「海は見ていた」 黒澤明vs熊井啓
1994年、世界の大巨匠・黒澤明監督の手により際 作脚本が完成した――「海は見ていた」。
当時、黒澤監督自作31本目として、撮影寸前までい ったこの脚本は、1998年9月6日の黒澤監督の死去と いう悲劇と共に深い眠りについた。
2000年、その脚本に命を吹き込むべくひとりの 監督が立ち上がった――熊井啓監督。 「海と毒築」「帝銀事件・死刑囚」『日本の黒い夏冤罪b」 等の硬派な作風で知られている社会派の巨匠・熊井啓 監督が、尊敬する黒澤監督の万感の想いを引継ぎ映画化を決意する。
黒澤監督は生前、熊井監督と親交が深く、熊井監督 の「忍ぶ川」「サンダカン八番館・望郷」を観て、「女性 を撮るのが上手い」と評したという。
「海は見ていた」の原作「なんの花か薫る」と「つゆの ひぬま」は、昭和を代表する時代小説家・山本周五郎の 「岡場所もの」(同場所とは私娼地のこと)といわれる名作。江戸 の深川を舞台に繰り広げられる女たちの生き様を描 くこの作品は、まさに黒澤監督が熊井監督の為に書き 下ろした脚本ともいえよう。その運命ともいえるコラボレーションが、日本のみなら ず、世界へ発信しうる作品を生み出すべく、始動した
時は江戸。深川の岡場所「葦の屋』。そこでは、まだ年 若いお新や、姉貴分の菊乃が働いていた。お新は若侍の 房之助に恋をするが、身分の違いから失恋し、絶望に打 ちひしがれる。そんな折、不遇な人生を歩んできた良介 という男が現れる。あとは死ぬだけとうそぶく良介 を、お新は同じ哀しみを背負う身として見過ごすこと ができなかった。突然の風により、大洪水が「葦の屋』を 襲う。取り残されたお新と菊乃を助けに来たのは良介 だった。しかし、二人しか乗れない小舟に乗ったのは良介 とお新だった。「ふたりでしっかりおやり」と菊乃は貯め ていた全財産をお新に渡す。屋根の上に一人残された 菊乃は、嵐に磨かれた見事な星空を見上げた・・・。
気風のいい遊女・菊乃を演じるのは、カンヌ国際映画 祭バルムドール受賞作「うなぎ」で主演し、実力派女優 としての地位を確立した清水美砂。また、菊乃を慕う お新を演じるのは、「日本の黒い夏-冤罪―」で報道の在り方に疑問を投げかける高校生役で、観る者に新鮮 な印象を与えた遠野凪子。そのお新にほだされ、再生 する良介を、2世紀の日本映画界を支える俳優、 永瀬正敏が、また若侍の房之助を確かな演技力の吉岡 秀隆が演じる。
スタッフ陣も、美術の木村威夫、音楽の松村禎三、編集の井上治、照明の矢部一男、撮影の奥原一男、録音の 小川武、衣装の黒澤和子、監督補の鈴木康敬など一流 の面々が顔を揃え、熊井監督を支える。 木村威夫が調布市・神代植物公園に建てたセットは、 2001年4月20日より東京都が開設した「東京ロケーションボックス」の協力のもと撮影される。 2002年。 巨匠から巨匠へ―魂のリレーー。 日本から全世界に向けて、映画史に残る新たな「傑作」 が誕生する。クランクインは7月2日、クランクアップは9月中旬、 2月完成予定。2002年全国ロードショ➖(日活創立90周年記念作作品プログラム解説より)
「物語」
れにも岡場所(私婚地)がある。裏手には海まで葦が生 い茂る湿原があり、そこにはその名前の通り。葦の屋” があった。そこで働くまだ年若く器量良しのお新 (遠野凪子)は、おかみさんや姐さんたちから「客に惚 れてはいけない」とことごとく教えられてきた。
