永遠に翔ぶ - 華、蝶々 5
週半ばの帝國図書館、本館ロビー。校外学習の小学生たちに菊池寛が展示物の説明をしている。
「菊池さん、楽しそうですね」
レファレンスサービスカウンターにいる堀辰雄が菊池の様子を眺め、隣の山本有三に言った。
「ああ、菊池の自信作だからね」
ふふふ、とその隣にいる久米正雄が笑う。
図書館本館の閲覧室に通じる扉横は、通常図書館から来館者へのお知らせや、朗読会などのイベント開催の告知をしているが、時折図書館職員や帝國大学の文学研究者たちの研究成果の発表の場ともなっている。今回はレファレンスサービス担当の職員が、利用希望の資料を探していたら偶然に見つけたという明治期の女性作家-樋口一葉がいた「萩の舎」の-原稿に関しての発表、となっている。「樋口一葉に匹敵する幻の作家がいた」というキャッチコピーで。
今回の展示は好評で、小中学生の国語の教材に取り上げられ、毎日のように校外学習での見学の申し込みがある。レファレンスサービス担当はその対応に追われている。カウンターは担当者二人なのだが、今日も堀、山本、久米という三人で対応している。そこにピンクの髪の青年が近づいて来た。
「よっ、どうだ」
ジャケットを脱いだシャツ姿に職員証を首から下げた国木田独歩がカウンターの三人に声を掛けた。
「あの通りです」
「朝から5件、問い合わせがありました。全部樋口一葉ですけどね」
「ま、それはしょうがないか。生誕150年だし」
菊池と交代してくる、といって国木田はカウンターを離れた。小学生への説明を一通り終えたらしい菊池は、便乗して聞いていた利用者たちの質問を受けていた。それを捌くように割って入る国木田がカウンターから見えた。国木田が展示物を指さしながら説明を始めると、菊池が質問をしていた女性二人を連れてカウンターに戻ってきた。
「『図書館通信』っていつ発行だっけ」
菊池がカウンターの三人に聞く。
「確認してくるよ。少々お待ちください」
利用者の二人に断って、久米が貸出カウンターにいるフロアの責任者を探した。館長直属の主任司書を連れて久米が戻ってきた。主任司書が利用者の二人に確認する。
「次に発行する『図書館通信』で間違いないですか」
利用者の一人がブンブンと音がするほど首を縦に振った。
「次の土曜日にはお配りできるかと」
司書が言い終わるかのうちに、利用者の声が同調った。
「予約できますか」
「予約ですか」
堀が戸惑いながら言うと、利用者の一人が手に持ったコピーを指さして言った。
「『図書館通信』にこれの全文が載るんですよね。続きを読みたくて」
予約、と首をかしげる菊池たち三人をよそに、主任司書はカウンター備品のメモとボールペン二人分を来館者に差し出し、言った。
「ではここにお名前と連絡先を。読み仮名もお願いします」
書き終えた利用者はお願いします、と言い残して、閲覧室へ入っていった。司書は利用者が書いたメモの内容を確認しながら言った。
「総合案内でも希望がありましたよ。『図書館通信』の予約の事」
改まって菊池たちに正対して続ける。
「館長からは今回の展示内容に関することは、無理のない範囲で利用者の希望に応えるように言われてます。先ほどのようなご希望があれば、お名前と連絡先を聞いてください。終業後に貸出カウンター分も含めてまとめておきますから」
引き続きお願いします、と言って主任司書は貸出カウンターに戻っていった。
「いろいろと、凄いことになってきたねぇ、菊池」
「菊池さん、頑張っていらっしゃいましたし」
「ああ、鬼編集長っていう二つ名は伊達じゃない、っていうのを見せつけられたな」
堀が更にふふふと思い出し笑いをする。
「なんだ、堀。まだなにか」
「いいえ、未整理資料庫で島崎さんと芥川さんと菊池さんと永井さんが作業をされているのを思い出して、ふふふ」
ああ、それか、とむくれる菊池の隣で我慢できずに久米が笑い出した。山本も菊池の顔を見てはははと笑った。
「でもそのおかげで、原稿を三つも見つけられたんじゃないか、お手柄だよ」
「まあな、特務司書の負担も減ることになったしな」
発見された原稿うち一つに「小萩」という筆名の由来があり、別の清書されたその原稿にはくっきりと「小萩」の署名があった。
雑談をしている三人に近づく影があった。
「いらっしゃいませ。あら」
素早く対応した堀の頬が緩んだ。噂をすれば、森鷗外とゲーテ、小萩がいた。森とゲーテは休日なのか、小萩に合わせて和装であった。
「ゲーテさん、お似合いです」
