久方の…… - 華、蝶々 2
帝國図書館内医務室。
責任者の鷗外森林太郎は夕食後の小休憩を取りながら、特務司書がやってくるのを待っていた。お役所勤務であれは、終業の時間はとうに過ぎている時間であるが、帝國図書館内の研究棟に関しては、就業規則などあってない。
侵蝕現象ー帝國図書館の特別書庫の蔵書のみに発生する怪異現象ーは時と場所を許してくれない。いや現在は、帝國図書館の特別書庫のみで発生するから、場所は許してくれるのだが、いつ発生するかは予兆さえない。
そのため研究棟は365日24時間機能している。特に侵蝕者討伐の司令塔である特務司書にはプライベートなど無いに等しい。
森が、患者の回復の具合を確認しようと腰を上げたと同時に、医務室の呼び出しベルが低く鳴った。鍵は開いているが、森はベルを押した人物を迎えに行った。
居るのは特務司書。黒い細身のスラックスに、白のシャツ、黒のベストを着た、男とも女ともつかぬ人物が静かに森を待っていた。転生した森の身長は180センチ近くあるが、特務司書は見上げることなく、森を見つめてくる。森はスライド式の扉を人一人分が通れるだけ開け、特務司書を招き入れた。
「島崎さんの様子はいかがですか」
特務司書は余計なことを言わない。必要なことを聞き、必要なことを伝える。他の人間ならそっけないとか不愛想とか言われかねない言動でも、なぜか発言時の心境が文豪達には伝わってしまうのだ。今の森にも、必要以上ではないかと思われるほど、特務司書が島崎の事を心配していると分かってしまった。
「特には。時々寝言を言っているようだが」
「耗弱・喪失からの回復に伴う夢を見ている可能性はありませんか」
ふむ、と森は島崎が運び込まれてからの事を思い返した、そして特務司書が「夢」をいう言葉を少し強調して言ったように感じた。
「夢を見ているようではあるな。しかし、暴れることはない。うなされていることもない。寝言のような呟きが時おり発せられるが、意味は不明だ」
「意味不明というのはどういうものでしょう。具体的に何か覚えていらっしゃいますか」
「「そうか」とか「そうだ」とかいう言葉は聞いたと思う」
特務司書は森を見つめた。「漆黒」とか「黒の中の黒」と詩人たちが評する瞳に、軍服に白衣姿の森が映っている。見つめ返す森の瞳が揺れた。
「話は変わるが、北村君のことだ」
特務司書は、何かを思い出すようにゆっくりと瞬きをし、森を見つめた。
「彼には、睡眠薬は処方しないと決めた。彼にも話した」
「それは、北村さんには辛いことになるかもしれませんね」
「斎藤君を交えて話した結論だ。今後は斎藤君に担当してもらうことにした」
「わかりました。術者達にも研究を進めるように言っておきます」
「ゲーテ殿が進めている、文学の復活、か」
「はい。ゲーテさんの話では時間はかかるが可能であると。ただ、北村さんの場合は、消えてしまった範囲が広いので」
「皆の根気が続くか、という問題だな」
ふふっと笑って俯いた視線が、もう一度しっかり森を捉えて離さなかった。さりげなく、なるべくさりげなく、森鴎外は特務司書に進言した。
「今回、島崎君が潜書した本だが、俺も浄化に参加させてもらえないだろうか」
特務司書の眼が、虚を突かれたように見開かれる。が、返答はそっけなかった。
「その件は、島崎さんが目を覚まされて報告を聞くまで保留です。いろいろ検討しなければいけないことがあるので。その結果、鷗外外史にお願いすることがあるかもしれません」
では、失礼しますといって、特務司書は去っていった。一礼する顔にうっすら笑みがあったことを森は気づかなかった。
※※※ ※※※ ※※※
島崎が目覚め、自身の体験と見解を報告してからの特務司書の動きは速かった。『華蝶々』の潜書開始を2時間後と決め、文豪たちに潜書依頼を出した。その会派の中に意外な人物がいることで、転生文豪達は驚いた。医務室と補修室でも同様であった。
