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抱眺

 その日の午後はほんの気まぐれだったのだ、織田作之助にとっては。太宰治は佐藤春夫一門と外出許可を取って日帰りの遠出をしており、坂口安吾は江戸川乱歩や夢野久作ら探偵小説家達と読書会をしており、休暇中の一日をまるまる一人で過ごすことになっていた。前夜から夜っぴての執筆をして昼前に起きだし、朝食とも昼食とも言えない食事を取り、ほんの気まぐれで司書室に顔を出したらちょっとした災難アクシデントに遭遇した。

 特務司書は時折女性の身体になる。最高峰の術者アルケミスト二人によって人工生命ホムンクルスとして創り出された特務司書に人間でいう所の性別はないが、外見は成人男性である。その身体が女性化する。そして人格も常の特務司書ではなく女性のそれとなる。2、3日前から兆候があることや周期的なことから女性の生理周期のようなものではないかと医師である鷗外森林太郎や斎藤茂吉は言っているが定かではない。以前から術者アルケミストの力を使いすぎた時に女性化することはあったらしいが織田は詳しくは知らない。

 今回の災難アクシデントは兆候なくいきなり特務司書が女性化したものだった。

 司書室の廊下側の扉をノックする。中からはえらく慌てている物音がする。何事か、と思った織田は返事を待たずに扉を開ける。入室するとすぐに長椅子に半ば横たわるように座る黒髪の人物とその人物の脈を取る森の姿が目に入った。
 黒髪を見て、織田はすぐに特務司書の輔筆かと考える。
 術者アルケミスト達を除いて、黒い髪の人物は帝國図書館の研究棟では稀である。芥川龍之介、徳田秋声、ラヴクラフトぐらいか。あとは志賀直哉が黒に近い紺色だろうか。そして一人、特務司書の輔筆がいた。
 だが、髪の長さが違う。芥川やラヴクラフトにしては短いし、徳田や輔筆にしては長すぎる。それに髪色の黒さの質が違うように感じる。
「ああ、オダサクさん。丁度いいところに」
 織田が入室したのを助手をしていた中野重治が気づいた。脈を取っていた森も振り返る。と、司書室の奥から輔筆がブランケットを持って出てくる。
「司書さんが体調不良で、自宅休養になったんだけど、付き添いが輔筆さんだけじゃ心許なくてね。休暇中悪いけど自宅まで送ってくれないかな」
 中野が予定表のファイルを確認しながら織田に言う。
「そんなこと、別に構いませんよ」
 いつものように笑顔で応じる織田に森が言った。
「どうやら意識が入れ替わっている最中らしい。自力で歩かせるのは危ないから抱えて連れて行ってもらえないか」
 森に言われて織田はまじまじと長椅子の人物を見る。面影は確かに特務司書である。白磁の膚、漆黒の瞳を飾る頬に影を落とす睫毛。違うのは白銀に金糸の混じる髪色が瞳の色を写したような黒、上気した頬、紅に染まる唇、丸みを帯びた肩-一目で女性だと分かる。
「大丈夫……です。森……先生。いつものように……輔筆がいてくれれば……」
 特務司書の視線は輔筆を探し始め、森の言葉に反論した。が、それを輔筆がやんわりと遮った。
「いけません、司書。熱が出始めてます。ご助力をお願いしましょう」
「輔筆……」
「ここはまだ司書室ですよ。お休みになるならご自宅で。私も安心です」
 その後も、中野や森とのやり取りがあったが、発熱の疲れで眠ってしまった特務司書を織田は抱きかかえて自宅まで送った。

 ※※※ ※※※ ※※※

 自宅の寝台に横たえられた特務司書を甲斐甲斐しく世話をし始めた輔筆を残して織田は裏庭に出た。放り出されたような気分で裏庭を歩くと、来年は米を作ろうと計画して開墾作業をしている武者小路実篤らがいた。軽く声を掛けて裏に続く桜の林に入っていく。色づいた桜の葉は半ば落ちてしまい、足元の藪がやけに大きく見える。その藪がガサゴソと動いた気がした。
 織田がそうっと覗き込むと、新美南吉がいた。あ、と声を出しかけた織田に新美は人差し指を口の前に当て、しいっと小さくいうと藪の中に織田を引っ張り込んだ。
「南吉くん、かくれんぼか」
 新美はこくんと頷くと織田に訊いた。
「オダサクさん、未明はいなかった」
 織田は少し考える。
特務司書おっしょはんの玄関から回って来たけど武者せんせらしかはらへんかったなぁ」
 ふーんと返事をしてから新美はじっと織田の顔を見る。
「司書さんに何かあったの」
 織田がらしくなく肩をぴくりとさせる。りに誤魔化されがちだが新美も文豪の一人に数え上げられる。児童文学者の観察眼を舐めてはいけない。そしてそのりを利用して直截に訊いてくる。とっさに反らそうとしてた織田の紅玉の瞳を新美の露草色の瞳が追いかける。じっと見つめる新美に押されてぽつんと織田が呟いた。
特務司書おっしょはん、女の人になりはって……」
 ああ、という顔で新美は頷いた。特務司書が女性化することは新美達子供姿の文豪達にも等しく情報共有されている。
「大変、だよね。司書さん。僕達の為に」
 新美が膝を抱えて前を向いて答えた。
「お家まで送って行ったんやけど、輔筆ふでちゃんも特務司書おっしょはんのお世話で大変そうやった。ワシ、なんも出来へんかった……。あんな事になるって、知らんかったし」
 くふふ、と笑いながら新美が言った。
「うん。輔筆ふでちゃんは司書さんが女の人になっちゃったら、とにかく守ろうとするからね」
 何かを思い出したように新美は笑い続ける。
「南吉くん、知っとったんか」
「うん、志賀さんのお八つを届けに行った時に、賢ちゃんと未明と一緒に」
 新美が織田の身体に凭れかかると続けた。
「司書さんも輔筆ふでちゃんも訊いたらちゃんと答えてくれるのにね」
「……………」
「僕ね、あの二人を見てると、子狐に手袋を買いに行かせたお母さん狐みたいな気持ちになるんだ」
 へ、という顔で織田は新美を見る。
「代わってあげたいんだ。でも代わってあげられないし、代わってあげたらダメなんだって」
 ダメなん、と織田が呟く。
「うん。代わってあげたら二人が二人でなくなっちゃうよ。約束してるんだって、それを守らなきゃって輔筆ふでちゃんが言ってた。司書さんのお世話も約束の内なんだって」
 約束は守るもんでしょう、と言って新美の露草色が織田の紅玉を覗き込む。その名を背負って立つ児童文学者の眼で。
 そうか、と織田は独り言ちる。
 司書室で特務司書が誰でもなく輔筆を頼ったこと、特務司書の自宅で輔筆が当たり前のように特務司書の世話を焼き始めた事、織田の中でもやもやしていた事が結び付いた。輔筆は間違いなく特務司書を意識している。性愛や恋愛には遥か遠いものだけれど、間違いなく転生文豪達に向けられる好意とは違う。いや、思い返せば最初から輔筆は特務司書を意識していたのではないのか。 
 片や特務司書も。最初期に転生した文豪として特務司書をずっと見て来たけれど、今まで特定の誰かを頼ることはなかったはず。そんなことを感じ始めてるから、中野も森も特務司書と輔筆を送ってこいと言ったのか。
 少々おいてけぼりを喰った気もしなかったが、織田は新美に言ってみた。
「なあ、南吉くん、ワシらで特務司書おっしょはん輔筆ふでちゃんの、お兄ちゃんになってみぃひん」
 新美はそれににっこり笑った。

<了>

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