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ほんとの話(Ⅳ) 『異音』

ほんとの話(Ⅳ) 『異音』 

 実話である。
 子どもがまだ幼かったころ、バンガローに一泊し、そこを拠点に周囲を車で観光するという企画を立てたことがある。
 こぢんまりとしていたが、一階にリビング、キッチン、シャワー設備などがあり、二階に4~5人のベッドがあった。あまり泊りがけの旅行などしなかった時期なので、子どもは喜んでいた。
 運営側に事前了解を得て、昼前にチェックインし、外にある炊事場で子どもと一緒に米を炊いたり、カレーを作る予定だった。
 受付で手続きを済ませ、バンガローエリアに入っていく。
 全部で5~6棟ほどあったと思うが、時刻が早かったこともあり、先客は1組だけのようだった。駐車場に一台だけ車が停まっているのでそれとわかる。
 建物前で荷物を下ろし、受付で指示された割り当ての駐車スペースに停めようとしたが、先客の車が停まっているのがその番号だった。間違えたか、もしかすると「どこでもいい」と思ったのか。
 あとで後悔したのだが、ここで面倒くさがらずに管理人を経由して指摘してもらえばよかった。観光気分もあって気楽に考えた。
 先方も着いたばかりらしく、玄関のドアの前に荷物が積んであったので、どのバンガローの客なのかすぐにわかった。
 ドアをノックして出てきた自分とほぼ同世代のお父さんらしき男性に、「駐車スペースが違っていると思います」と告げた。
 個人的にわたしを知っている人には首肯してもらえると思うが、こういうケースでは、よほど事態が揉めない限り、きちんと丁寧な態度をとることにしている。「すみませんが」と。
 これを聞いた向こうのお父さんは「ああ、はいはい」と答えたが、その顔に「あんだけ空いてるんだから、適当なところに停めたらいいだろう」と書いてあるように感じた。
 そして、ドアぐちに立つお父さんの後ろから、我が家と同じ年頃の幼い子がこちらを見ていたのを覚えている。
 ひとまずは「よろしくお願いします」と頼んでその場は終わった。

 予定どおりカレーを作って昼食にし、少し副菜を足して夕食とし、テレビもネット環境も(時代的に)ない場所で、ぐっすりと寝た。
 翌朝、後始末とチェックアウトを終えて、今日の観光目的地へ向かって出発した。すぐに、すがすがしい山の空気を入れようと車の窓を下げた。
 異音がする――。
 塀の脇を通るときに「不規則な円運動が立てるときの異音」が聞こえる。
 すぐに、タイヤだと気づいた。
 最初は、石でも噛んだ音だろうと思った。
 しかし、石を噛んだ音はこれまで何度か聞いたが、少し違う。家族を載せていたこともあり、気になって車を停め、確認した。
「なんだこれ?」
 右側前輪のタイヤのナットのひとつが、見た瞬間にわかるほど緩んでいた。指つまんでもクルクルと回る。
 それも1個だけではない。5個すべてだ。ほか4個はガタつくほどではなかったが、指で回せた。
 すぐに気づかなければ、タイヤ本体が外れるのも時間の問題だった。
 遠出する際、タイヤの空気圧をチェックする習慣は昔からある。このときももちろんやった。
 だから、1個ならまだしも5個すべてが指で回るほど緩んでいたら、気づかないはずがない。それに、ほかの3個のタイヤには異常がない。
 たしかに、走っているあいだにナットが緩むこともあるだろう。しかし、ひとつのタイヤだけ5個すべて緩む事態が、どのぐらいの確率でおきるのか。
 もしも窓を開けなかったら。もしも、運転席と反対の左側だったら。そう考えるといやな気分になった。
 レンチできっちり締めなおしたあとで、さてどうしようかと迷った。
 証拠はない。今のようにそこら中に防犯カメラがあったり、異変を察知して作動するドライブレコーダーなどもちろんない時代だ。
 仮にあったとしても、実害は出ていない。警察に届け出てもこちらが期待するような展開にはならないことは、これまでの経験でわかっている。
 それだけではない。ここぞとばかりに書類に個人情報をまるごと書かされて、下手をすればその情報が相手に筒抜けになる可能性もある。(これも実体験で)
 あれこれ勘案して、あの人とはもう二度と会うこともあるまいと思って、通報などはしなかった。

 それ以来、外出先で車から離れる時間が長かったときは、出発前に必ずタイヤを確認する癖がついた。
 ちなみに、最近のナットは簡単にそうできないような工夫がされている。

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