そして、ハーフスペースに味方はいなかった
監督室の床にうつ伏せに倒れた金髪で肥満の男は、死後数時間が経っていた。その遺体の指先には死の真相を伝えようと自らの出血した血液で床に言葉をしたためていた。
ダイイングメッセージである。
現場に到着した刑事は仏に一度手を合わせると、しゃがみ込み遺体の指先を見入った。
無念を書き記したメッセージ。刑事は眉間に皺を寄せながら小声で呟く。
「ポ…ポジショナル…プレーが…できません…」
どんなに叩かれようが強気一辺倒を貫いた男の、心の奥底にに沈殿していた真実の言葉。
おっと!冒頭から刑事ドラマのノリで申し訳ないが、そのダイイングメッセージがクラシコを見た率直な感想であり、わりと芯を食ってるように思う。
現在のバルサはボールを敵陣深くまでは運べる。しかし崩しの局面になるとフリーズしてまう。そんな問題を抱えているバルサに対してアンチェロッティのとった策は理にかなっていた。自陣でドーンと構えて、相手を引き込んでから背後を狙う。「来いよ〜来いよ〜」とアントニオ猪木が寝っ転がってモハメド・アリを誘い込んだように。
そんなライバルに対して、けれんのない心でまっすぐに、力強いプレーでバルサは攻め込んだ。マドリーが怪しげな裏設定をガンガンに匂わせているにも関わらず、バルサは疑いもなく攻めて、攻めて、攻め込んだ。
いや、違うな…。
パスを、パスを、パスを回し続けた。
結果はフットボールの道理のまんま。
アンチェロッティの"能ある鷹は爪を隠す"対策が、クーマンの"能なし豚が爪でひっかく"戦略を悠々と凌駕し、監督の力量の差がそのまんま反映されたのが今回のクラシコだったと思う。
そして、ハーフスペースに味方がいなかった
バルサ伝統のフォーメーションでもある4-3-3の利点は、2人のインテリオールが両ハーフスペースに配置できるところにある。
"静的配な配置"として、ビルドアップの出口からボールを動かしながら相手を引きつけ位置的優位を得る拠点として。また自ら動いて相手を動かし、それで空いたスペースを味方が入り込む"動的な配置"による崩しのスタート地点として。ハーフスペースは道理的に相手を動かし優位性を得て、ゴールに向かい、ゴールを奪うための最重要なエリアである。
これは5〜7分からあのシーン。
右の大外で数的同数のトライアングルである。
この白いエリアにエリックガルシアが前に出てサポートに入れば、ハーフスペースでフリーなのでクロースかカゼミーロがケアに入り、マークををズラすことがことができ、いかようにも変化できたのにな!と、思ったシーンである。
これは14分頃のシーン
この静止画だと大外のデストのポストからガビがハーフスペースに侵入してるように見えるが、ただ背後にサポートに行っただけのシーンでボールを奪われた。
そもそもガビは、デストのサポートではなく、この右ボックスエリアの赤点のところに居ないといけなかったというシーンであった。
ガキの頃から毎日独自の哲学を叩き込まれ、試合をこなすことで哲学に沿ったプレーの微妙なさじ加減や違いを把握し、そこを理解してるからこそ、小さな変化でも気付き、わかることに徹底的になれる。理解の拡大とともに凄みが増す。というカンテラーノ特有の分かりにくい凄さを持つガビの前半のプレーは、パイセンへの気遣いと、夢に見た大舞台への気合いと、クロースのねちっこいマンマンマークの3点バリューセットで空回り。クライフ卿の言葉を借りるなら"動き過ぎ"であり、細かく繰り返すレーン移動のせいで、大外のデストにボールが入り、ここぞ!という崩しのスイッチが入れる場面で、ハーフスペースにガビがいないという、もったいないシーンが散見された。
次は、左サイド。
26分、大外のファティにボールが入ってた状況である。
ハーフスペースにはフレンキーがいる。ただ、白いボックスエリアの赤い点に入り込むタイミングが、学食でラスト1個の焼きそばパンを買いそびれたJKのように遅れ、バックパスでやり直しとなった。
31分、ハーフスペースにはゴールに前向きでボールを持つメンフィスがいる。
しかし、モドリッチにチャンネル封鎖されての4対5の数的不利である。
しかしメンフィスは、「シン・フォーメーション論」の筆者山口さんのワードでいう"胸を合わせる"がファティとできてるから、ドリブルでミリトンを引っ張り出してギャップを作り、クイックターンでファティが背後を狙うとか、ファティにボールを当て相手の目線を集中させて違う展開に持ち込むなど、意図を合わせれば色々なことができたはずなのにメンフィスはその場でロングシュートを選択。ZOZO前澤・GO to宇宙的なぶっ飛ばしシュートでチャンスを不意にしてしまった。
このように前半を振り返ると、厳密に言えば左右のハーフスペースに味方はいた。しかし適切なタイミングで"そこに味方は居なかった"が実像であった。
後半はコウチーニョを入れ4-3-2-1に変更。左サイドから崩しが明確になり、メンフィス&ファティにアルバが絡むコンビネーションで良い流れを作り、シュートまで持ち込んでいたが、それも長くは続かなかった。
60分以降はお馴染みになってきたインテンシティがグッと落ち、クローズドな展開からオープンな殴り合いへ。自軍の焦りと相手の都合が時間の変数と重なり、自ら疲弊へ追い込む矛盾の迷路にヒア・ウィ・ーゴウ。
そしてこれは70分、76分の左サイドからの攻撃シーンがこれだ。
どうでしょう、薄目にしてザックリ見たらクリソツである。レアルのカマヴィンガとスピードスケートの高木美帆が同じくらい似てるくらいに。
