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憂懐

 「そうだ。……これでいい。
  ………… いや、これで、好かったのだろうか ……………… 」

※※※ ※※※ ※※※

 休暇中の菊池寛の許に補修室付きの術者アルケミストがやって来た。休暇中にもかかわらず、談話室で執事宜しく飲み物と軽食を提供している松岡譲に説教をしているところへ。

 転生文豪達にきちんと休養を取らせる ― そのために特務司書は館長に諮って転生文豪達を4つのグループに分けた。そして文豪達の担当業務も4種類に分けた。潜書業務とそのバックアップ、本館の図書館業務の支援、そして休暇。業務は1カ月交代で、潜書業務とバックアップ、本館の図書館業務の支援に当たった場合は数日ごとに休日が入る。連休も可能、ただしグループ内の誰かに業務が集中するのを防ぐため3連休以上は特務司書に相談すること。1カ月の休暇中は好きなことをしていて構わない。事前申告と居場所報告の義務はあるが旅行も可能。侵蝕現象の対応に追われ、これまで休日などほとんどなかった転生文豪達の待遇の改善であった。
 で、あるのに……。松岡が休暇中にもかかわらず談話室で働いている、という注進タレコミが菊池の許に入った。情報提供者の中野重治から、松岡に負担が集中し、尚且つ食堂・談話室付きの術者アルケミストの仕事を奪っている、と意見され、松岡に小言を言うという慣れぬ役回りを遂行していた。菊池自身は言っても無駄であると思ってはいるが。それに見たところ、新しくやって来た食堂・談話室付きの術者アルケミストに談話室で用意されている茶器セットやカトラリーの場所を教えているようであった。穏やかな表情で彼女にグラスやシルバーの手入れの仕方を教えている松岡を見るのは菊池にとっても心地が良かった。
 説教というよりも松岡を揶揄っている、そんな菊池を補修室付きの術者アルケミストが見つけた。菊池に近づく彼の様子を食堂・談話室付きの術者アルケミストが先に気づいた。彼女が左右を見回し何かを了解するように補修室付きの術者アルケミストに頷いた。彼女に頷き返すと補修室付きの術者アルケミストが言った。
「菊池先生、それに松岡先生も。ご面倒ですが2階までお願いできますか。緊急で司書がご相談したことがあると」
 緊急で、という言葉に菊池と松岡がともに反応した。司書が緊急で相談したいことなど一つしかない。
「わかった」
 菊池はそれだけ言うと松岡と共に補修室付きの術者アルケミストの後に続いた。

※※※ ※※※ ※※※

 補修室付きの術者アルケミストが目立たないように菊池と松岡を誘導する。3人が階段を上ろうとした時、玄関の扉が開いて志賀直哉が入って来た。首から本館の職員証を下げている。志賀がちらと菊池を見て、眉を顰めた。食堂から出てきた堀辰雄と久米正雄がその様子を見つけた。堀が何も言わず志賀と菊池の間に割って入り、志賀に先に進むように促した。補修室付きの術者アルケミストについて、二三段先に上っていた松岡が菊池を促す。堀と久米も後に続いた。補修室付きの術者アルケミストは何も言わなかった。
 階段を2階まで上り切ると、補修室付きの術者アルケミストは3つある潜書室のひとつの扉の前に立ち、呼び出しベルを鳴らした。カチャリとスライド扉が開錠され、人ひとり分の幅が開けられた。補修室付きの術者アルケミストは4人に入るように促した。