「有難うごさいます、堀さん。案外動きやすいですね。気に入りましたよ」
「森先生、今日は休みか」
「ああ、君たちの労作を見に来た。図書館内ぐらいならと特務司書に許可をもらってな」
森とゲーテに挟まれた小萩は、鉄紺に銀糸を織り込んだ単衣に砂色の帯、臙脂の帯どめで、髪は結わずに一つにまとめに垂らしている。色白ではあるが病み上がりを感じさせるものは少ない。
「あちらで、今国木田さんが説明をされてますよ」
久米が指し示す方をちらと見た小萩は恥ずかしそうにすぐ目を伏せた。一通りの説明を終えたのか、国木田は展示物前のひとだかりを閲覧室の入り口に誘導した。一群が立ち去った後に女子学生のような年頃の二人組が展示物を覗き込んだ。森が小萩を展示物の方に誘導した。それを見送りながら、ゲーテは菊池たちの方に顔を寄せ囁いた。
「小萩さんの帰還の日にちが決まりました。次の土曜日」
一ヶ月ぐらいは、というのが転生文豪たちの見立てだったが。
「森先生の要請です、なるべく早く、と」
どういうことだ、と訝しむ三人にゲーテは言った。
「別れは辛い、ということです」
ゲーテは目礼すると、森と小萩の後を追った。
※※※ ※※※ ※※※
夢か、と思った。
気が付いたら、寝台に寝かされていた。見上げた天井に見覚えはなかった。ここはどこかと尋ねる目線の先に、白い軍服に白衣を着た男性がいた。見覚えはない、だが小萩は男性の名を呼んだ。
「森、鷗外せんせい」
泪が瞳に盛り上がり、目尻を伝って耳元に流れる。あの時、そうあの時。
先生を最後に見たとき。原稿を読んでくださいと。伝えたかったことを書いた原稿。大事な名前。先生に呼んで欲しかった名前。名前をくれた人の事。これからこの名前で文章を書いていくんだという決意。
お話、しなくては。気持ちは焦る。口がパクパクと動くのに声が出ない。あの時と同じ。
先生の左手が熱を測るように額に当てられた。冷たい手、気持ちいい。
先生の後ろで動く人がいるのを見た。ああ、そうか、病院だ。先生の病院。連れてきてもらったんだ。ご迷惑をかけてしまった。
「心配しなくともよい」
はい、と答えた気がしたけれど、そのまま目を閉じた。先生の左手はまだ額の上にあった。大勢の人が動く音がする。話し声。誰かが寝かされているベッドに腰を掛ける。ゆっくりと目を開けてみた。ああきれいな人。
「観世音菩薩もかく、ありきやと……」
ふふっ、とそのきれいな人は笑った。
「菩薩になった覚えはありませんが。気分はどうですか。怖いとか、恐ろしいとかは感じませんか」
右手を胸の上にかざして、その人は言った。この声、ずっと聞こえてた。
「いいえ、嬉しいです」
声は擦れたけれど、ちゃんと言えた。
「それは良かった。自分が誰だかわかりますか」
その人の黒い瞳に見知らぬ誰かが映っていた。でも。
「小萩」
にっこりと笑ってその人は続けた。
「では、この方は」
左手で鷗外先生を指し示す。
「森、鷗外、先生」
今度はちゃんと言えた。でも先生は背中を向けてしまわれた。また失礼があったのかも。
「ふふ、照れていらっしゃるだけですよ。驚いたでしょう。もうすこし休みましょう。お話はそれからでも大丈夫。もうすぐいい知らせが来ますから。少し騒がしくなりますがゆるしてくださいね、小萩さん」
その人が言い終わると、遠くでガラッと扉が開く音がした。続いてどたどたを走る音。そして。
「森先生、見つけたぞ。彼女の原稿。三篇だ」
しぃ、と特務司書が左の人差し指を口先に立てるのと、森が侵入者を睨みつけるのはほぼ同時だった。
やらかした、と菊池は思った。未整理資料庫で原稿を見つけ、森に見せに行くという芥川を入浴して埃を落とした後だと説き伏せ、永井と競争するように風呂を出て今。補修室、補修中、女性ということをすっかり忘れていた。それは永井も同じことだった。森の雷は落ちなかったが、斎藤茂吉が二人の襟首をひっつかみ、補修室から医務室に引きずり出した。
仁王立ちの斎藤の前に、項垂れた菊池寛と永井荷風。スクープだ、と鬼編集長は喜んだ。北村透谷がカシャカシャとシャッターを押した。ねえ、どんな気分と島崎藤村は取材チャンスを逃さなかった。
そんな親友の苦境をしり目に、芥川龍之介は今日発掘した原稿をもう一度読み直していた。一つは筆名の由来。一つは季節の花々について。最後は読んだ本の感想。言葉の選び方に幼さは残る。話の組み立ても拙い。が、着眼点や掘り下げ方に独自のものがある。何よりも素直。実のところ、鷗外の弟子と言われるがどれほどのものだ、と思い読み込んでみたのだ。言葉選び、組み立て、着眼点も考え尽くせばこういう見方もできる、掘り下げ方も不可能ではない。