バルサは5〜6人を攻撃に出しているので人数は揃っているが、ボールホルダーは大外で孤立。基本であるトライアングルの配置と距離感は何処へやら。しかも静止画でも漂ってくる"どうせクロス上げるでしょ!のゴール前での待ちの姿勢。そして実際この2つはクロス攻撃であった。
そしてハーフスペースに味方は誰もいなかった。
クーマンの限界
これは43分での陣形である。
しっかりと4-3-3のまま敵陣に入っているのがわかる。
列で見るとアルバが位置を上がることで4列となり、3列の守備陣形に対して+1の列を作りギャップを狙う配置は、ポジショナルプレーを行う上での基本陣形である。
ポジショナルプレーはボールを支配し、試合の構造そのものを支配化に置き、相手の相互作用を破壊する手口の一つであり、守備ライン裏に優位性を生み出すことである。
そのためには、配置とタイミングを適切に操ることが重要になるのだが、クラシコでは守備ライン裏にフリーマンを置くことができず、相手の手前でパス、パス、パス。であった。
相手を釣り出す動きや、自ら動いて相手を動かす戦術的スペースメイクが乏しく、位置的優位を得られない無味無臭なパス、パス、パスであった。
それはまるで10年前に起きた、ペップバルサに憧れたチームが陥る"ポゼッションだけ"のチームを本家がやっちゃうパス、ガス、爆発。
攻撃と同時に守備の準備が可能なコンパクトな陣形やネガティブトランジション時のボール奪取の切れ味はムラが多くて安定せず、それでいてハーフスペースには味方がいないである。
毎度毎度ではあるのだが、クラシコ3連敗中のライバルに絶対に負けられない戦いの中で見せたクーマンの戦略設計の甘さ、戦術ディテールの粗さは、屈強な単純さとプレーの繊細さを共存させようとしてる反面、これまで当たり前に持っていた思考を繋ぐ回路が徐々に遮断されているような感じがして、フラストレーションが溜まる一方である。
それは元プロゴルファーの宮里藍が一見、ロッテの井口監督に見えるけど、すぐに違よなと気付くように、バルサのフットボールが僕らの知ってるフットボールと明らかに違うものへと変質している不快さが色濃くなっているのだろう。
冒頭に書いたダイイングメッセージはそれに対する僕なりの揶揄である。
さらにセンチメンタルジャーニーなのが、若手のカンテラーノは崩しの局面でどうやってゴールに向かい、ゴールを奪うかの戦術メモリーが頭の中にしっかり入っていることだ。
ないのは、それを何処でどう活かすか。ゴールから逆算した配置とゴールに対する目的地をデザインしたフレームを構築するクーマンの能力である。
クーマンは「君はお肉。君はお魚。君は野菜をお願いします。それで受験生の苛立ちと、OLの白馬の王子願望をマッチングアプリで漁る、地中海風に煮込んだ美味しいものを作りましょう」的なアプローチで、個の能力の総和を上げながら、"分かち合うサッカー"を時間をかけて作るが、メッシ去り後のバルサに必要なのはそのアプローチではない。
昔フットボリスタに書いてあった「材料費はいくらで、調理時間は30分で、季節を感じる野菜を使った肉料理」といった明確さであり、その中で選手の技術と想像力をチーム合った形で引き出し、相互作用を高めて自己組織化させるシンプルな原則である。
約一年半のクーマンの仕事を見て、それができそうにない。
クーマンを拉致って手足を縛り、脳みそを取り出してジャブジャブ水洗いした後、天日干しにして元に戻すというサイコなことをやったとしても、ファンハール師匠譲りの頑固さからクーマンは変わらないだろう。
だからもう限界だと思う。
クーマンのチームマネージメントは、時間が経てばそれなりにまとまり強くなるのも知ってるし、ビッククラブには勝てないのも把握している。それを大目に加味しても限界である。
もはや語り草になったグラナダ戦のクロス攻撃も、それが勝つ手段として正しいのであれば文句はなかったが、試合内容から普段通りやることが正しかったのに安易にクロスに逃げた精神の醜さにクレは憤ってるのだ。
なので準備ができつつあるチャビまでの繋ぎとして若きカンテラーノを育てながら、我慢してバルサのフットボールが変節していくのを指を加えて眺めてるのも、バッドの方に天秤は傾いている。
クレが誇れるべき圧倒的な美しさが枯れる前にクーマンを変えてほしいのがクレの総意だろうが、いかんせんクラブにはお金がない。だけども、問題は今日の雨。傘がない♪これは井上陽水の名曲は「傘がない」舘ひろしの主演映画は「免許がない」うん。どうでもいいですね。
このままではシーズンをフィニッシュしたときにCL圏内に到達できるかわからない。
懐に入るはずだったCL放映権料が「ノーマネーでフィニッシュです」←(マネーの虎の吉田栄作)になり、名門の凋落というネットニュースを目にして、プライドがズタズタになるかもしれない。
今はまだぼんやりとしたフラストレーションが思いがけないスピードで溜ってる状況だが、哲学が腐り、モノトーンに変色して、お金も強さもない状況にもはや「しらける」という雰囲気に毒される明確な危機は、すぐそこに迫っいるのかもしれない。
あーなるかもしれない。こうなるかもしれないと、ない、ない、ない、ないと連発で未来予想を書き進めると悪いイメージしか浮かばない。つまらないギャグで中和させてみたが、笑顔になれるはずもない。
そして、永遠のライバルに負けるべくして負けたことが、なによりも切ない。
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