恭係
金網の嵌った長方形のステンレスパッドに洋墨を流し込む。金網の上に白紙-奉書紙という和紙だそうだ-を被せ、その上に文豪達が持つ有魂書を載せる。術者が両手指を細かく動かす-印を組むと言うらしい-と奉書紙に補修陣が浮かび上がる。文字通り金網の下の洋墨を吸い上げて陣を浮かび上がらせている。多くの人間に読み潰されたかのような装幀が見る間に新刊書のように変わる、とひとりでに表紙が開き頁が捲れる。
人が本を読むより早く頁が捲れ続ける。時折、読み込んでいるかのように頁が開きっぱなしになり、また頁が捲られ始める。最後の頁-奥付のあたり-を過ぎ裏表紙が閉じると、金の光の粒を残し補修陣が消える。敷かれた奉書紙が水を吸って乾かした後のように縮んでいる。術者は有魂書を手に取り首尾を確かめると、天鵞絨張りの函に収める。ステンレスパッドに洋墨を注ぎ足すとまた奉書紙を置いて次の有魂書を手に取る。
何度見ても見事で見飽きない、とゲーテは感じる。
初めて見たのは2カ月ほど前のこと。弟子のファウストが欧州の結社の調査結果をもたらし、現状の侵蝕現象の首魁ともいえるメフィストフェレスを名乗る負の感情エネルギーの塊を浄化する前。帝國図書館研究棟の全ての術者-補修室付きも研究室も-で、全ての文豪の武器である有魂書の補修するのを見た時。目の前で自分の有魂書が補修されるのを見た。
はっきり言って何をしているのか分からなかった。が、終わりました、と言われ手渡された瞬間、本から流れ込む光の粒がゲーテの意識を拭い明晰にした。治された、と思ってしまった。同時に自分の知る錬金術とはかけ離れた技術であることが、分かってしまった。自分の知る錬金術では手におえないことも……。術が発動する道筋も理論も全く分からない。こんなものを欲しがっていたのかと、改めて赤面した。
この術の最高峰である二人の術者の覚悟にも……。
※※※ ※※※ ※※※
迎えに来た白い着物に幅広の紺色のズボン-袴というらしい-を穿いた少年はシリエと名乗った。山本先生がおいでになるところまでご案内します、といわれゲーテと菊池寛、中里介山、織田作之助の四人は畑-菊池達は懐かしい風景と言った-の中を歩いて行った。
「ここは特務司書の内面世界で間違いないか」
菊池が尋ねると、くすり、と笑ってシリエは答えた。
「そうです。僕達術者の記憶がこの世界を造ってますが」
「ぼんち一人だけやないのん」
織田の問いかけには、あちらとかあちらとシリエは指をさす。その先には何人かの男女が作業らしきものをしていた。田起こしか、と中里が呟く。
「僕も含めて皆術者の概念の欠片です。彼の方のおひとりに辛うじて救われた」
「救われたというのは、どういうことかな」
左右両方に広がる光景をちらちら見ながら、中里が問う。
「侵蝕現象との戦いに敗れた術者がその存在を消してしまう寸前、辛うじて残った一片をその身に取り込まれて……。間に合わなかった術者は数知れません」
シリエは静かに答えた。
「俺達よりも前に、術者が侵蝕者と戦っていたのか」
菊池が驚嘆の声で問う。
「それも含めて、ご説明されると思います」
シリエは里山の中腹にある自然の高台に四人を導いた。
ここは見覚えがある、とゲーテが思う。咲き誇る枝垂桜の根元に少女と特務司書が眠る。シリエが声を掛ける前に二人の男が振り向いた。
一人は山本有三。もう一人は……。
案内役のシリエよりは年長だが、まだ少年と言ってもよい年頃で白い着物とペールブルーの袴を穿いていた。黒に紺が差す瞳と理知的な面差しは特務司書を彷彿とさせる。山本は着物姿だった。少年が深々と礼をしたので、菊池は山本の元に駆け寄り損ねた。
「ようこそお越しくださった。このたびの我等の不始末、お詫び申し上げる」
口上を告げた少年は、ヤブレと名乗った。桜に凭れて眠る少女はマモリと紹介された。どうぞこちらへ、とヤブレの指さす先、小テーブルと椅子が四阿に変わる。真ん中のテーブルを囲むようにベンチが設えてある。
「これは……」
訝しむゲーテに山本が言った。
「記述、書き込みだよ」
