替栖
帝國図書館研究棟の談話室
朝食を終えた文豪達が食休めに朝刊などを捲っている。島崎藤村はそんな日常の様子を飽きずに眺め書き留める。
島崎の取材-と称するつきまとい-を軽く百回は断っている芥川龍之介は今朝も親友の菊池寛と一緒だ。朝の煙草は芥川の体調-精神面での-の良さを表して少な目だ。
夏目漱石と正岡子規が朝刊を挟んで話をしている脇を泉鏡花を従えた尾崎紅葉が歩いていく。多分潜書室に向うのだろう。それを見て夏目と正岡が新聞を畳み席を立つ。午前の潜書はこの四人だったのを島崎は取材ノートを見て確認する。
隣りのテーブルにいた高浜虚子と河東碧梧桐が師の後を追う。この二人は潜書の付き添いだ。
島崎も彼等と同じグループだが今日は休日に当たっている。
大きな浄化任務-ボードレールの『惡の華』が終わってから、特務司書は文豪達を四つのグループに分け、文豪達の任務も四つに分類した。有碍書の浄化任務、浄化任務の待機、本館の図書館業務の支援、そして休暇。
これまで有碍書の浄化任務に追われて、文豪達も術者達も決められた休日や休暇などの休養期間が思うように取れなかった。が『惡の華』の浄化でこれまでの侵蝕現象を引き起こした首魁といっていい存在を討伐した。その甲斐あって、侵蝕現象は縮小し、侵蝕の発生もある程度は予測できるようになった。今後も有碍書潜書は続くが、文豪達全員が事に当たるような事態は稀であると判断し、館長や本館の主任司書に諮り、特務司書が研究棟の体制を改めた。
館長の許可が下りたところで柳田國男と折口信夫の転生があったので、二人の練度上げを待って今月からの運用になった。
―――というのは表向きで、実際は特務司書の体調不良が原因なのではないかと島崎は予測している。
高浜と河東が談話室を出るのを見送った島崎の眼が入れ替わりで入ってきた人物を認めた。
徳田秋声である。
今月の助手業務を任されている德田が早々に司書室に上がっていたのを、朝食を共にした島崎は見送っている。司書の様子が気になるから、といって席を立った德田がテーブルに着く面々を見て、しまったという顔をしたのを島崎はしっかりと見ている。そこにいたのは島崎を始め、国木田独歩、田山花袋、正宗白鳥といった自然主義文学者達-この研究棟の、いや帝國図書館のゴシップ記事、いや最新情報を陰に日向に集めている-面子だったから。スクープの匂いを感じ取った国木田が羽織を掴もうとしたのをするりと交わして、徳田が逃げるように談話室を出て行ったのを思い出して島崎は首をひねる。隣りの国木田が島崎の様子に気づいて、視線を辿ると、声を上げた。
「おぉい、秋声」
德田がやれやれといった表情でやってきた。
「おっ、秋声。どうしたんだ」
新聞を読んでいた田山も顔を上げて德田に話しかけた。席に着いた德田に松岡譲が日本茶にするか珈琲にするか紅茶にするか聞きに来た。
「あれ、いつもの術者さんは」
いつもなら専任の術者がやっているはずの給仕を松岡がやっているのを疑問に思って島崎は口に出した。
「あの方は三階に上がられたんですよ。次の方が来られるまで厨房担当の方がされるようなのですが、今は忙しい時間帯なので代理で僕が」
穏やかに返答する松岡を見て遠くから誰かが睨んでいるような気がしたが、島崎は拘泥しない。德田の希望を聞くと松岡は直ぐに踵を返す。
そういえば、と田山がお茶請けに手を伸ばしながら言った。
「特務司書の輔筆、だっけ。新しく来る奴」
「ああ、文書関係専門の補佐、って言ってたな、筆頭が。潜書には携わらせないって」
国木田が取材ノートと見ながら答える。島崎も自分の取材ノートを捲りながら頷く。
「一昨日からだよな」
国木田が確認するように島崎に訊く。
「取材元はそう言ってたね」
德田の茶とお茶請けを持ってきた松岡がそのやり取りを聞いて德田に確認をする。
「昨日はいらしてなかったんですよね、輔筆さん」
給仕された德田が茶を一口啜って答える。
「うん。彼女、特務司書の輔筆がね、今朝出勤してきたよ」
彼女、という単語に反応した田山が、美少女か、と聞いたが、徳田は聞かなかった振りをした。
「いきなりで驚いたよ。司書さんも何も聞いてなかったみたいで驚いていた」
そのテーブルにいた全員が-松岡も含めて-意外そうな顔をする。
「へえ、あの司書がね。驚いたのか……」
国木田が皆を代表して口にする。
「うん……。昨日の様子だと半分諦めてたみたいだしね。最初の日は誰も司書室に詰めてなかったからよく分からないけど……。筆頭が研究棟内を案内したらしいよ。それで……。怪しいと思って断ったんだろうって補修室の術者達が言ってた」
「司書は何か言ってたのか」
