その日の午後はほんの気まぐれだったのだ、織田作之助にとっては。太宰治は佐藤春夫一門と外出許可を取って日帰りの遠出をしており、坂口安吾は江戸川乱歩や夢野久作ら探偵小説家達と読書会をしており、休暇中の一日をまるまる一人で過ごすことになっていた。前夜から夜っぴての執筆をして昼前に起きだし、朝食とも昼食とも言えない食事を取り、ほんの気まぐれで司書室に顔を出したらちょっとした災難に遭遇した。 特務司書は時折女性の身体になる。最高峰の術者二人によって人工生命として創り出された特務司
[世の中に対して、『あれが欲しい、これが欲しい』って言って来たのが団塊の世代ってやつさ。奴らが子供の時には学校が増えた。成人して会社が増えた。会社の中じゃ役職が増えた。そうやっていつまでたっても『欲しい、欲しい』っておねだりしてるのが奴らだ。 『おい、そんなんで良いのか』って疑問を持ったのが俺達から下の世代だ。 まあ、一緒になっておねだりしてる奴もいるが。 そうやって疑問を持っちまった方は責任を持たされる。要は尻持ちだ。 そんな俺達を見て、我も我もと尻を向けてきやがる奴らがい
帝國図書館研究棟の補修室 黒檀の本体に黒大理石の天板をはめ込んだ小机-文豪自身の有魂書への潜書の為に造られた潜書卓-に一冊の本が乗っている。潜書陣のなかでふわりと空中に浮かんだいるそれがいきなり左右にぶれ始める。と、右手の中の栞紐をひっぱる感覚がする。SOSだ、と感じた特務司書は<見えない綱>を握ってくるりと手首を回すと、思い切り手前に引っ張る。本の中から栞紐に引きずられるように光の粒が引っ張り出される。光の粒が集まり質量を持つとどさり、と音がして床には人が蹲っている。
帝國図書館、敷地内のバー そこは利用者の入り込めない研究棟に併設している建物である。研究棟職員-主に転生文豪が-の有志が交代でバーテンダーを務め管理をしている。とはいっても任されているのは山本有三と松岡譲で、彼等とて転生した本分-有碍書の浄化-が優先となるので、毎日のようにバーを開けるわけにはいかない。本来任務の合間を縫っての開店は良くて週に三日、通常は週に二日しか開かない。山本か松岡のどちらかがカウンターに立って。今夜は珍しく山本と松岡の二人でバーを回していた。 夜半
他人の記憶の中になんか、いてやるもんかと思っているが、 時折、何年かに一度、以前交流のあった (仕事とか、勉強会とか、呑み会とか)で知り合った連中が 連絡を寄越す。 こちらは全く記憶にない。 元々、親類縁者の名前でさえ、読み方は覚えていても、 姓名の文字はろくすっぽ知らずにいるから、 私の感覚では当然なんだが、 向こうは、自分の事は当然覚えていると思い込んでいる。 厄介 いや、もう、ね。 始めまして同然なんだけれど 知り合った人間全員、覚えてなきゃいけないのか? 何
帝國図書館本館 閉館後、館内点検も終わり、常夜灯のあかりだけがともされている。開館時間中は開放されている閲覧室の入り口は重厚な樫の扉を閉じしばしの眠りにつこうとしていた。新館の閉館時間にはまだ一時間近くあるため、図書館の敷地内にはまだ利用者がいるが、本館には利用者は誰も居ない。居るのは当直の職員と利用者が居ない時間を狙ってやって来る研究棟職員だけだ。 研究棟と本館の渡り廊下に途中から上がり本館に向かうと職員証で出入り口を開錠し芥川龍之介は本館へ入る。背後でかちりと施錠さ
帝國図書館研究棟の談話室 金木犀の香りが風に乗り、窓から見える木々も色合いを濃くしてきた頃。 松岡譲は一人本を読んでいる。親の付けた名を改め、夏目家の娘と入り婿のような形で婚姻し、逃れたはずの実家の正業だが、手に取ってしまうのはそこに関連した本になってしまう。今読み進めるのは経典を量子力学の観点から解釈したもので、ここまで畑違いと思われる分野からの試みは却って心地よいものがあった。 章の区切れに差し掛かって、本から目を上げふうと息を吐く。栞を挟み込むと本をローテーブルの
帝國図書館研究棟の談話室 朝食を終えた文豪達が食休めに朝刊などを捲っている。島崎藤村はそんな日常の様子を飽きずに眺め書き留める。 島崎の取材-と称するつきまとい-を軽く百回は断っている芥川龍之介は今朝も親友の菊池寛と一緒だ。朝の煙草は芥川の体調-精神面での-の良さを表して少な目だ。 夏目漱石と正岡子規が朝刊を挟んで話をしている脇を泉鏡花を従えた尾崎紅葉が歩いていく。多分潜書室に向うのだろう。それを見て夏目と正岡が新聞を畳み席を立つ。午前の潜書はこの四人だったのを島崎は