でも。生前は自分の文章の欠点を自虐的に追求した。変えようと思った。だが最後まで変わらなかったものがここにあった。
斎藤の菊池と永井への説教は続いていたが、補修室から特務司書と森が出てきた。小萩の原稿を手に、じっと考え込む芥川を見て、特務司書が森に
言った。
「森先生、大丈夫ですよ。天下の芥川龍之介が認めたのですから。彼女の存在は消えませんよ」
※※※ ※※※ ※※※
本を作ります、と特務司書という人は言った。
本ですか。ええ、貴方の本です、小萩さん。ありがとうございますと素直にお礼を言った。本になるなんて夢みたいだから。目覚めた場所は夢みたいなところだった。鷗外先生がいる。雑誌でしか読んだことのない先生方がいる。知らない先生方がいる。でも、どなたの事も私は知っている。その感覚が怖くて特務司書さんに相談したら、それが文豪である証拠だと言われた。文豪、私が。わからない。そういうと特務司書が私を建物の地下に連れて行ってくれた。そこは本が並んでいた。本、本、どこまでも本。書棚のひとつの前で司書さんは止まった。並んでいる本を一冊取り出して私に見せてくれた。鷗外森林太郎著作。ああ、森先生の本。にっこり笑うと特務司書さんは本を棚に戻してまた歩き出した。沢山の本、本。別の書棚の前で立ち止まる。書棚の中程の高さからまた一冊取り出して、特務司書さんは私に見せる。樋口一葉・作。ああ、お姉さん。私に名前をくれた、お姉さんの本。すぅと手を伸ばして指先でお姉さんの本を撫でる。ふふ、と笑って特務司書さんは私を招く。小さな机と椅子。その片方に私が座ると反対側の椅子に特務司書さんも座る。机の上にはお姉さんの本。その隣にどこから出したんだろう一冊の本を特務司書さんが置いた。本の表紙を見る。そこには小萩・作。 あ、これは。これが貴方の本ですよ、と特務司書さんは言う。この本はこの部屋の書棚に納められます。はい。特務司書さんの黒い瞳が私を見つめる。私は特務司書さんの瞳に移った私を見る。見知った、見慣れない姿。小萩さん。すっ、と特務司書さんが居住まいをただした。ああ、大切なことを伝えてくれる。目覚めてからずっと特務司書さんは優しい。優しいけれど厳しい。厳しいことをいうときは居住まいをただしてはっきりという。何度かそれを見た。貴方は自分が人であって人でないこと知っていますね。ああ、それも私の怖いこと、怖いと感じること。生きているけど生きてないと感じます。ええ、その感覚は正しいのです。本当なら貴方もここにいる文豪の皆さんも魂ですから。魂。はい、その魂に私たち術者が形にしています。この先生はこんな人だという多くの人の思いを味方にして。今の貴方は森先生たちが思いが今の形にしています。ただその思いだけでは貴方をこのまま存在させるには小さいのです。このままだと私はどうなりますか。貴方の姿が消え、魂も消えてしまいます。私は消えてしまうのですね。ああ、大切なこと、大事なこと、悲しいこと。これを告げようとしてくれたのか。でもなぜか悲しくはない。森先生との別れはあんなに悲しかったのに。じっと見返す私に特務司書さんが続けていった。ただ、特務司書である私は、文豪の魂が消えてしまうことを認めるわけにはいきません。なので、貴方の本を作りました。この本には貴方の書いた文章と貴方に逢った方々の貴方との思い出が載っています。文章にその人の魂が宿ると聞いた覚えはありませんか。はい、私も。この本の文章にも貴方の魂が宿っていると私は思います。それは。人の縁は魂と魂を結びつける聞いたことがあります。ならば、文豪が貴方の思い出を書けば、貴方の魂と書いた文豪の魂が結び付くと思います。特務司書さんは小萩と書かれた本を私に手渡した。
五月の風は爽やかなり。
そになびく白藤、震える躑躅、梔子、
なかでも泰山木の大ぶりの花
