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岸田首相の訪韓をめぐるモヤモヤ(後)

前回の記事では、岸田首相が韓国を訪問して尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と会談したことに関して、首相が日韓関係好転を自分の「レガシー」として語るには日本政府としての行動が足りないのでは、ということを書きました。

後編は、首相が訪韓する前日の話です。


「存在しない」とされていた「浮島丸」の名簿

9月5日、岸田首相がソウルに飛ぶ前の日に、日本政府は「浮島丸」の乗船者が記録された名簿など19点の資料を韓国政府に渡しました。

「浮島丸」は日本海軍の輸送船で、1945年8月24日、舞鶴湾で爆発・沈没しました。「浮島丸事件」と呼ばれています。
朝鮮半島出身の徴用工やその家族ら数千人が、故郷に帰るために乗っていました。沈没によって500人以上が死亡した、痛ましい事件です。

上記のNHK記事は「浮島丸」の写真があり、事件や今回の名簿提供についてコンパクトにまとまっているので貼りつけました。ただ、残念な点もあります。

まず、NHKに限らず、メディア各社は一様に事件が発生した8月24日を「終戦直後」と伝えています。ただ、先に「8月ジャーナリズム」について書いた記事でも紹介したように、戦争が正式に終わったのは9月2日(ミズーリ号での降伏文書調印)ですし、8月下旬はまだ千島列島などでソ連軍が侵攻を続けていました。

また、この記事では爆発原因の謎に触れていません。日本政府は「米軍が舞鶴湾に敷設した機雷に触れた」と発表しましたが、船体の壊れ方が機雷の爆発とは合わないという指摘もあるため、自爆説などもくすぶっています。

そして、最も重要な点は、日本政府が長年こうした乗船者名簿は「存在しない」と主張してきたこと。

1992年、遺族らが事件の真相究明、謝罪、そして補償を求めた国家賠償請求訴訟を起こし、乗船者名簿の開示を求めました。しかし、日本政府(厚生労働省)は一貫して名簿の「存在は確認されていない」と説明してきました。

ですが、事件後、日本政府は乗船者は「朝鮮人乗客3735人、乗員255人」、犠牲者は「乗客524人、乗員25人」と発表しているのです。名簿がなかったのなら、どうやって乗客・犠牲者の人数を確定させたのでしょうか。裁判を通じて明確な説明はありませんでした。

ジャーナリズムが隠蔽を暴いた

原告側が乗船者名簿の開示を求めたに大きな理由は、実際の犠牲者数は日本政府の発表よりずっと多いのではないかという見方が韓国側にあることです。事件の生存者たちの証言に基づくものです。

厚生労働省が「乗船者名簿はない」と主張し続けたのも、もしかすると犠牲者数が発表より多かった可能性を認識していたため、かもしれません。いずれにしろ、「名簿はない」という姿勢を崩しませんでした。

ところが、フリージャーナリストの布施祐仁さんが昨年末に情報公開請求によって乗船者名簿があることを突き止め、そこから共同通信と組んで裏付け取材を進めました。こうした見事な取材や、国会での野党による追及の結果、ついに厚生労働省は約70点も名簿があることを認めたのです。

そうした経緯は、以下の記事で伝えられています。少し長く、またYahoo!記事はある程度の時間が過ぎると消えるようなのですが、貼りつけておきます。

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