ある日お新は、身なりも良く、口のききかたもうぶ な若侍・房之助(吉岡秀隆)が、喧嘩をして逃げてきた ところをかくまってやる。房之助はかばってくれたお 新がその後も忘れられず、陽当の身でありながら通い 続ける。初めはこの社会の掟を守るつもりのお新だっ たが、「こんな商売をしていても、きっぱりやめれば汚 れた身体もきれいになる」という房之助の言葉に心動 かされる。
その言葉に感動した姐さんたちが一肌脱ぎ、お新の客を引き受け、彼女の恋を後押ししてやるようにな る。特に武家の出といわれている菊乃(清水美砂)は仲 間からも一目置かれる姐さんで、ヒモの銀次(奥田瑛二) の身勝手さに悩まされている分、お新の初々しい恋を 暖かく見守る。また、菊乃は、面倒見が良く優しいご 隠居の善兵衛(石橋蓮司)からも所帯を持たないかと 言われているが、なかなかその決心がつかなかった。
ある日、しばらくぶりに来た房之助は、晴れやかな 表情で「勘当も解かれ、今度、許嫁と祝言をあげることになった」と報告する。房之介はお新を妹のように慕っていただけだった。
絶望にうちひしがれていたお新に、良介(永瀬正敏) という男が現われる。不幸な生い立ちのお新には、良介もまた自分と同じ深い悲しみを背負っていることが わかる。自暴自棄になり、もうあとは死ぬだけだとう そぶく良介に、お新は一緒に生きていこうと励ます。 す。そんなお新に「どうせそんな男はヒモになるのがオチだ」 と、菊乃はさとす。一方、菊乃は銀次のさしがねで八王 子に身を売る話しが持ち上がっていた。
その頃、深川一帯では稲妻が光り、雷鳴が轟いた。次 の朝も土砂降りの雨が続き、いつしか嵐になり、川は 氾濫し、海からも上潮が押し寄せてくる。『茶の屋』を 守ろうとする菊乃とお新の元におかみのお金を目当 てに銀次が乗り込んでくる。二人を助け ようと良介 がドスで銀次を刺してしまう。ほとぼりが冷めるま で姿を消すように菊乃に促さ され、逃げる良介。いつか 水量は増し、菊乃とお新は「葦の屋』の二階の屋根にの がれる。なす術もない菊乃は「武家育ちなんて嘘。毎日をやりすごすためのつっかえ棒だよ」と真実を告白する。
そのとき、水に沈んだ家々の屋根と屋根屋根の間から。小舟に乗った良介が現れるしかしその小舟に三人乗るのは難しい。菊乃は「お新ちゃん、今度こそ本当に立派な男を吊りあげたね。二人でしっかりおやり」と言って全財産をお新に持たせて、自分は屋根の上に残る。
屋根の上、ひとりぼっちになった菊 菊乃は、 は、星空を を見上 げ、若い二人のまごころに触れたさわやかさに、立ち あがって大きく伸びをする。その星空から流れ星がひ とつ、斜めに横切って消えていった・・・。
黒沢の海の絵
台本 「海は見ていた」
#1メインタイトル
(フェードイン)
海は見ていた
(フェードアウト)
#2海と葦の原
フェードインしてくる
海と葦の原が荒涼とした冬景色が、広がっている。
(クレジット・タイトル)
「やがて新緑の春。炎熱の夏が過ぎて」
#3江戸・深川(季節は九月頃)
脚本
空いちめんの茜雲。
彼方に、びっしり建てこんだ家並や、火の見櫓、深 川 八幡の高い屋根、境内の梢が見える。その界隈には、料理茶屋や岡場所(幕府非公認の私 娼地)が多く、深川ではもっとも繁華な場所である。 その一帯と堀ひとつ隔てているだけだが、いかにも 地はずれの感じで、堤の下に同じような造りの家が 八軒ほど、道をはさんで不規則に建っている。 ここも岡場所である。その賑わい。客を呼び込もうとする女達の嬌声。『葦の屋』はその一番手前の家で、その名の通り、裏手には海とのあいだに広く、葦原や湿地がひろが っている。