 潜書室には夏目漱石、正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐、それに内田百閒と鈴木三重吉がいた。丸机の上に侵蝕された本が置いてある。本を中心に潜書陣が展開されていた。そのそばに特務司書と筆頭術者アルケミストがいた。潜書陣の上で本が浮き上がり光りはじめる。夏目、正岡、高浜、河東の指先が本に触れる。触れた瞬間、本がひときわ強く光る。ややあって急に光が消え、本が机の上に落ちる。潜書陣が溶けるように消えた。内田が菊池達に言った。
「ずっとこの状態なのだ」
 鈴木が後を続けた。
「今日の当番は、尾崎先生に幸田先生、山田先生と四迷先生、鏡花さんと八雲さん。侵蝕が見つかって直ぐ潜書しようとしたんだけど、潜書陣に反応もしない」
「反応しない、とは」
 松岡が訊いた。
「潜書陣の上に浮き上がりもしない、光りもしない。終いには潜書陣もすぐに消える。潜書できないんだ」
 内田が続ける。
「それで、著者に縁のある先生や俺達が呼ばれた。最初少しだけ潜書できたが、何もできないまま帰還させられた」
「帰還させられたって。誰の本なんです」
 菊池の問いには、特務司書が答えた。
「書名は『あの頃の自分の事』、著者は芥川龍之介」
 菊池達が気色ばんだ。
「龍の本が……」
「見つけたのは里見さんです。特別書庫で。浸食がかなり進んでいます」
 志賀が眉を顰めたのはその為か、と菊池は思った。特務司書が話を続ける。
「すぐに浄化に取り掛かったのですが、内田さんと鈴木さんのお話の通り潜書できないのです」
「それで、僕たちに……」
 久米の声が震えた。正岡が話に割って入った。
「夏目が一度だけ潜書できた。だから俺達より縁の深いお前達だったら潜書できるかもしれないと、俺が言ったんだ」
 こんな時に、と堀が呟いた。菊池は朝から芥川の姿を見ていないことに気が付いた。久米と松岡を振り返る。二人は示し合わせたように首を振った。
「休暇中の方に依頼書を出すのは……」
 特務司書が話し始めたその時、扉の呼び出しベルが鳴った。菊池達を連れて来た術者アルケミストが対応に出た。彼の肩がぴくりと動いた。彼は扉の向こうに何かを告げ、扉を閉めると、特務司書に近づいて耳打ちした。特務司書の表情がわずかに曇った。珍しく考え込んでいる。と、術者アルケミストを残して特務司書自身が扉に向かった。スライド扉を開いて暫く話をする。ややあって一人招き入れられた。入って来たのは芥川龍之介だった。
「龍」
「龍之介君」
 夏目と菊池がほぼ同時に声を掛けた。芥川は夏目達に軽く会釈をすると特務司書に向き直った。
「僕が行こう」
「芥川ッ」
 松岡が珍しく大声を出した。その声に堀はびくりと身を震わせ、久米は松岡を見た。松岡も芥川と同じぐらい顔色を悪くしていた。芥川は松岡をちらと見た。芥川の瞳の青に一瞬狂色が混じりすぐに消えた。菊池はじっと芥川の顔を見た。
「僕が行く」
 芥川がもう一度特務司書に言った。大きくはないが押し付けるような声で。特務司書はじっと芥川の顔を見つめた。
「許可できません」
 暫くあって、特務司書はきっぱりと言い放った。筆頭術者アルケミスト以外が騒めいた。著者が潜書することで浄化の可能性が上がる。実績が証明している。それなのに特務司書は芥川の潜書を認めないという。特務司書が穏やかな口ぶりで続ける。
「芥川さん、ご自身の今の状態はお分かりですか」
 堀は生前も見た事がないような光を芥川の瞳に見た。ひぃと声が洩れて、堀は一歩後ろに下がった。
「……わかっているよ」
 トーンが一段低い芥川の声が聞こえた。特務司書の穏やかな声が続く。
「ならば、許可できない理由はお分かりになるはず」
「僕は著者だ」
 特務司書の声に被せて芥川が言った。特務司書が大きく息を吐いた。
芥川が続けた。
「それに、誰も潜書できないのだろう」
 夏目と正岡が顔色を変えた。高浜が力なく首を振り、河東が視線を落とした。筆頭術者アルケミストが横目で特務司書を窺った。
「尾崎先生に幸田先生、山田先生に四迷先生、鏡花さんとヘルン先生。夏目先生も、子規先生も、虚子さんや碧梧桐さん、百閒さんや三重吉さん……。太宰君や檀君も試したのだろう。誰も潜書できなかった」
 その場の誰もが沈黙した。
「僕が行くしかないんだ」
 芥川が言い切った。特務司書がもう一度大きく息を吐いた。
「芥川さん、貴方は既に侵蝕の影響を受けています。その状態で潜書すればどうなるかわかりません。最悪は……」
「その時は、また僕を呼べばいいだろう、有魂書の中から」
「龍ッ」
 芥川の言い様に耐えかねて声を掛けた菊池をちらりと芥川が見た。菊池の記憶にない光をその瞳は宿していた。丸机の上の本からしゅうしゅうと青黒い霧が立ち昇った。芥川が苦し気なため息をついた。松岡と久米が自分たちの有魂書をその手で確かめた。言い争う場合でないことは全員が理解していた。ふっと息を吐き、特務司書が芥川から視線を外した。暫く考え込んだ後、菊池達を連れて来た術者アルケミストを呼び小声で指示を出した。彼が潜書室を出て行くと、改めて芥川を見て言った。
「わかりました。では、芥川さん、菊池さん、久米さん、松岡さんに緊急の潜書依頼書を出します。ただし、潜書後30分たったら帰還処置を発動します。これが妥協できる限界です」
「感謝するよ」
 芥川が更に声を低くして答えた。