国木田が探るように德田の訊いた。
「ううん。司書さんは何も言ってない。でも……。潜書や侵蝕のことを隠せなんて……。怪しいと思うんじゃない」
ああ、とその場の全員が納得する。特務司書の輔筆が着任するという周知とともに、潜書業務に関わることは話すなと館長から厳命があった。研究棟の主要業務であり文豪達がここにいる理由は教えずに働かそうという。それについて、中野重治が館長に抗議をしていたが、万が一輔筆が異動を受諾せず、研究棟の実態が世の中に流布された場合、どのような影響が出るかの研究報告を聞かされ、悔しそうに口を噤んだのを文豪全員が見ていた。
研究棟に入ったとたんに新美南吉に驚かされ悲鳴を上げた輔筆に江戸川乱歩が話しかけたのを、館長が遮り引きずるように二階の司書室に消えたのは文豪達にすぐに伝わった。あのラヴクラフトまで知っていたのだから。
「まあ、一発目が新美と江戸川だからな。館長も警戒するって」
田山が納得したように言う。
「あの二人だと、しゃべっちゃうかもって。意外と江戸川は口が堅いよ」
田山の憶測を島崎が否定する。傍で話を聞いていた松岡が徳田に訊いた。
「それで、徳田さんはその方をご覧になったんですよね。どういう感じの方ですか」
美少女云々を無視された田山が、松岡の問いを聞いて德田の方に身を乗り出す。じゃまだよ、と田山を押しやって德田は答えた。
「どんなって…………。本館の制服を着てたから、あまりよくは……。ただ、そいういう秘密があるっていうのを分かってて来たんじゃないかな」
「分かってて来たって、どういうこと」
島崎が頭頂の双葉を揺らしながら訊く。うーんと考えて德田は答えた。
「司書室の扉を叩く音がして、開けたら彼女が居て……。彼女も何だか驚いているみたいだったけど、司書さんが中へ呼んだらすぐに入って来て。……ああ、封筒を持ってたっけ。司書さんが手を出すとさっと渡して……。多分書類なんだろうけど。躊躇いが無くて、ここで働くのが当然だと思っているみたいだったよ」
「制服を着てたって。だったら輔筆は何処で着替えたんだ」
不意に松岡の後から声がした。その場の皆が声のした方を見ると菊池が腕を組んで立っている。その後ろに不承不承という感じで芥川もいた。菊池は輔筆という言葉を聞いて、芥川は松岡が傍にずっといたので気になってやって来たのだろう。
「うん、僕はすぐに席を外すように言われたから、分からないな」
菊池の問いに申し訳なさそうに德田が答える。輔筆という言葉に談話室の文豪達が一斉に德田達のテーブルを見た。
「輔筆は研究棟の術者の宿舎に住むって聞いてるが……」
「それは、直木の情報か」
菊池の言葉に国木田は目を細める。にやりと笑って菊池は続ける。
「引っ越しの情報は持ってないのか、取材組」
国木田は島崎と目を合わせてから答える。
「ないな。最新情報は歓迎会を開けなかった新美が拗ねてることだな」
引っ越しはこれからか……と菊池は少し考えたが、すぐに顔を上げ松岡と芥川に司書室に行ってくる、と言い残して談話室を出て行った。
「相変わらず、仕切り屋だね」
呟いた後、茶を啜った島崎を芥川がきっと睨みつけた。
※※※ ※※※ ※※※
輔筆が異動を正式に受諾すると、特務司書も補修室にいた筆頭術者を始めその場にいた他の術者達からも安堵する空気が流れた。
「歓迎しますよ、輔筆。これからよろしくお願いします」
語る言葉に喜びが溢れている。こんなに歓迎されていいものか、と輔筆は戸惑う。
司書室に移ると筆頭術者に輔筆はおずおずと切り出す。
「それで、今住んでいるところから出来るだけ早く移りたいのですが……」
穏やかな表情で頷くと筆頭術者は言った。
「ええ、そうですね。これから荷物を引き取りに伺ってもよろしいですか」
いきなりの申し出に輔筆は驚く。ある程度荷物は纏めてあるが、すぐに動かせそうにはない。
「これからですか……」
「ええ、手の空いている者を向かわせます。今日中には終わるでしょう」
三階の術者を使おうというのだと分かって彼女はしり込みする。
「皆さん、研究があるのでは」
「遠慮は無用ですよ。これから一緒に暮らして、一緒に任務を果たすのですから」
宜しいでしょう、と振り向く筆頭術者に特務司書は大きく頷く。では三階に声を掛けましょうと、筆頭術者が司書室を出ようとした時に、廊下側の扉を叩く音がした。
司書、いるか、という声と共に入って来たのは翠のショートジャケットの職員だった。確か菊池だったかと考える彼女に、おお、居るな、と笑いかける。その瞳が紅玉を嵌め込んだような赤であることに輔筆は初めて気づく。
「菊池さん、何かありましたか」
