【短編小説】純潔
◇
薄暗い部屋の奥、控えめに灯されたライトの下で、白いフリルのブラウスの肩に切り揃えられた黒い髪が揺れる。
私はカウンターに肘をついて静かな表情を崩さぬよう、青年が一呼吸の後に歌い始めるのを見守った。
無機質な作り物のような白くて長い指がギターの弦を滑り、まるで猫の子供をあやすように擽る度、楽器は甘く丸い音色をこぼした。
体と呼吸に従って、しっとりした黒髪が流れる。艶と重さのある黒い絹糸みたいだと感じる。
水分も、色も、とうの昔に私が失ってしまったものだ。
毛先の隅々まで行き渡った彼の瑞々しい魂が髪という形で具現しているのだ、と感じる。
思わず彼の姿に目を奪われてしまっていたことに気付き、我に返る。私は無感動でいなければいけないのだと思い出し、改めて自分を静かに律する。
カウンターの上に水滴が水溜まりを作っている。私はそれをナフキンで一拭し、もう氷など残っていない温んだマッカランを口に含んだ。
先ほどより味は薄まっているものの、鼻を刺す消毒液にも似た特有の匂いは却って強くなっているのではないかと思った。
――幾分、酔いが回ってきたのかもしれない。
私の指は、いつの間に、こんなに老人のように乾いてしまったのだろう、と不思議に思う。黒い古木のカウンターを照らす薄明りの下、自分の左手を持ち上げてしげしげと観察する。
脆い骨を、だらしなく緩んだ皮が皺になって包み、深く筋が縦に刻まれた分厚い爪は水分もなく、皮膚は弛んで感覚も鈍い。
遥か昔に、私が彼のような青年だった頃に、祖父の手を見て「別の生き物みたいだ」と感じたことを思い出す。
大きく節くれだちながら、乾いて皺だらけの老いを染み込ませた手。あの時はまさか自分が年を取るなんていうことを想像してみることすらできなかった。
……そんなことを今は我が手を見て思い出すのだから、何と皮肉なことなのかと思う。
忙しくも誠実に働き、懸命に生きてきた、筈だ。ふと自分の指先に目を落とした日には、何もおかしいことなどないように思えていた。
いつの間にか彼の演奏は終わり、ひと時は舞台に向き口をつぐんでいた者たちが再び賑わいを取り戻した店内に、今度は据え付けられたスピーカから重いドラムを従えた懐かしい昔流行ったロックの曲が流れ始めている。
演奏を終えた青年は、私の座るカウンター右奥の席に座り、肘をついて一人で酒を飲んでいるようだった。その姿を、私は視界の端に認める。
俯いた彼の白い首筋が、流れた黒い髪の割れ目から覗く。
形の良い頸椎骨が浮かぶ。
――私は目を離せなくなり、息を止めてそれを見守る。
くっきりと浮かぶ白い頸椎骨。私にいつの間にか失われてしまった「若さ」という名の純潔な美しさが、彼の頸椎骨には凝縮され、結晶していることを感じた。
――完全な造形。完璧な美しさ。無自覚な美しさ。
私は口髭に付いた滴をハンケチで拭い、バーテンダを呼んで会計を頼んだ。
蝶ネクタイに黒いベストを着た礼儀正しく無愛想な中年のバーテンダは、私のような、このバーに不似合の老人が週に何度も深夜に店を訪れるようになっても、興味本位に事情を探ろうとはしてこなかった。
私はそのことだけで、彼に密やかな信頼と共感を抱くようになっていた。
示された金額を払い、時計を見ると午前二時を回るところだった。とうに電車はないので、大通りに出てタクシーを捕まえなければならない。
毎度のことながら、帰宅の道を思うと、心なし気持ちと体が重さを増していることを感じ、私は一つ小さく溜息を吐いた。
多くはない荷を受け取り、高椅子から立ち上がると、バーテンダと目が合った。
珍しく軽い会釈をされ、私も小さく礼を返す。
「また、お待ちしております」
「有難う。また、寄らせてもらうよ」
階段を上がろうとした時だった。
ガツガツと響く足音をさせて駆け下りてきた女と肩がぶつかった。
苦しくなるほどの甘さの香水を漂わせた女は、不自然なほどに濃い化粧で、日焼けした肌をだらしなく剥き出した格好である。
一目で夜の店で働く女だと判るこんな服装を、この女は恥じたことすらないのだろう。
突き飛ばされ、尻餅をついた私を一瞥して、女は店内へ向かった。
私は突き飛ばされたそのままの姿勢で、少しの間、呆然としていた。
初めて間近で顔を見たが、私はあの女を知っている。
毎晩近くの店で体を売り、仕事が終わる午前二時過ぎに穢れた空気を纏って毎夜恋人が歌うこの店に駆け込んでくる女だ。
今頃は、先ほど青年が座っていたカウンター奥の席に座り、彼と肩を並べて、自分がさも其処に居るのは当然なことのように酒の注文でもしているのだろう。
私は、バー歌手の青年など興味外であるように表情を固めて、無害な老紳士を装いながら、その姿を遠くから目を細めて見つめることが精一杯だというのに。
女というだけで、若いというだけで、彼という美しい生き物に近付けるあの汚い女。
それを汚らわしく私が思っても、どうにもならないのは百も承知しているのだが、やりきれなさが私を支配する。
私は無力で醜い老人なのだ。せいぜい気味悪がられないように心を砕いて、遠くから密やかに見つめていることしか許されない。
――そんなことは、初めから判りきっていたことじゃないか。
帰りのタクシーの中、窓の外遠くに光っては流れる滲んだ光をぼんやり眺めながら、儚い幻を思う。
あの美しい青年が、いつか私を優しく見返してくれること。
年相応に無防備な笑い方をして、私のことを慕ってはくれないだろうか。
本や、昔の映画や、彼の知らない音楽の話をして、喜ばせてやることはできないだろうか。
私が彼を崇高に思うように、彼も尊敬と共感を以て、私に笑いかけてはくれないだろうか。
そんなことを思い、情けなく儚い幻に思わず「ああ」と声が出る。
全身を水浸しにする絶望的な情けなさに耐えきれず、幻を掻き消してしまおうと私は強く目をつぶり、両の腕で頭を抱える。
何も、贅沢なことなど、何一つ望むつもりはない。
私があの店を訪れる前、彼と空間を共有する前に心積もりをするために立ち寄る喫茶店の珈琲を、あの青年に飲ませてやりたい。
私はバーを訪れる前に必ず、諦念と一縷の希望を砂糖とともに真っ黒な珈琲に解かす。美しい青年の視界に入ることを思い、白衣を脱いで選んだツイードの上着に、革靴の色は合っているだろうか。整えているつもりの白い頭髪は、だらしなく崩れてはいないだろうか。外見に相応しくない少女のような戸惑いを消し去るために。
東京中のどの店よりも、深く甘い珈琲の匂いを嗅げば、いつも悲しげな青年の横顔は幾らか綻ぶのではないか。
――私にできることは、ただ、そんな夢想だけだ。
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