創懐
誰かに呼ばれたような気がして、芥川龍之介は目蓋を開ける。真っ白な天井、見覚えのあるような、ないような……。ここは。自問を繰り返すうち、ここが医務室であることを思い出す。
医務室、はて、医務室に来るようなことをやったかしら……。7月の記憶が朧げになるのは分かっているけれど、これほど酷いことは今までなかった。さて、何をやってしまったのか…….。そう思いながら探る右手は胸に巻かれた包帯に行きつく。怪我……。何時、何処で……。
「気がついたか」
目隠しのカーテンを捲って菊池寛が声を掛けた。
「寛……。僕、どうして」
身体を起こそうとする芥川を左手で制すると、右手は隣のベッドのカーテンを閉じた。しゃっという音が医務室に響く。
「記憶は、あるか」
水をたっぷり湛えた紅玉が壊れ物を見るように芥川を見つめる。芥川は首を左右に振る。コツコツと補修室から足音が聞こえ、芥川のカーテンの前で止まった。失礼します、と声が掛かりカーテンが捲れる。本を2冊抱えた特務司書の輔筆が現れた。
「お目覚めになられたようなので、これを」
特務司書から言われまして、と言いながら芥川と菊池に赤朽葉の装幀の本を見せる。
「僕の、有魂書」
輔筆は頷き芥川の腹の上に乗せる。左手に握っていたビロードの包みから何かを取り出して、芥川の右手を取るとそれを掌の上に置いた。芥川は掌の上のものを左手の親指と人差し指で摘まみ上げ、目の前にもってくる。
「指環……。覚醒の……」
無意識に覚醒の指環を嵌めた芥川に指環から記憶が流れ込んだ。
「松岡っ」
飛び起きかけた芥川と輔筆が止めた。ううんと輔筆と反対のカーテンから声が聞こえた。
「松岡はまだ眠っている。大丈夫だ、消えてなんかいない」
菊池が宥めるように芥川に言った。
「だから、お前ももう少し眠れ」
輔筆が腹の上の本へ芥川の右手を導く。ほんのりと浮かび上がったひかりが芥川の右手指に吸い込まれる。寛……と問いたげな言葉を残して、芥川は眠りに融けていった。
ほっとした表情の輔筆がカーテンを捲って芥川のベッドから離れる。コツコツと音がして松岡のベッドに近づくのを菊池は聞いた。芥川の腹の上の有魂書を枕元に動かして布団を掛け直す。芥川の右手を布団の内に仕舞う際に軽く握る。すまない……。生前から何度も繰り返した言葉をまた心の中で繰り返した。
目隠しのカーテンを治して、隣のベッドに移る。輔筆は菊池がやってくるのを待っていた。松岡譲はすーすーと寝息を立て深い眠りの中にいた。輔筆が同じように松岡の腹の上に撫子模様の本を置く。布団の中を探り松岡の左手を取ると本の上に置いた。ほんのりと浮かび上がったひかりが松岡の左手指に吸い込まれる。ふうと一つ深い息を吐くと、松岡が薄目を開けた。
「寛……」
友人の無事を確認した松岡に笑顔が広がった。菊池が顔を近づけて伝える。
「芥川は無事だ。眠っている」
「そうですか……」
笑顔がさらに広がる。
「アンタももう少し眠れ」
「そうですね。……僕も芥に言いたいことがあります」
その笑顔は真面目な顔をして悪戯を仕掛ける学生時代の松岡だった。
※※※ ※※※ ※※※
自室に戻ろうとした菊池は、補修室を通って司書室に戻ろうをする輔筆を呼び留め、廊下に出た。
「司書はどうしてる」
二人の有魂書の補修にはあと半日は掛かると言われていた。
「特務司書は有魂書の補修を終えられた後自宅に。山本先生に連れ戻されました。先生の目を盗んで有魂書の補修にいらしたようで。休養が延びます」
森先生には内緒にしてください、と輔筆は付け加えた。輔筆からごく僅かに花の香りがしていた。山本にはあと一日ほどは会えないだろう。
「久米は」
久米先生は、と言いかけた輔筆の表情が曇る。
「かかりそうか」
精神的に追い詰められた久米は医務室ではなく補修室にいる。森鷗外と斎藤茂吉が口を揃えて見舞いを見送るように言ってきた。