会派筆頭・鷗外外史。医師である森鴎外が最前線に出ることに反対する声もあったが黙殺された。特務司書の判断が最優先される事柄でもあったし、なにより森自身が志願したことを周りに伝えた。
「なにも、森先生が行かれなくとも」
森から志願の潜書であることを知らされても、斎藤茂吉は不満を漏らした。医師は負傷者を治療せねばならないーそのために免除されることは数々ある。その最たるものが戦闘行為である。軍医は全滅の時まで自らの命を長らえねばならない。生前、戦場に立ったことのある森であれば自明のことだが、自らそれを枉げようとするのか。斎藤にはその意図が図り切れなかった。そんな斎藤に森は改めて声を掛けた。
「これは、俺の意思、いや我儘だ。弟子を迎えに行きたいという、な」
それだけ言い残すと、森は白衣を畳んで、潜書室に向かった。
森の残した「弟子」という言葉に斎藤は引っかかりを憶えた。
「ふむ。Dr.森はに弟子はいなかったのではないかね」
潜書する間、斎藤を手伝ってほしいと森に請われたコナン・ドイルが尋ねた。コナン・ドイルに限らず海外文豪たちは日本の文豪たちのあれやこれやに興味津々である。この場合は弟子と下僕の違いについてであろうか。
「彼は、サロンを開いていたと聞いているが」
「サロン、ですか」
「何やら対立する文士を呼んで、議論を闘わせたと」
「お若いころは文学論争もされていたようですが、私が知っているのは、ご自宅に歌人を集めて、歌会を主催されていたことでしょうか。私も参加させていただいておりました」
「歌会、詩を読むんだね。議論を闘わせるとは違うな」
「そう差は有りませんよ。子規先生が亡くなられてから、歌詠みの世界は混乱と争いが絶えませんでしたから。そんな状況を見かねて、森先生はご自宅を提供されたのではないかと。あっ」
斎藤は何かを思い出したかのように口を噤んだ。
「どうしたのかね」
「いえ。その歌会でちょっと思い出したことが。白秋や啄木、吉井さんにも聞いてみた方がいいかもしれないのですが」
「Dr.森の弟子、の話だね。今浄化が行われている本の中にいるということか」
「森先生は弟子を取られませんでしたので、おかしなことだと思っているのです」
「まぁ、真相は近く判明するだろうね。なんたって、謎を残した人間が断言したのだから」
この斎藤とコナン・ドイルのやり取りをベッドの間仕切りカーテンに隠れて、国木田と島崎が聞いていた。島崎はベッドの上で、国木田は見舞人用の簡易椅子に座ってだが。こそこそと隠れて盗聴していたわけではなく、島崎は引き続き要経過観察の入院患者で、国木田は単純に友人の見舞である。北村、田山と三人で見舞いに来た。
目を覚ました島崎に潜書中の出来事を聞いて、帰ろうとしたら、北村が夢の話を始めた。島崎も同じような夢を見るという。潜書中の話と夢の話を照らし合わせて、これは森先生に何かあるぞと目星をつけたところへ北村と田山に潜書依頼がきた。北村と田山を見送ったのちに、森の発言を聞きつけた国木田が、医務室からの退出機会を失って今に至っている。普段なら、病人のそばに長時間いるなと怒られるはずだが、今の斎藤は島崎の見舞に国木田が来ていることを忘れているようである。このまま森が返ってくるまで待つか、と国木田が決心し、島崎を見ると、島崎も頷いている。
「よし、島崎。話の続きをしよう。で、夢の中の女も、『華蝶々』の侵蝕者も森先生の名前を言ったんだよな」
「うん。僕の夢では、森林太郎が知っている。透谷の夢では、鷗外森林太郎が知っている。侵蝕者は、森先生に逢いたい」
「言ってることから考えて、北村と島崎の夢の中の女は同一人物、侵蝕者は別の人間だな」
