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【展覧会】ルイーズ・ブルジョワ展について

「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ言っとくけど、素晴らしかったわ」 森美術館より

先日森美術館に行ってきた。
ものすごくよかったので備忘録と感想、考察。

ママン

ルイーズブルジョワといえば森美術館の前にある、蜘蛛の彫刻《ママン》が有名だ。
蜘蛛と言われた時に思い浮かぶことはなんだろう。蜘蛛の糸…蜘蛛の巣…スパイダーマン…ホラー…益虫…目が8個…?
私が以前住んでいた部屋は、週1〜2回以上蜘蛛が入ってくる部屋だった。一度だけこの彫刻にそっくりな足の長さが特徴のアシダカグモが侵入したこともあった。嫌な話だが、蜘蛛に殺虫スプレーを撒いてどうなるかを観察したことがある。細長い足がゆっくりと畳み込まれあの巨大に見えた蜘蛛がものすごく小さな一つの黒い塊のようになったことを鮮明に覚えている。それ以来、蜘蛛は苦手だ。
ブルジョワが表現する蜘蛛はタイトルの通り母親を象徴するものである。ランド・アートとして六本木ヒルズの真ん中に設置されているこの彫刻は、待ち合わせの目印ともなっている。アーチ状に足が伸びていて、下を通る人々を迎入れるような作りになっている。卵を抱え、佇むこの母蜘蛛は一見力強く、恐ろしいものに見える一方で、巨大な建造物のもとでは、細く弱々しい足がかろうじて支えているようにも見える。それは暴力的な父親から子供を護る母親のように。

地獄から帰ってきたところ言っとくけど、素晴らしかったわ

この展示タイトルは、”言っとくけど”という不躾な言葉を含むことによって、上から目線だったり、攻撃性があると言える。そして、”素晴らしかったわ”という表現は、地獄を乗り越えたかのような印象を受けるが、実際に展示を見た時、乗り越えたと言えるのかは最後までわからなかった。むしろこの言葉が父や過去の自分に向けて言っているのであれば、”素晴らしかった”という言い回しは乗り越えたというよりも、父への復讐や皮肉、幼い頃の自分への励ましではないかとも考えられる。

私を見捨てないで

これは展示の第一章にあたるテーマである。この展覧会、あるいはブルジョワ自身の核心部分にいきなり触れていて、私自身その言葉の衝撃と彼女自身の力強さに思わず武者震いした。言葉通り、見捨てられることへの異常な執着心が作品に働いており、非常に強烈で印象的だった。
 彼女にとって”見捨てられる恐怖”は、精神分析治療を経験したからこそ自覚する、トラウマの根本的原因なのだとわかる。見捨てる/見捨てないは親と子供を連想するにたやすい。彼女の制作は、見捨てられた幼少時代の経験からはじまり、そして彼女の抱える苦しみの答えでもある。それを第一章のテーマに据えてしまえるところに彼女の力強さと狂気が感じられる。

父親

 父という暴力的で抑圧的な存在に対し、拒否感を感じている一方で父に愛されたいという願望持っている非常にアンビバレントな感情を抱いていたことが非常に驚きだった。そのエピソードとして、幼い頃ブルジョワの父が家庭教師との交際関係にあったことを、ブルジョワは見捨てられ、裏切られたと考えたことが挙げられていた。
《父の破壊》という作品では、大きな口の中に歯が並べられ、その中心には食卓があり肉片や骨のようなものが置かれていた。それは父を破壊し、体内に取り込むというカニバリズムを想像させるような表現である。父を破壊したいという欲望と同時に父と一体化することを望んでいる。それは父に見捨てられた寂しさと孤独から生まれる暴力的な感情表現であり、近親相姦を思わせるものである。そして、人間の怒りや暴力は寂しさが根本的な原因と考えられており、彼女の作品の中にもそうした愛憎渦巻くものが多い。
 彼女の《シュレッター》という作品では、「『攻撃』しないと、生きている気がしない」という詩が添えられたいた。彼女はしばしば怒りや破壊衝動を作品の中で昇華する。そこには父親と自分自身の姿が重なる瞬間があったのではないかと思う。同時にそんな父親を理解したいというまたも愛憎渦巻いた複雑な感情を抱いていたのだろう。見捨てないでという欲求はブルジョワだけでなく同時に父親自身にも同じトラウマがあったと考えることもでき、ブルジョワはそのことに気づいていたのかもしれない。

カップル

 しばしば彼女の作品には対立する二つの事例が並置される。例えば《カップル》2003年の吊り彫刻のでは、見捨てられた、あるいは切り離された恐怖に対して、同一化しようとする二人の姿という相反する表現が見られる。
 「生誕はひとり、死もやはりひとり。不安。孤独はひとりのトラウマ」
この詩は吊り彫刻とともに添えられた言葉だ。カップルは恋人同士の比喩だけでなく、母と子、ブルジョワと父など二者関係の愛の象徴でもある。人は他者との関わりがないと生きていけないにも関わらず、始まりから終わりまでひとりなのである。私たちはひとときの安心を求め他者を求めるが、ひとりである恐怖から逃れることはできない。ひとりである事実を受け入れ、いかに愛を与え、与えられることができるかが必要なプロセスなのだと考える。

最後に

 自己に他者を取り入れることは、究極的な愛であり暴力の姿である。性行為やカニバリズム、シャーマニズムは自己と他者の境界を揺るがすことであり、自己の中に他者の視点を取り入れることである。現代社会においてそのように本能をむき出しにすることは野蛮であり、ルールや慣習によって遠ざけられる。しかしながら、原始社会の中ではシャーマニズムが各地方で行われる。それは、自己の中に神の視点を取り入れるためである。
 私たちは自己の中に他者を取り入れ、相手の視点でものを見ることで、他者に共感する。ゆえにルイーズブルジョワは、自己の中に他者を取り込むための儀式の場として作品を制作し、家族と作品を通じて共感としていたのではないかと思う。それは時として愛に溢れ、時として暴力的に。

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