「特務司書も筆頭も久米先生次第だ、と」
先ほどまでの特務司書の依頼をこなす表情とは打って変わって、分からぬ出来事に翻弄される子どもの表情で答える。
「そうか。ありがとな」
思わず菊池は右手を伸ばして輔筆の頭を撫でた。
報告書は出来次第で大丈夫です、という輔筆の声に送られて菊池は自室に向かって歩き出した。
※※※ ※※※ ※※※
菊池は一日半かけて報告書を書き上げた。書き上げた日の翌日司書室に届けた。助手の德田秋声が受け取ると目を通しながら言った。
「松岡君が自室に戻ったよ。入れ替わりに久米君が補修室から医務室に移った」
「龍……、芥川の様子は」
德田は報告書から目を離さずに言う。
「芥川君も明日ぐらいには森先生の許可が出そうだよ」
「それで……。司書は」
はじまりの文豪の手が止まり、目を泳がせながら言った。
「司書さんは……。……まだ自宅だよ」
僕が助手の時に厄介ごとを増やさないで欲しいと愚痴る。それにに苦笑いを返して司書室を出ようとする菊池を德田は引き留めた。特務司書の話の時以上に目を泳がせて老大家が言った。
「菊池君……。僕も含めてあの頃を生きた作家は多かれ少なかれ「彼」のことは気になっている」
菊池は德田に正対する。
「僕が言うのも何だけど、困ったことがあったら相談して欲しい。勿論僕にじゃなくても。露伴先生や紅葉先生、逍遥さんや夏目さんもいるんだし。「彼」だけじゃなく君達もね。居なくなればいいなんてこと、誰も思ってないんだから」
菊池は黙って頭を下げた。『あの頃の自分の事』への潜書が終わってから同じようなことを言われた。食堂で、風呂場で、廊下で。帰還を歓迎する後輩たちの瞳にも同じようなものがあった。
「ありがとうございます」
それだけ言うと菊池は司書室を後にした。
※※※ ※※※ ※※※
久米を見舞おうと医務室に回った時、中からわっと声が上がった。珍しく医務室のスライド扉が全開になっている。のぞき込むと白のセットアップで揃えた白樺派の四人が見えた。里見弴は久米のベッドに腰を下ろしている。志賀直哉が菊池に気づいた。
「よお、見舞いの許可が出たんでな」
菊池は四人に会釈をした。松岡が珍しく和装で芥川と久米の間にいる。
芥川と久米は起きてそれぞれのベッドの上に座っていた。
「ともあれ、全員が生還出来て何よりです」
そう言うと武者小路実篤が有島武郎を見上げた。有島が頷く。
「菊池、ご苦労だったな」
志賀の労う声に菊池は答えた。
「いえ、俺は何も。今回は松岡に頼りきりでしたから」
里見が首をかしげて松岡を見る。
「僕は何も。我儘を通してしまっただけです」
それを聞いて久米がぼそりと呟く。
「僕は……。また皆の足を引っ張ってしまいました。それに……。それに……」
言葉に詰まった久米の両手を掴むと左右に揺らしながら里見が訊く。
「ん……。久米くん、何。ちゃんといいなよ」
ね、ね、と久米を促す里見に芥川が言う。
「ははは、里見さん。そういうところも久米らしくていいじゃないですか」
「芥川君、その言い方っ」
どっと皆が笑う中、久米の手を揺らし続ける里見に有島が言う。
「ほら、弴。久米君が疲れてしまうだろう。そろそろお暇しよう」
有島が同意を求めるように志賀を見る。武者小路が同意するのを見た志賀が、大事にな、と言って四人は医務室を出て行った。
志賀達を見送った後、あ、そういえばと松岡が懐を探る。
「筆ちゃんから、僕らにって……」
筆ちゃん、って誰だいと三人が口々に松岡に問うと、私がどうかしましたか、と声が掛かる。見れば特務司書の輔筆が小首を傾げて立っていた。傍に山本がいる。
「おい、松岡……」
咎める菊池に松岡がしれっと答える。
「織田君がそう呼んでたのを聞いてつい……。ああそれより」
松岡が懐を改めて探り始める。
「松岡、鳩じゃないよね」