「そうだね。夢の中の女は森先生が何かを知っていることを知っている。多分だけど、森先生と交流があったんじゃないかな」
「ん。じゃ、なんで、女は北村と島崎の夢の中に出てきたんだ。森先生の夢に出てくりゃいいじゃないか」
「それだよね・・・」
島崎は言いかけて、止めた。そして、二、三度自分を納得させるような小さな頷きを繰り返した。「藤村の双葉」と陰で言われている頭頂の毛がそれに合わせて揺れた。自分の考えに潜り込んでしまった島崎を国木田は待った。
島崎はなかなか現実に戻ってこなかった。カーテン越しの斎藤とコナン・ドイルの会話も聞こえなくなった。沈黙の医務室に廊下からどたどたと走り寄ってくる音が聞こえた。方向は潜書室。足音は複数、かなり焦っている、と国木田が判断したところに、医務室のスライド扉が乱暴に開けられる音がした。
「森先生、こ、こっちのベッド……」
田山の焦って上ずった声にがする。
「いや、手前の物を使って・・・」
返事をする森も掠れた声で指示を出したが、それを無視して特務司書が
言った。
「医務室ではなく補修室へ、森先生も。コナン・ドイルさんは、島崎さんの事をお願いします。それと、補修室の術者を全員招集してください」
様子をうかがいに、目から上だけカーテンから出した国木田と北村の眼があった。返り血なのか自身の怪我の影響なのか、森の軍服が前も後も真っ黒に染まっていた。北村には目立った怪我はなかった。田山は補修室へ入ってしまったのか姿が見えない。ともに潜書した尾崎紅葉が弟子の徳田秋声を伴ってスライド扉に陣取っている。野次馬が入ってこられないように止めているらしい。特務司書が続けた。
「德田さん、お手を煩わせてしまいますが、潜書結果を館長に報告をお願いします。それと、研究棟の全術者の協力をお願いするかもしれません。研究中断の許可を館長からいただけますか。私は、森さんと彼女の同時補修に入りますので、しばらくは補修室詰めになります。何かあったら補修室に連絡をしただくようにとも、お伝えいただければ」
はじまりの文豪は、はあといつも通りのため息をついて答えた。
「わかったよ。皆には、補修室に近づかないようにいっておく。君も無理しないで」
徳田の言葉に、不敵な笑みを返して特務司書は森の軍服の左袖を掴み補修室に消えていった。それを見届けると、德田は師の尾崎に一礼し医務室から
出た。やれやれという身振りで、コナン・ドイルが国木田の元にやってきた。
「どうやら私は君たちの監視役らしい」
国木田と島崎は目を合わせた。カーテンの向こうでは、アルケミスト達が潜書後の心身検査を準備を始めたらしい。北村たちを呼ぶ堅い声が聞こえた。コナン・ドイルが間仕切りになっていたカーテンを開けた。国木田と島崎にも医務室の様子が一望できた。
「見事な統率だ。緊急事態というのに、あまり普段と変わらない」
コナン・ドイルにも従軍経験があったことを国木田は思い出した。心身検査と補修を受けた北村が戻ってきた。同じように心身検査と補修を受けた尾崎が、扉の外で野次馬文豪たちを一喝するのが聞こえた。
「透谷、だいじょうぶ」
島崎が北村をねぎらった。北村からは微かに洋墨の匂いがした。
「うん。僕、いや僕たちは。ほとんどの攻撃を森さんが受けてくれたから。”彼女”を侵蝕者から引きはがすのに手間取って、僕と尾崎さんはその時にちょっとだけ攻撃を受けた。花袋君は、どっちかっていうと"彼女"の様子にショックで補修かな」
「"彼女"って、文豪だったのか」
国木田が声を上げる。女性文豪が転生したのは初めてになる。ふむ、とコナン・ドイルが唸った。
「文豪、になるのか、田山君が抱えていた少女は。儚げで美しかったが」
花袋には役得だったかぁ、と国木田は思ったが、コナン・ドイルの次の一言でそんなことはどうでもよくなった。
「”彼女”は”本”を持っていなかったが」
<寄る辺なき……>へつづく