昇り月がオバーラップしてくる
#4から#164省略
岡場所に一面の水。
その水面に、火の見櫓や、岡場所の屋根だけが幾つも見える。
その軒まで浸かった屋根の一つに灯が見える。
#165葦の屋の屋根(夜)
「こんばんは」と書かれた提灯を持った菊乃と、そ の腕を掴んだお新が、屋根の棟に腰を降ろして身を 寄せ合っている。二人は晴着を着ている。
それが、この異様な状況を一段と異状なものに見せている。
軒を浸した水が、かすかな音を立てるだけで、他に はなんの物音も聞こえない。菊乃、空を見上げる。満天の星
菊乃「見てご覧、天の川がよく見えるよ」
お新、菊乃にすがりついたまま、空を見上げる。菊乃、大きな声で
菊乃「荒海や、佐渡に横たう、天の川」
新「なーに、それ」
菊乃「海の上の天の川を詠んだ、有名な句よ」
お新「姐さん、武家の出だから、なんでも知ってるのね」
菊乃「ハハハ」
と変に乾いた声で笑っていう
菊乃「・・・・・・あれは嘘」
お新「え?」
菊乃「武家育ちだなんて、真赤な嘘よ」
菊乃「ここまで身を落とすと、生きて行くのは、大変………………毎日 毎日・・・・・・とてもつらい・・・・・・その気持に突っかい棒かわないと生きて行けないのよ、武家育ちなんて、その突っかい棒よ・・・・・・私、そんな嘘をついて、それを頼りに生きて来たのよ」
お新、その菊乃を見詰めている。
菊乃「これで、さっぱりした! 嘘をついたまま死ぬのはいやだからね」
お 新「死ぬって―――姐さん」
ギ、ギ、ギ――また、家が大きく身慄いをして、家が水の中へくずれ落ちる。
お新「姐さん!」
と、しがみつき、
お新「姐さん・・・・・・私達、やっぱり」
菊乃「大丈夫だよ」
と、抱きしめる。
#166岡場所・全景(深夜)
満月が昇る
#167ラストシーン
葦の屋の屋根(深夜)
月光が、湖となった水面を照らし、菊乃とお新を包んでいる。
「オーイ」
遠くで声。
菊乃とお新、耳を澄ます
「オーイ」
水をかく音も聞こえて来る。
菊乃とお新、立ち上がる。
二人、声の方を見つめる。
水音が近づいて来る。
声「オ――イ・・・・・・そこの屋根の人、葦の屋の人の事、知らねえか」
お新、一歩出ようとして、濡れた傾斜に足をとられてよろける。
菊乃、それを危うくささえる。
お新、菊乃にしがみついて、
お新「姐さん、良さんよ(叫ぶ) 良さーん!!」
良介「お新! 姐さーん!!」
お新「良さん!!!! 良さん!!!」
屋根と屋根の間の水面に、小さな舟が見えて来る。 良介、黙ったままで必死で舟を漕いで来る。
菊乃「お新ちゃん! お前さん、今度こそ、ほんとに立派な男を釣り上げたね」お新と菊乃、手をつないで屋根の傾斜を降りる。良介、舟を軒にどしんとつける。
良介「早く、乗ってくれ、この舟沈みそうなんだ!」と、舟の中のたまった水を掻い出す。
お新、菊乃に手をとられて舟に乗る。
舟は舟の中の水と共に傾き、危うく沈みそうになる。
良介「(菊乃に手を差しのべ)さ、姐さん、早く 乗ってくれ!」
菊乃「駄目だよ、この舟、三人乗ったら沈んじゃうよ」
良介「だって」
菊乃「だってもへちまもないよ、さ、早くお行き」
良介「じゃ、俺、お新を降ろして、すぐ戻って来る」
菊乃「・・・・・・それより、あんた、よくお聞き・・・・・・お前さんは、も う大丈夫だよ、何も心配する事はない、なにもかも、海が呑み込んで隠してくれた。・・・・・フフフ・・・なんだか、