「鳩はもう御免だよ」
懐を探る松岡に芥川と久米が口々に言う。
「生き物を医務室には持ち込まないよ。はい」
取り出したものを松岡が芥川と久米のそれぞれの膝に置いた。掌に乗るほどの小さいぬいぐるみであった。
「これ、……って」
芥川が摘まみ上げる。ほら寛にも、と芥川のベッド越しに菊池には放って寄越した。山本にも、と最後に山本には手渡した。若草色をしたそれは芥川が中庭の池で見かけたという生き物を模していた。ずしりとしているがぷにぷにとした握り心地は悪くはなかった。
「斎藤先生から、気持ちが落ち着かなかったら触り心地の良いものを握ったり指先で弄ると落ち着くと聞いて作ってみたんです」
山本が菊池の後ろを回って里見がいた久米のベッドに腰を下ろす。山本をやり過ごした菊池は芥川のベッドに腰を下ろす。菊池の隣に輔筆が並んだ。
「試作品なので使った感想を教えてください」
輔筆が言い添える。男五人がぬいぐるみをぷにぷに握るうちに自然に笑いが洩れる。
「僕、もう少し大きいほうがいいな」
「おい、龍……」
「だって、寛。触ってるうちに抱きしめたくならないかい」
夜寝るときに抱きしめてもつぶれないような大きいのが欲しい、と真顔で訴える芥川を見て、皆一様に笑い出す。菊池の耳に本郷通りを走る市電の音が聞こえた。
「輔筆、ありがとな」
菊池が輔筆の頭を撫でようとして右手を伸ばした。それを叩き落とす者がいた。続いてぺちっと菊池の左頬が鳴った。
「菊池さん、嬢さんはお触り厳禁ですよ」
きっと真顔で言う谷崎潤一郎がいた。それに、と続けて久米のベッドに腰掛ける山本に向かう。ぺちっと山本の左頬が鳴る。
「山本さん、あんな綺麗な御寮人様を独り占めなんて許せませんよ」
後から追いかけて来たのだろう佐藤春夫が止めようとするが、谷崎の耳には入らない。
「久米さん、侵蝕者に付け込まれるほどの悩みを溜め込むのなら誰かに相談なさい」
「松岡さん、侵蝕者の刃を身体で受けるなんて、心臓に悪いことは止めてください」
ぱちん、ぱちんと頬が鳴る度に、谷崎の小言が続く。そして……。
「谷崎君、今度のことは……」
谷崎を止めようと差し出した芥川の右手を掴むと谷崎は芥川を引き寄せた。ひと際痛そうな音が芥川の左頬に鳴る。痛みに顔を顰める芥川に谷崎が言う。
「龍之介さん、貴方は、生きていてください」
ふう、と息を吐くと谷崎はくるりと皆に背を向けすたすたと歩きだした。
「春夫さん、行きますよ。誕生日のケーキを切り分けなければ」
大きなため息と悪いな、という一言を残して、佐藤が後を追った。
※※※ ※※※ ※※※
午後の診察で森林太郎から退院の許可が出た。
「芥川君……」
床に伏して見送る友に芥川は声を掛ける。
「久米、『あの頃』には後悔ばかりだ」
そうだね、といって久米は瞳を閉じる。その通りだ、という声を聞いて芥川は医務室を去った。
自室に戻ると、室生犀星と堀辰雄から手紙が届いていた。窓際に椅子と小机を寄せて手紙の封を切る。嬉しい言葉が懐かしい文字で綴られていた。窓の外から歓声が聞こえる。のぞき込むと研究棟と宿舎の間、風の通り道で童話組が花火をしていた。ちらちらと火花が光って消えた。コンコンと部屋の戸を叩く音がした。
「どうぞ」
窓を閉めて返答をすると、菊池が盆を片手に入って来た。
「谷崎さんからだ」
盆の上には皿に乗ったケーキが一切れと本。
「この本も」
芥川が訊いた。いや、ケーキだけだと菊池は言って本を取り上げた。芥川は左頬を指先でなぞる。まだ痛い。二人分のお茶を淹れて、菊池と向かい合った。どちらともなく煙草に火をつけた。煙を追いながら菊池が口を開く。
「なあ、龍。……井川に逢いたいか」
ずきっと芥川の心が痛む。井川恭……
「井川は……、恭君は学者だ」
芥川の脳裏の菩提樹の影が広がる。菊池がふうと煙を吐いた。
「そうだ、でもアンタの記憶の中にいるだろう」
