。出荷寸前だったレコードはすべて回収・破棄されることに……。加藤さんもまた「やるせないモヤモヤ」を抱えていたのです。
急きょ、音楽出版社の社長から、新しいオリジナル曲を書くよう言われた加藤さん。社長室に缶詰にされ、曲ができるとすぐ、サトウさん宅に連れて行かれました。その場では特に打ち合わせをすることもなく、挨拶程度でサトウさん宅を後にした加藤さん。1週間後、サトウさんから送られてきた歌詞を見て加藤さんは驚きました。「エ、こんな詞でいいの?」その詞は、自然の風景を眺め、ただ嘆きだけを綴ったものだったからです。ところが実際に歌ってみると、曲にぴったりとはまっている上に、不思議と心に沁みる……「これがプロの詞か……すごいな」と、思わず唸った加藤さん。
一方サトウさんも、曲を聴いて、加藤さんの才能を見抜いていました。「この曲には、聴く人に希望を感じさせる何かがある」と感じたからでしょう。直接的な励ましの言葉を、一切入れませんでした。広島で弟を探したときの「やるせないモヤモヤ」「もえたぎる苦しさ」……そんな嘆きの言葉を並べてもこの若者の書いた曲に乗れば、本当の思いは伝わるはず。

見えないものを見る力

後世に残る名曲は、こうして誕生したのです。加藤和彦が自死で逝った後になってしまったが、故人の発案でパトリック・ヌジェ(Patric Nugie)がロマンチックなフランス語で歌ったバージョンが録音された。坂崎と私がメンバーとなった第四次フォークルによる『若い加藤和彦のように』というアルバム(2013年)に収録されている。加藤和彦という一人の人間が残した素晴らしい愛を我々はもう一度受け取ってみようと思う。ご冥福を祈ると共に、詩を信じれる時代を、望みたいものです。(終)

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