還在
降り立った先は長閑な場所だった。
菊池寛は周囲を警戒しつつ潜書会派のメンバーを確認した。織田作之助、中里介山、ゲーテ。皆無事に潜書できたようだ。
足元は子どもの頃によく見た土の道だった。それが後方から前方へ真っすぐ続く。前方の山並みが桃色にぼんやりと霞んでいる。ふわりと風が通る。チイーチイーという目白の声と鶯のさえずりが聞こえた。
「のんびりしたとこやなぁ」
潜書と同時に有魂書を武器に変えた織田が夫婦剣をくるくるとまわして言った。
「禍々しさは感じないな」
中里も織田に同意するように言った。ゲーテが物珍げに周囲を見回す。
敵と思しき者は見当たらなかった。土の道は遠くの山並みまで続いているようだった。両側に里山が迫っていた。そのせいで見通しが少し悪かった。
「春ですねぇ」
「ああ、桜が咲く前頃だろうか」
道の先に常緑樹らしい木が茂っている。織田が武器を有魂書に戻し、四人は顔を見合わせた。菊池は念のためにと持たされた通信機を操作したが反応はなかった。
「通信機が役に立たん。図書館と連絡がとれないな」
「それでは、私達の判断で行動することになりますか」
ゲーテの口元が緩む。織田が一歩ゲーテに踏み出した。
「ゲーテせんせ。何考えてるんか知らんけど、特務司書と山本せんせを見つけるんが先や」
「ええ、それは、もちろんです」
ゲーテが穏やかにほほ笑む。すいっと織田がゲーテから視線を外した。織田もゲーテを警戒しているのを隠そうとはしなかった
「ともかく、ここに突っ立ってても始まらない。移動するぜ」
菊池が先に立って歩き始めた。
※※※ ※※※ ※※※
嗚咽の声が聞こえなくなるとヤブレが山本有三の腕の中で身じろぎした。
「落ち着いたかい」
山本が声を掛けるとヤブレが頷く気配がした。山本はヤブレの顔を見ないよう努めて離れた。椅子に座り直しヤブレに向き直ると、ヤブレは手巾を取り出して目の下を押さえていた。
「取り乱してすまない」
瞼を少し腫らしたヤブレはさらに幼く見えた。
「泣きたいときは我慢しなくていいじゃないか」
労うように微笑んだ山本にヤブレは憮然として応える。
「そういう訳にはいかない。年長者は私と彼女、シリエ達だけだったから。他のものはまだ術者とは呼べなかった」
山本の脳裏に生前の記憶が浮かんだ。大人達が急にいなくなり、とり残された子ども達……。居場所を失って子どもたちだけで生き残ろうとして……。ヤブレ達も……。ただ生き残るのではなく大人達がやり残したことを引き継いで……。
風が吹いて桜が散った。幹の凭れる彼女の頬が少し朱に染まっていた。
ふい、とヤブレが顔をあげた。高台から見渡す田圃の向こう側にじっと目を凝らした。
「どうやら、山本先生のお迎えが来られたようです」
振り返った顔にはほっとしたような笑顔があった。
※※※ ※※※ ※※※
菊池を先頭に、中里が並び、その後ろをゲーテが続く。織田はゲーテの一歩後ろに着いた。中里が言うように、桜の咲く前、梅と桃とが入れ替わる季節の風が四人の頬を撫でていく。梅の香りが空気と交じり合う。その上に微かな桃の香りが重なる。目白や鶯、雀の囀りが聞こえてくる。古い時代のありふれた早春の一日を思わせた。
特務司書の内面世界と言われなければ、ゲーテ以外の三人はどこか懐かしい世界に紛れ込んだと思ってしまいそうだった。
「古い街道のようだな。まだ徒歩で旅をしていた頃の」
中里がぽつりと言った。
「『大菩薩峠』のような」
菊池は反射的に聞き返した。
「いや。私の作品であれば、こうも穏やかではないだろう。あれは人の修羅を表したものだ。この世界の雰囲気はそれを乗り越えたように感じる」
ゲーテは興味深く中里と菊池の話を聞いた。
「特務司書も自分の世界、持ってたんや」
織田が小さく呟いた。
「どういうことですか」
ゲーテが振返り織田に聞いた。織田は菊池と中里に答えるように言った。
「前に南吉君と賢治せんせが転生の事を聞きに司書室に来たことがあって、助手やったワシも一緒に聞いてたんやけど」
「作家としてのイメージが俺たちを創るというやつか」
菊池が直ぐに問い返す。
「ハイ、ワシらの有魂書の中味は人としてのワシらのイメージと作家としてのイメージが元になって出来てる。作家としていうんは書いたモンそのもんとそれを読んだ人の感想で、そういうモン全部がワシやったら"織田作之助"という世界になるって。ワシらは転生した作家やから本ってぇ形になっとるけど、他の人らにもワシら作家ほどではないけど自分の世界を心に内に持ってる、って。生れてから自分が体験したことや嬉しかったこと、楽しかったこと、悲しかったことは、心の中で強烈に残っとる。それが自分の世界や、って」
織田が息を継いで続けた。
「南吉君や賢治せんせが出てった後に聞こえるか聞こえんか位の声で『私にはそんなものはないのですが』っていうのが聞こえてしもて……」
特務司書は新しく転生した文豪に自己紹介をするときに「人にあらざらるもの」を言う。菊池にも中里にも覚えがあった。術者という普通の人間には持ちえない能力を持つゆえの質の悪い自己韜晦かと菊池は思っていたが、どうやら特務司書の自己認識は韜晦ではないらしい。
右の藪からがさがさと物音がした。いや、藪などあっただろうか。葉擦れの音が消えると野兎がぴょんと飛び出した。道の真ん中で野兎は菊池達を一瞥すると左の藪に消えた。左の藪もあっただろうか。隣りの中里が息をのむ気配がした。
「中里さん」
「いや……。なんでもない」
ぴいひょろ、と鳶が高く鳴いた。今度は織田が息をのむ気配がした。
「オダサク」
菊池は振り返って織田を見た。中里も同じことをしていた。
「織田君もかね」
中里が織田に訊いた。
「中里せんせもですか」
菊池が立ち止まると、三人も合わせて立ち止まった。
「何をした」
菊池は中里と織田に訊いた。
「考えただけですんや、菊池せんせ」
「考えた、とは」
菊池の替わりにゲーテが訊いた。うむ、と唸って中里が続けた。
「考えただけだ。早春のこの時期なら、里山の動物たちも活動を始めてもおかしくない、例えば兎、と」
織田が続ける。
「これだけ長閑やったら、トンビ飛んでてもええんとちゃうかって考えただけやのに、有碍書に潜書した時みたいに書けたんです」
菊池も潜書して直ぐ、桃の花の季節なら菜の花が咲いていてもおかしくないと思った。遠くの山並みを見直すと、霞がかかった桃色の裾に黄色が足されている。
「どなたかが書いているのでしょうか、司書さんの内面世界を」
ゲーテの瞳が観察者のように輝いたのを菊池は見逃さなかった。
「菊池せんせ、あれ」
織田が菊池の後方を指さした。道の向かう先から紺袴を穿いた少年が歩いて来た。
<待戻>へつづく
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