芥川の脳裏に風景が、事物が浮かぶ。ディッキンソンの銅像、不忍の池、武蔵野のくぬぎ林、宍道湖……。
それに、と菊池が続ける。
「『あの頃』、アンタはまだ俺達とこんなに仲良くはなかった」
そうだ。『あの頃』を思い出すとずきずき痛むものが確かにある。芥川は菊池の瞳を見つめた。
「言ってくれて良いんだ。逢いたかったら、逢いたい、と」
空色の瞳から涙が一粒零れる。菊池は右の手袋を外してそれを拭う。
「……うん」
ぷい、と顔をそむけた芥川に笑いかけると、菊池は煙草の火を消して立ち上がる。眠れなかったらこれでも読んでみろと取り上げた本を小机に置いて出て行った。芥川はもう一度左頬を指先でなぞった。痛みが引いたような気がする……。強く瞬きを一度して、菊池が置いていった『舊友芥川龍之介』を手に取った。
※※※ ※※※ ※※※
ふいと意識が浮上して久米は目を覚ます。横になったまま芥川を見送ってそのまま眠ってしまったらしい。右手をのそのそ動かし鎖骨の合わせ窪みを中指で触れる。ほうと深く息を吐いた。心の中に靄々はある、随分と薄くはなったが。医務室の呼び出しベルが鳴った。当直の術者が応対する音がする。どうぞ、という声の後に二人分の足音がこちらに近づいてくる。
「久米」
「開けるよ」
炎天の直日と冬霞の差し日、正反対の声がした。
「どうぞ」
仏嫌棒な声で返す。しゃあと空いたカーテンの向こうにはやはり山本と松岡がいた。
「なんだよ」
起き上がりながら更に仏嫌棒な声で訊いた。あははと笑いながら山本が手提げ盆を差し出す。
「谷崎さんから久米に、って」
松岡がコットンチーフを取ると皿の上に一切れのケーキが乗っていた。
「食べるだろう」
屈託なく山本が訊いてくる。
「……いただくよ」
山本が久米の膝の上に盆を置き手提げを取り外す。松岡がポットの紅茶を注いだ碗を添える。
「それにしても、驚いたねえ」
山本が左の頬を撫でながら言った。
「谷崎さんがああいうことをされるとは……」
松岡も左手で打たれた頬を撫でる。
「一緒になって怒られるなんて、何年ぶりだろうねぇ」
「あはは、独逸語……」
「それ以上は言わないでおくれよ。トラウマなんだから」
トラウマという山本の言葉に、ケーキに手を付けかけた久米が俯く。かたりとフォークを置いて呟いた。
「僕はまた……。ダメだった……」
三人の間に沈黙が流れる。久米の閉じた目蓋からつつっと涙が流れる。
松岡がハンカチを取り出してそれを拭う。
「『あの頃』には後悔ばかりだね」
昼に聞いた言葉を山本が繰り返した。
「後悔するほど、いろんなことをしてきたんですよ」
いろんなことを、と松岡が繰り返す。一瞬三人の心が本郷通りへ飛んだ。
「それに、後悔ばかりではありませんよ。僕には」
沈黙を破る松岡の言葉に久米は目を見張る。紫苑の紫と柳の緑が交差する。ややあって松岡が久米を宥めるように伝える。
「本の中でも言ったけど……、『第四次新思潮』の編集を成瀬から任されて東京にいたから、僕は実家から離れることが出来た」
ああ、と久米は曖昧に同意する。そうだ……、『あの頃』の松岡が一番欲しがったものは……。そうだね、と山本が同意する。
「誘われて『第四次新思潮』の原稿も書いてたら、ワタシは身が持たなかったかもしれないね」
久米の心にきりと痛むものがあった。だがその鋭さは、本の中で感じたほどではなかった。後悔以外のものは、確かにある。形にはなってはいないけれど。
松岡と山本は久米が食べ終わるのを待って、戻っていった。どこかの窓が開いているのか、夏の虫がちいちいと鳴く。当所なく久米は考える。後悔以外のもの、思い出すもの、宮裏、田端、一宮……。そうだ。にんまりと心と口元に笑いが広がる。一宮、才走った彼の困り顔。
また皆と後悔するようなことをしてもいい。久米はそう思った。
<待懐>へつづく