※※※ ※※※ ※※※

 コンコンと小さなノック音が2回した。どうぞ、と徳田秋声が声を掛けると、失礼しますと言って、補修室付きの術者アルケミストが司書室に入って来た。彼は内開きの扉を丁寧に閉めると向き直って德田の傍の女性に声を掛けた。
「輔筆、緊急の潜書依頼書は出来てますか」
 輔筆と呼ばれた女性は執務机の一束の書類を手に取り術者アルケミストに答えた。術者アルケミストは書式を確認すると言った。
「ええ、だいじょうぶです。では空欄になっている一枚の宛名を芥川龍之介先生に……」
「芥川君が、行くのかい」
 意外な名前に德田が口を挟んだ。再度、書類の束を確認しながら術者アルケミストは言った。
「ご本人からの強い希望で。司書が根負けされました」
 徳田が目を丸くした。輔筆と呼ばれた女性は興味深そうに二人のやり取りを見ていた。
「大丈夫なのかい。この時期は……」
 術者アルケミストが顔を上げ德田をじっと見た。德田は嫌な予感しかしなかった。輔筆が德田の顔を見上げる。術者アルケミストは輔筆にありがとうございます、と礼を言い、德田に失礼しますと断って司書室を出た。
 德田は頭の中で輔筆に言っておくことを数えだした。

※※※ ※※※ ※※※

 潜書依頼書が届くまで休憩を頂けますか、と特務司書が断った。そのタイミングで堀が山本有三を呼びに行くといって潜書室を離れた。正岡は畏友に声を掛けた。
「夏目、俺は準備室にいる。何かあったら呼べ」
「ありがとう、正岡。私はもうしばらくここにいますよ」
 夏目は弟子たちの様子を注意深く眺めながら答えた。ぽんぽんと夏目の肩を叩くと、菊池達に頼んだぞ、と声を掛け正岡が高浜と河東を連れて出て行った。正岡の言葉に菊池は会釈で答えた。目でじっと親友を追う。松岡と久米が芥川を見ながら何か話している。芥川は師の視線も友の視線も無視して一心に丸机の上の本を凝視している。術者アルケミストが書類を抱えて戻って来た。特務司書が書類を受け取り内容に瑕疵が無いかを確認すると、その中の一枚を芥川に差し出した。
「芥川さん、今からでも潜書の撤回はできますよ」
「著者の僕が行かなくて、誰が行くんだい」
 芥川は本から視線を外さずに答えた。ほうともふうとも聞こえるため息をつき、特務司書は松岡と久米に同じように書類を渡す。最後に菊池の所にやって来た。書類を受け取った菊池が内容を確認する。いつも通り、侵蝕現象浄化のための潜書依頼と受諾の署名蘭がある。菊池は内ポケットから万年筆を取り出し署名蘭にサインをする。特務司書に声を掛けようとした矢先に囁き声が降りて来た。
「15分です」
 特務司書は各々の署名が済んだ書類を回収し、筆頭術者アルケミストに渡す。彼が全ての書類を確認し、特務司書に潜書の準備が整ったことを伝えた。特務司書が丸机の上に潜書陣を展開する。
「有碍書『あの頃の自分の事』への潜書を開始します。会派筆頭は菊池寛、会派メンバーは芥川龍之介、松岡譲、久米正雄。では宜しくお願いします」
 特務司書が型通りの挨拶を済ますと、有碍書がふわりと浮き上がり光り出す。菊池、芥川、松岡、久米が指先を有碍書に伸ばす。有碍書がひときわ強く光り、珠となって4人の文豪を飲み込む。光の珠が収まると4人の姿はなく発光する潜書陣の上に有碍書がゆっくりと降りてくる。誰ともなしにふうという大きなため息が漏れた。潜書は問題なく行えた。特務司書が譲歩した30分で何が出来るか。いや実際は15分間。侵蝕の程度を確認して戻るのが限度であろう、そう筆頭術者アルケミストは考えた。 
「いけないっ」
 筆頭術者アルケミストの隣で潜書の過程を見守っていた特務司書が声をあげた。両手が忙しなく動く。有碍書がふわりと浮き上がり光る。
「補修室へ…… 応援を……」
 特務司書が指示を出しかけたところで、有碍書の乗る丸机の脇に光が集まった。見る間に人の容を取る。濃翠のジャケットが蹲っている。特務司書は両手を動かし続けている。濃翠のジャケットから光の粒が消えると、ゆっくりとその場に崩れ落ちる。堀が山本を連れて戻って来た。すぐ菊池に駆け寄る。入れ替わりに術者アルケミストが潜書室を飛び出していく。
 有碍書が光るのをやめ、すとんと丸机の上に落ちると、潜書陣がすぅっと消えた。

〈崩懐〉へ続く





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