姿省
帝國図書館研究棟の司書室。
今回の処はこれで失礼する、と苦り切った声を残して<結社>のアルケミスト・ファウストは席を立った。館長が玄関まで送ろうを後を追う。ネコも続いた。師であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは黙ってそれを見送った。
「いいのですか」
何を、を言わずに筆頭術者がゲーテに尋ねた。
「ええ」
ゲーテは小さくともきっぱりと答えた。
「私の答えに迷いはありません。帝國図書館の研究棟で『ファウスト』の中でやっていた研究を続けます」
目を伏せるゲーテを見つめる特務司書と筆頭術者の耳に、こんこんこんと補修室側の扉を叩く音が聞こえた。
どうぞ、という特務司書の声に応えてスライド扉が開き、終わったか、という声と共に佐藤春夫が顔を覗かせた。その後ろに国木田独歩と島崎藤村の姿も見える。二人は館長とファウストが渡り廊下を本館から研究棟に向かうのを見つけて補修室に潜り込んでいた。島崎が佐藤の脇を潜り抜けて司書室に入ってきた。
「ねえねえ、何があったの。彼、この前も来てたよね」
いつものように取材を始める島崎に特務司書は言った。
「館長が戻られたらお話しますよ。皆さんもこちらへ」
特務司書の答えに佐藤は振り返って、入っていいらしいぞと声を掛ける。ぞろぞろと佐藤を含む最初の五人-徳田秋声、織田作之助、堀辰雄、中野重治と輔筆も続いて司書室に入った。最後に入った国木田独歩がスライド扉を閉めた。ファウスト達に出していた茶器を引き取り、皆に新しく茶を淹れ直すと補修室側の扉から出て行った。筆頭術者がソファを立ち、執務机の特務司書の後に控えた。こんこんと廊下側の扉を叩く音がし、館長がネコを抱えて入ってきた。
※※※ ※※※ ※※※
「それなら、一刻も早く対応しないと」
ファウストが齎した情報ー転生文豪を現世に繋ぎ止めておくために特務司書の力が酷使されているーは、この場にいる転生文豪達に衝撃を与えた。政府は、と言いかけた中野を遮って特務司書が言う。
「ファウストさんの言う通り、皆さんの転生を維持するために私の力は使われています。今この瞬間も。しかし、それは酷使というほどではないのですよ。私が皆さんの使っている力と同じだけのものを、私も皆さんから頂いてますし」
館長が続ける。
「中野が懸念することは分かる。だが侵蝕現象の対応は帝國図書館の研究棟が一任されている。100%ではないが研究棟の要望は政府に受け入れられている。前にも言ったが、帝國図書館の研究棟がなければ侵蝕現象に対応できる組織や部門、部署はない」
「本当のところはどうなんですか。司書さんも無理されてるんじゃ……」
堀の不安げな問いに筆頭術者が答える。
「もろ手を挙げて大丈夫、とは言い切れません。ファウストさんが言うまでもなく魂の世界は不安定ですから、それに引っ張られて特務司書の体調に変化があるやもしれません。それよりも……」
筆頭術者が特務司書を後ろから見つめる。唇を舐め、告げるかどうかを逡巡していた。振り返って筆頭術者を見た特務司書が小さく頷いた。
「どちらかというと、私の中にいらっしゃる方々の心境の変化なのです。こちら側に介入しようとされている。具体的には私の身体を使って皆様とコミュニケーションを取りたがっている、私の体調不良はその調整なのだと思います」
「中のお人って、あの若サン等か」
特務司書の内面世界に潜書した織田が確認する。
「ええ、彼も彼女も、どちらも。今まで何もなかったのですが……」
つうと俯きながら特務司書が語尾を濁すのを、皆は珍しいものでも見るように眺める。
「ふうん。また取材させてもらってもいいかな」
島崎だけがいつもと同じく特務司書に問いかけた。
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魂の世界の対応は現在進行中の芥川龍之介と太宰治の潜書結果を待って決める、と館長が言ってこの場はお開きとなった。追加取材だと国木田が館長を、島崎が筆頭術者を追って司書室を出て行った。
堀が補修室に待機していた輔筆を呼び戻し二人で茶器を片付ける。司書室を出ようとしたゲーテに特務司書は声を掛けた。
「ゲーテさん、これを」
特務司書がゲーテに輪でつないだ鍵を二本渡す。
「館長からの言伝です。三階の館長が使っていた部屋を明け渡す、とのことです」
ゲーテが驚いた顔で鍵と特務司書を交互に見た。
「いえ、私は、実験室の一角でよろしいのですが」
特務司書はゲーテのコバルトブルーの瞳を見つめて言った。
「三階の術者の総意だそうです」
そうですか、と悄然といいゲーテは鍵を受け取った。
「私の中で見聞きされたことを無駄にしないでください」
特務司書の言葉に小さく頭を下げるとゲーテは司書室を出た。ゲーテが司書室を出たのを確認して德田が特務司書に訊いた。
「司書さんはいいの。その……ゲーテさんが研究棟に移るのは」
德田がちらりと佐藤を見る。視線で德田の意を受けて佐藤が話を継いだ。
「あんたの内面世界に潜書するっていう時に、志賀さんが菊池に耳打ちしていた、ゲーテに気を付けろ、ってな」
輔筆がソファセットのローテーブルに人数分の珈琲とお茶請けの焼き菓子を置く。五人が座るのを待って特務司書が話し出した。
「研究に専念したい、という申し出がゲーテさんからありました。それに今日、ファウストさんがいらしたのはゲーテさんに<結社>への復帰の意思があるかどうかの確認でした」
「それは、約定違反ではないかな」
中野が鋭く問いかける。
「ええ、ゲーテさんと私と館長とネコを手に入れようと、かなり焦っていらっしゃるようでした」
輔筆から珈琲を受け取り、特務司書が答える。聞いた五人は一様に眉を顰めた。
「先日いらした時のお話はさきほどお話した内容とゲーテさんに<結社>への復帰を促すものでした。その場でゲーテさんは断られたのですが」
「じゃあ、なぜ今日またやってきたんだ、彼は」
摘まんだ焼き菓子を齧りかけて德田が言う。
「諦めきれずに……だろうね」
中野が確認するように特務司書を見ながら言った。
「どうでしょう。ただ、あの場を……、筆頭を呼び出して、館長とファウストさんを引き連れて司書室にやってきたのはゲーテさんですし、その途中で輔筆に行き会って皆さんに補修室で待つように言伝たのもゲーテさんです」
輔筆は確認するように顔を向けた特務司書に頷いた。
「俺達に聞かせようとしたってわけか」
佐藤の問いに特務司書は首を振った。
「分りません。疑えばきりがない。ただ、私は信じます」
それきり、珈琲を飲み干すまで皆黙り込んだ。
<了>