四阿のベンチに座る五人に茶を淹れて、ヤブレは山本に伝えた話を少しだけ詳しく繰り返した。
※※※ ※※※ ※※※
「では、生きている人間を素材に人体錬成を行なった、と」
ゲーテが低い声でヤブレに問いかける。
「ゲーテさんの錬金術ではそうなる」
ゲーテの射るような目を受け止めてヤブレは言った。
「禁忌では……」
「禁忌であることは、こちらも同じだ」
畳みかけるように問うゲーテを制してヤブレが続ける。
「術者が自らのいのちを素材にする。それは自らのいのちを往還から外すことを意味する。繰り返されるはずの生と死を遮る。生と死の入れ替わりに浄められるはずのいのちが、浄められることのないいのちになり果てる」
「そんなこと……」
「そんなことが我々術者の術の根本だ」
途中からはゲーテとヤブレ、アルケミストと術者の相違からくる論争に変わりかけていた。
「穢れを祓い浄める。この地に在るものが古くから行ってきたこと。人の負の感情も同じだ。穢れれば祓い浄める。その繰り返しだ」
「繰り返し、だというのか。消滅でもなく輪廻ではなく」
ゲーテとヤブレ中を割って中里が問う。ヤブレが中里に静かに告げる。
「輪廻や循環ではない。往きて還える、結び開く……」
ヤブレは菊池や山本、織田にも視線を巡らす。中里は自分の考えの内に潜った。ヤブレは自分を落ち着かせるように一口茶を啜った。
「なあ、ヤブレくん……って、呼んでええんかな」
織田が遠慮がちに問う。
「かまわない。真名ではないから」
「ん。おおきに。ヤブレくん、なあ、この世界は特務司書の内面世界やろ」
織田の問いの意味を図りかねたのか、一拍置いてヤブレは頷いた。織田が続ける。
「特務司書は自分にそんなモン持ってへんって言うとったけど……」
ヤブレは眠っている特務司書を振り返ってから言った。
「ここは特務司書の内面世界だが、造られたときに持たされたものだ。特務司書であるという概念を強化するために。もともとはシリエ達術者の記憶だ。彼らが生きていた頃の」
ヤブレがつうと視線を外す。高台から見える風景に目をやる。見覚えのある場所に木造の二階屋が五人にも蜃気楼のように見えるとすぐに消えた。
研究棟か、と菊池が呟く。ヤブレが菊池に向かって頷く。
「人の内面世界は成長とともに形作られる。魂の居場所として。魂の成長が内面世界を充実させる。特務司書にはそれはない。そういう意味では持っていないという言い分は間違っていない」
ヤブレが息を継ぐ。
「魂はいのちに宿る。創られたいのちに魂は宿らない。私と彼女とでも魂は作れない。魂は感情と不可分でだ。特務司書は感情の知識はあるが感情は持たない。嬉しいということは知っていてもどういうことかは知らない」
ヤブレは一旦口を閉ざす。一口茶を啜り続けた。
「禁忌を侵し、人でないものを創り出し、それに死人を呼び出させる。人でなしの所業だ。それに生者を加担させる。どこまでも罪深い。だから私と彼女はその罪を負う」
ゲーテに向かって呟くように言った。
「貴方方、結社からの禁忌の処罰は受けようとは思わない」
「すでに処罰は下っている、と」
ゲーテが確認するように問うた。
「未来永劫、侵蝕を浄化する。それが私と彼女への罰だ」
特務司書に似た瞳には、揺るぎない光を放っていた。
※※※ ※※※ ※※※
特務司書の内面世界から戻って直ぐ、侵蝕現象は終わらせることができる、というのが結社の見解だ、とゲーテは筆頭術者と館長に告げた。あり得ません、と筆頭術者が静かに答えた。
「侵蝕現象は人の持つ負の感情が、そのエネルギーが原因です。侵蝕者は人が生み育てているのです。……負の感情も人の感情の一種。人であることの証。…………それがなくなる時は人が人でなくなる時です」
その眼はヤブレと同じ強さで光った。
「人が人である限り、負の感情は生まれる。侵蝕現象はなくなりません。我々術者の務めもなくなりません」
聞きつけた術者達は皆、当然の事として頷いた。
<了>
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