貴方の好きな季節の好きな花ですね。ふふふと特務司書さんは笑う。思わず口から洩れたのは私が書いた文章だ。清少納言だなと森先生に笑われた。小萩さん、この本の中の貴方の魂の欠片と今の貴方を形にしている魂とを合わせることができれば、貴方の魂が消えることはありません。ただ今の姿は消えてしまいます。そして貴方の魂の居場所はこの本の中だけになります。樋口一葉さんの魂もこの本の中にいらっしゃるのは分かっていますが、森先生たちのように姿かたちを現わすことはありません。同じように貴方も姿を現すことはできないでしょう。小萩さん。はい。特務司書としての私は今この瞬間も貴方を魂にしてこの本の中に返したい。ただ、今の貴方には意思があります。魂が消えるまでの間、森先生に師事したいと思われても、私は止めません。貴方の希望を最優先に今回の出来事の処理します。はい。私は特務司書さんの顔を見続けることができなかった。俯いた私に特務司書さんは言った。あまり思いつめないでください。厳しいお話をしたお詫び、というわけではないですが、ちょっとだけ。樋口一葉さんは頑固なんですが、貴方なら大丈夫でしょう。そういって特務司書さんはお姉さんの本の上で素早く手指を動かした。
※※※ ※※※ ※※※
「あっけないものだな」
「もともとは一つの魂。結びつくのは当然です」
研究棟2階、三つある潜書室のうち一番小さい部屋に森鷗外と特務司書、二人の術者がいた。
「潜書してみますか」
術者の一人が森に尋ねた。特務司書を支える筆頭格の術者が。
「君たちが成功したというのならそうなんだろう。潜書してまた呼び出してもな」
分かりました、と言って術者二人は退出した。一昼夜、潜書準備室で様子を観察し、何事もなければ特別書庫に移される予定になっている。
小萩が有魂書に戻ったことは、明日助手の徳田秋声から皆に知らされる。
滞在中に交流があった文豪たちは残念がるだろうが、小萩の状況はそれとなくリークしているし、直接文句を言ってくるであろうものたちにはあらかじめ今日の日時は知らせてある。
「少し歩かんか」
森が特務司書を誘う。そのまま潜書室を出て、1階に降り、本館への渡り廊下の途中から裏庭への小径に降りる。武者小路実篤や徳冨蘆花が手掛けている畑や室生犀星が丹精している花畑の通って植林された桜の林の間から続くなだらかな坂道を上ると、ちょっとした見晴らし台のようなスペースがある。坂道はその先も続いている。見晴らし台には古い枝垂桜がある。枝垂桜の根元近くから分かれた枝は人が一人座れるだけの太さがあった。
特務司書は枝垂桜を見上げる。森は見晴らし台から図書館を眺めている。
「彼女は幸福だったろうか」
そのままで特務司書はそっけなく答える。
「恩師に再会しました。自分のやっていたことが形になりました」
「それだけか」
「私は状況ごとに最善策を考えるだけです」
森は振り向きつかつかと特務司書に近寄った。左手で襟を掴んでこちらを向かせると脅すように言った。
「それで、君は、貴様らは満足か」
特務司書は森を見上げた。黒い瞳がじいっと森を見つめた。
「なすべきことをせよ」
常の特務司書ではない男の声がした。
「それだけだ」
気の早い夏の虫が鳴き始めた。
「済まない。忘れてくれ」
森は一言言い残すと、図書館へ戻っていった。
※※※ ※※※ ※※※
土曜日の夜九時を過ぎた研究棟1階。国木田は談話室のいつもの場所にいた。壁新聞編集部が編集会議をするテーブル。周りには就寝前の文豪たちが三々五々集まっていた。国木田は掛け時計で時間を確認した。もう小萩は有魂書へ帰還を果たしただろうか。それにしても静かだな。国木田は周りを見回した。集まった文豪たちは仲間内でひそひそと話をしていた。
国木田が気づかないうちに、小萩が有魂書に帰還することは文豪全員の了解事項となっていた。有魂書を作って持たせるというニュースには、文豪全員か彼女の武器種が何になるか期待した。が、小萩と交流したものは、彼女が戦闘に参加することに反対した。なにより「女は銃後を守れ」と考えるものが多かった。実のところ、特務司書が作るといった有魂書は、文豪たちがそれぞれに持つ有魂書とはまるで違うものであるが。特務司書はその辺りをあえてぼやかして皆に伝えた。帰還の日時はさりげなくゲーテがリークした。心あるものは小萩を別れを済ませたであろう。
国木田たちが企画した展示は好評で、展示期間の延長が決まった。本館の一般職員の研究棟職員を見る目が変わった。喜ばしいことだが、国木田は特務司書の掌の上で踊らされたような気分だった。特務司書がこの出来事を通じて本当は何がしたかったのか。直接聞いても答えてくれるような親切な人間でないことは分かっている。島崎の言うように悪い人間ではない。では良い人間かというとそうとも言い切れない。今回の事で、多分森鷗外は特務司書に怒りを感じているだろう、と国木田は考えた。それが、これから先どんな影響を及ぼすか。全く、取材しがいのある環境だと国木田は思った。
<完>