入ってきた菊池に特務司書が訊ねる。菊池は、ああと答えて続ける。
「輔筆の引っ越しなんだが、これからか」
話題にしていた事を訊かれ、驚きに目を見開く輔筆を尻目に特務司書が答える。
「ええ、今その事を話していました。三階の術者達にお願いして、これから荷物を引き取りに行こうと相談していたところです」
そうか、と嬉しそうに答えた菊池が話し出す。
「それな、俺達にも手伝わせてくれないか」
え、と今度は声に出して輔筆が驚いた。
※※※ ※※※ ※※※
どうしてこんなことになったんだろう……と輔筆はぼんやり考える。
帝國図書館所有のワンボックスカーを二台連ねて、帝國図書館の研究棟に戻ろうとしている、という所で輔筆は我に返った。
筆頭術者と相談したかったのは引っ越しの日取りで。輔筆は休日を-出来れば連休を-貰って引っ越しをするつもりだった。本ばかりが多くて家財道具の少ない彼女の荷物は、異動の書類に署名をしたときに大方纏めてある。後は本だけなのだったが……。
筆頭術者が声を掛けて運転手として三階の術者が二人-そのうちの一人は初日に彼女と昼食を共にした、彼女は緻と名乗った-、そして先生方が四人。手伝うと声を掛けてきた菊池を始め、動きやすい服装ではあったが、その見た目に輔筆は圧倒された。引っ越しのお手伝いって先生方ですか、と術者の二人は驚いたがすぐに苦笑いに変わった。おう、扱き使ってくれよ、と笑う菊池先生の傍で、壮絶なジャンケン合戦に勝ち抜きましたからな、がんばりまっせと三つ編みの先生が胸を張る。いや織田君はそこそこに頑張ってくれればいいよ、と蜂蜜色の髪を緩く結んで左肩に流した先生が穏やかに諭す。その様子を優し気に泣き黒子の先生が見つめる。
部屋の荷物がどんどん整理、運び出され輔筆が暮らしていた痕跡が薄くなっていく。途中、部屋を飾るものが少ないんだね、僕が絵を描いてあげる、それとも彫刻が良いかな、と蜂蜜色の髪の先生が話しかけてくる。アンタの蔵書、専門書が多いんだなと菊池先生に訊かれる。泣き黒子の先生と床を拭き終わるころには、正午を過ぎていた。昼時だな、奢るからメシ食ってから戻ろうぜ、と声を掛ける菊池先生にまた術者の二人が苦笑いする。怖気る彼女に緻が、菊池先生は言いだすと譲らないからご馳走になりましょう、と腕を取る。
食事の席では、アンタのことなんて呼んだらええんやろ、輔けるに筆やからふでちゃんかなあ、と言う三つ編みの先生に、織田さん、初対面でいきなりニックネームをつけるのは、と泣き黒子の先生が窘める。それに応えて、松岡せんせ、あだ名付けるんは親愛の情ですぅと返す。術者二人はやり取りをクスクスと笑って見ていた。
覚えているのはこんなところだ。もっと他にもあったようだが……
研究棟に戻ると待ち構えていた先生方にすぐに荷物を運び込まれてしまった。バケツリレーというのはこういうことをいうのかと輔筆は思った。
女性の部屋だから、と先生方が早々に立ち去った後、輔筆は部屋の引っ越し荷物を眺めた。これの荷解きに幾日かかるかを考えてると緻が部屋の扉を叩いた。
「輔筆、特務司書からの伝言と志賀先生からの差し入れを持ってきました」
部屋に入るとラグを敷いた上の座卓に布を掛けた丸盆を置く。布を取ると小ぶりのペットボトルとチーズケーキの乗った皿が現れた。
「荷解きがあるだろうから午後の勤務はお休みにしましょうって、特務司書が。その代わり平服でいいから18時からの遊戯室での歓迎会には遅れないでって」
「歓迎会……」
首をかしげる輔筆に緻が告げる。
「貴方の歓迎会ですよ、輔筆」
今日何度目かの驚きに目を瞬かせる輔筆に緻が笑いかける。
「輔筆、私が……。輔筆……なんですね。でも私は……。緻さん、私の本当の……」
言いかけた輔筆に緻はしぃと右手の人差し指を立てる。
「だめですよ、輔筆。名前を言っては。研究棟で名乗っていいのは先生方だけ。あの方々は名乗る必要があるから名前を口にしなければいけない。それ以外の私達術者は名前を秘さなければいけない、貴方も含めて」
「忌み名……」
輔筆は館長に答えたと同じ言葉を口にする。緻は頷く。
「貴方の蔵書を見たから、分かってもらえると思ってます。輔筆となっても貴方が貴方であることには変わりはない。私達はありのままの貴方を受け入れます。ここで働くことで知ることに貴方がどんな感情を抱いても、どんなことを考えても」
それと、と緻は続ける。
「先生方はお茶目な方が多いから、堅苦しく考えないで」
それだけ言うと緻は三階に戻っていった。
家財道具の荷解きを終わらせ、部屋のシャワーで汗を流した後、鍵を掛けて遊戯室に向かう輔筆は、そのお茶目な先生方が83人もいることをまだ知らなかった。
<了>