私服勤務は許可されているけれどしばらくは制服を着ていた方がいいだろうと主任司書に言われて、勤務の初日は本館のいつもの更衣室で着替えた。私服と鞄をもって更衣室を出ると館長が彼女を待っていた。館長は彼女に研究棟の職員証を渡すと本館の職員証を受け取った。 職員証を機械錠に翳して本館と研究棟を繋ぐ渡り廊下に出ると、館長は足を止め、彼女に話し出した。 「これから特務司書と筆頭術者に引き合わせる。……ああ、研究棟の研究職員は皆術者と呼ばれている。彼等は原則名前では呼び合わない。ニック
正午のチャイムが鳴ると早々に事務室を出た。職員専用口から閲覧室に出る。自然光を取り入れた閲覧室の明るさに目を瞬かせる。本が居並ぶ独特の匂いが彼女を誘導する。 ー今日はあちらの棚を見てみよう。 彼女はそう思うと閲覧室の奥を目指した。がその途中にレファレンスサービス担当の司書を見かけた。司書は彼女を見つけるや否や睨みつけてきた。いつものことなので気にせずに彼女は進む。事務室職員が閲覧室に出ることは特に禁じられていない。が、司書達はあまり良い顔はしない。彼女に対しては特に……。
帝國図書館研究棟 夕食の時間も過ぎ、就寝前の団欒に何組かの文豪達が談話室のそこかしこを埋めている。常なら会話が時に文学論議へと発展することもあるが、今はぽつりぽつりと、途切れがちな声が続くだけだった。 談話室が、いや研究棟全体がある予感に身構えている。季節の移り変わりを告げる長雨が裏庭とそれに続く里山を静かに濡らし続けている。 気温の低下に伴って閉じられていた談話室の扉を開けて鷗外森林太郎が入ってきた。さっと室内を一覧する森の眼に手を挙げて呼ぶものがいた。 夏目漱石
ここnoteでは自分の妄想を吐き出しているので、 明かに私論をかかげるのはどうかと思うが、 やっぱりTwitterの一言二言では収まりそうもないので 書き連ねます。 整理が出来ていないので、乱雑なのはご容赦。 発端は私のTLにこのようなtweetのスクショが流れてきたことです。 流れてきたスクショは上段のみだったが、念のため検索をしてもとtweetを確認して私がスクショしたもの。下段は「自分の事だよ~」とぼやかしてはいるが。 最初にこのtweetを見た私は瞬時に「なに言
ぱらぱら、と谷崎潤一郎の足元に花弁が落ちる。地植えの茉莉花の傍を通った時に名残のいくつかが谷崎の纏うストールに攫われてきたようだ。雨上がりの空気の中、ふわりと独特な香りが立ち昇る。屈みこんで足元の花を拾うと、そのまま鼻先へ持ってくる。花の香りは時折、特務司書がまき散らすものに似ていた。 百合と茉莉花と梔子が交じり合った-神経が不安定な文豪達が忽ち魅了されてしまう-特徴のある香りを特務司書がまき散らすのは、相当な負担を強いられた時で、その時の特務司書は姿が女性に変わっている
ぱた、と目が開いた。瞳が映す情景は真っ暗で所々に光の眼が散る。 光の眼……違う。 自室の寝台の上であることを思い出した彼女-特務司書の輔筆-は目を閉じる。眠りへ引き込まれる感覚はない。手探りで寝台脇の小机の時計を確認する。とうに夜半は過ぎていたが夜明けにはまだ遠い。伏寝を仰向きに変えてみたが眠りが訪れる気配はない。身体を動かしたせいか余計に目が冴えてしまった。仕方がない……。上掛けを剥いで寝台に起き上がった彼女の身体が冷気に震える。日中はまだ汗ばむこともあるが夜は季節な
帝國図書館研究棟の司書室。 今回の処はこれで失礼する、と苦り切った声を残して<結社>のアルケミスト・ファウストは席を立った。館長が玄関まで送ろうを後を追う。ネコも続いた。師であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは黙ってそれを見送った。 「いいのですか」 何を、を言わずに筆頭術者がゲーテに尋ねた。 「ええ」 ゲーテは小さくともきっぱりと答えた。 「私の答えに迷いはありません。帝國図書館の研究棟で『ファウスト』の中でやっていた研究を続けます」 目を伏せるゲーテを見
陸は扉の前に立った。 長老の一人が教えてくれた<詩>は≪クチナシ≫を追い払うのに役立った。ほっとした。これで≪クチナシ≫に襲われることはない。言いつけをまもらないと≪クチナシ≫になるとか、≪クチナシ≫を傷つけると≪クチナシ≫になるとか言い伝えは色々あるけど、長老達の話を聞いてからは≪クチナシ≫を助けたいと思うようになった。なぜだかわからないが。 長老の一人が付き添ってくれた。<詩>を教えてくれたのは別の人だ。子どもの頃に少しだけ扉が見えたという。 どうだろう、とばかり