お前さん達の事、海が見ていて助けてくれたみたい!!」
良介・お新「・・・」
菊乃「さ、早く、お行き・・・・・そして、二人でしっかりやるんだ よ・・・・・そうだ、二人にこれをあげる、永い事かかって、ためたんだ、ずっしりあるよ」
菊乃、手早く腰の胴巻きをとってお新に渡す。 「でも、姐さんだって、いろいろ」
菊乃「フフフ・・・・・・里子の仕送りの話かい・・・・・・あれも、嘘だよ・・・
・・・嘘でまるめて、涙でこねて・・・・・・」
菊乃、唄いながら屋根の傾斜を上って行く。
良介「じゃ、俺、すぐ戻って来るから・・・・・・」
菊乃「(振り返って)そんな事どうでもいいよ、ぐずぐずしてると舟が沈みよ。お行き!行かないとと怒るよッ!!!」良介、仕方なく舟を漕ぎ出す。
お新「(泣き声で)姐さん!!」
菊乃、それには構わず棟に上って腰を降ろす。 懸命に漕いでいる良介の眼が、涙で光っている。
お新「姐さーん!!」
菊乃、手に持った提灯を振る。
良介、頭を下げる。 微笑しながら、うなずく菊乃。
遠ざかっていく舟。
お新「…………」
見送っていた菊乃は、提灯を棟に置いてある銭箱の 上に置く。
提灯の字――こんばんは。
菊乃、その提灯に云う、
菊乃「こんばんはーこれで、ほんとのひとりぼっちで御座んす!!いっそ、いい気持だ!」
立ち上がって、空を見上げる。
嵐のあとの、見事な星空。菊乃、その空を見上げ、両手をのばして、大きなのびをする。 流れ星が一つ、星空を斜めに満月を横切って消えていく。
(フェードアウト)
黒澤明は、愛を書きたかったんじゃないかな。どんな境遇だろうと海が見ているような愛を作りたかった。愛すること、二人しか乗れない舟。全財産を渡すこと。海が全てを流すこと。菊乃の自己犠牲によっ菊乃自身が救われたこと。流星が流れること。苦しみや悲しみまた怨みや復讐は表現しやすいが愛を映画にするのは世界の黒沢でも観客に理解させるのは難しいことだ。
愛というのは、本人でないとわからない。客観的に理解するのは難しいのだ
台本の最後の備考に黒沢は書いている
「粋に行きましょう。 時は江戸、場所は深川、生粋の江戸ッ子達の本場です。女の衣裳も、こうゆう場所にしては地味で、鼠、茶、 紺系統の縞模様が多く、寝巻は別にして、赤いもの はちらりと見えるだけ、そのちらりと見えるのが粋 な色気になっているのです。
大き過ぎてごてごてした女の髪形は野暮の骨頂。 男がつけ睫毛をしているに至っては、言語道断、お ととい来やがれ!と云いたい。
この頃、こういう所へ遊びに来る男達、町人職人達 は、手拭いをいろんな形でかぶっていますが、その かぶり方も研究課題の一つです。 そして、周場所の女達の着こなし、歩き方やしぐさ、 同様に、いろんな客達のそれについても、充分な研 究が必要でしょう。これは江戸の話――江戸の空気と匂いを たっぷり出しましょう。A.k.」
と書いてます。
三百年続いた江戸という世界が、黒沢にとって、魅力的だったに違いない。平和が三百年、続くということの奇跡は、日本の文化、意識、本質を構築する礎になっただろう。この時代背景をもとにして、7人の侍の原点に立ち返って、愛を描いたのだ。そういう視点でこの映画を見るとかなりの確率で名作ということになる。カンヌの選考の時点で落ちたことは、残念だが、この先リメイクされて、タイトルも変えて「海は見ていた」から「蓮」に変えて、泥臭い水の中から咲く美しい愛をテーマにリメイクして欲しい。風情とか人情とか、とっくに、忘れてしまったかもしれないものも込めて。