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隠華

 帝國図書館、敷地内のバー
 そこは利用者の入り込めない研究棟に併設している建物である。研究棟職員-主に転生文豪が-の有志が交代でバーテンダーを務め管理をしている。とはいっても任されているのは山本有三と松岡譲で、彼等とて転生した本分-有碍書の浄化-が優先となるので、毎日のようにバーを開けるわけにはいかない。本来任務の合間を縫っての開店は良くて週に三日、通常は週に二日しか開かない。山本か松岡のどちらかがカウンターに立って。今夜は珍しく山本と松岡の二人でバーを回していた。
 夜半も過ぎ、いつものように酔いつぶれた太宰治と中原中也を織田作之助、坂口安吾、檀一雄が担いで帰ってあと、吉井勇がカウンターで一人、グラスを傾けている。静まりかえった中、コンコンとバーの扉を叩いて坂口と織田が戻ってきた。
「おや、二人とも。忘れ物かい」
 山本が声を掛ける。
「いや……なんだ。吞み足らなくてよ……」
「一杯だけもらえへんやろか」
 言いながら坂口と織田は、吉井の隣、スツールをひとつ空けて並んで座る。山本は二人が存外酔っていないように感じた。
「しょうがないね。一杯だけだよ」
 山本の返事を聞いた松岡が冷凍庫の丸氷を取り出して削り直す。ロックグラスにころんと氷の音をさせ、ウイスキーを注ぐ。坂口は定量で、織田は少な目で。手慣れた仕種でコースターを取り、坂口と織田の前にグラスを置く。乾きもののつまみを添えるのも忘れない。
 ちらりと山本は二人を見る。坂口は面倒見がいい。同じ無頼派の面子には特にそうで、太宰と織田の兄貴分を自称している。織田も酒は弱いが呑み会には最後まで付き合って酔っ払いたちを回収していく。中原は部屋まで送り届け、太宰は檀に任せたのだろうか。どうもこの二人らしくない。黒眼鏡越しに坂口がちらちらこちらを見ているのも山本は感じていた。織田はグラスに口をつけた、というより唇を湿らせた程度で明後日のほうを見て何かを考えている。この二人に何かやっただろうか、いや……。
 山本は心当たりを一つ見つけて水を向けてみようと思った。
「今日の昼、いや夕方近くの話なんだけどね……」

 ※※※ ※※※ ※※※

 研究棟の司書室
 かさかさと紙を捲る音とパチンと紙を閉じる音、カリカリと紙の上をペンが走る音しかしない。
「堀先生……」
 そんな中、年若い-若く見える-術者アルケミストが堀辰雄に声を掛けた。
「このファイルはこの色のラベルでいいんでしょうか」
 話しかけられた堀は記入途中の書類のペンを止めて術者アルケミストの手元を覗き込む。
「はい、その色で大丈夫ですよ」
 堀の返答に術者アルケミストはほっとする。先任の術者アルケミストが補修室付けになったので、今の術者アルケミストは先月から司書室の担当になった。術者アルケミスト達の出身地であるさとから新しくやって来たのだ。先任の術者アルケミストからの引継ぎはきちんと受けていたが、この仕事を長らく担っていた特務司書の輔筆からは受けてはいない。その分堀を始めとした最初の五人-徳田秋声、織田作之助、佐藤春夫、中野重治が新しい術者アルケミストのサポートをしている。本来なら先任の術者アルケミストが長く輔筆の後を担うはずだったのだろうが、特務司書の負担と心情を考えて急遽補修室付けの術者アルケミストを増やしたのではないか、というのが国木田独歩や島崎藤村を始めとした取材組の見立てだ。現に補修室付けの術者アルケミストも同じ時期にもう一人増えている。
 堀が本館に行った特務司書の帰りと休憩時間の心配をし始めているとこんこんと廊下側の扉を叩く音がした。どうぞ、と声を掛けると入って来たのは山本だった。
「おや、司書さんは留守かい。外出申請書を持ってきたんだけど」
 書類を手にした山本が堀に聞く。
「本館の館長の処へ行って、まだ戻ってきてないんです」
 生前の堀としては山本は一高、帝大の先輩であり、師である芥川龍之介とは同期であったが、目立った接点はない。どちらかと言うと転生後、芥川との距離感で悩んだ際に山本に相談をしたことがあった。それを通して、転生してからそこここで精神のバランスを崩したり、悩みや不安を抱えても斎藤茂吉の元へ行きたがらない文豪の話を山本は親身に訊いていることを知っていた。その事が堀の頭を掠めたのだろうか。堀にしては迂闊なことを山本に聞かせてしまった。
「司書さん、昼休憩から戻って、思い出したように館長さんの処へ行くといって出て行ったきりで……。この時間になっても戻って来られないんです。森先生も斎藤先生も眠れているのかと司書さんに何度も確認していて……」
 不安げな堀に笑顔で山本は返した。
「そうなのかい。でも、館長の処なら何かあったらネコが知らせに来るだろうし、あの子特務司書もちょっとはサボることを覚えた方がいいかもしれないね」
 そう言うとすこし思案した山本が、お邪魔したね、という言葉と共に外出申請書を置いて司書室を出て行くのを堀と術者アルケミストは黙って見送った。

 ※※※ ※※※ ※※※

 山本は研究棟内をそれとなく見回った。食堂、談話室、遊戯室、居ないとは思ったが喫煙室。喫煙室に居た菊池寛に見つかって、外出申請は出したかと訊かれたので仕方なく付き合って煙草を一本んだ。まだ山本の予感でしかないので菊池には特務司書の長時間の不在は言わなかった。
 うわの空で煙草をみ終わるころ、もしかしてあそこでは、と山本は思いついた。菊池が何か話していたようだが、適当に返事をして喫煙室を出る。煙草の匂いを薄くするために中庭を少し散策し、研究棟と宿舎との間の花畑-海外文豪の助言と室生犀星の丹精でもはや薔薇園と言ってもいい-の花を愛で、目的地に向かう決心がついた。
 あの場所にいる特務司書は、山本の経験では常と同じではいない。心身ともに変調をきたしていると考えてしまう。速足で玄関を出、小走りに渡り廊下の半分まで来ると、裏庭に降りる。畑を広げた時に置いた飛び石を辿って里山の入り口まで走ると一気に見晴らし台まで駆け上がった。
―――やっぱりいた。
 特務司書が居るのを見つけると山本は膝に両手をついて息を整える。はあはあという息が収まると顔を上げて……。 
 特務司書に、見惚れた。
 白に近い銀髪に金糸の様に金の髪が混じる。白皙の顔貌にはめ込まれた漆黒の瞳。聡明さを表す細く整った眉。形の良い鼻腔の下に濃すぎず淡くもない紅の唇。いつもの白のシャツに黒のスラックス、黒のジレを纏った長身が雲に隠れた陽の光に照らされて、セピアになりかけた写真の中の人物の様に枝垂桜の下に立つ。名残の桜が散りかかる中を特務司書は右手を幹に添えて枝垂桜を見上げている。
 懐かし気に苦し気に桜を見る瞳は、魅入られた只管に桜を求めている。櫻と会話しているようにほんの僅か動く唇が満開の桜の花びらの如く染まる。山本の知っているどの特務司書よりも美しく妖艶で儚く、満開の桜が包み込むように山本には見える。その全てが山本のいる世界を特務司書の居る世界との隔たりを表すようで、山本の背筋を悪寒が走る。
かさり、と山本の草履が音をたてる。ゆらりとこちらを見た特務司書の瞳に狂気の色はなかったか。
―――いけない
 咄嗟に山本は特務司書に駆け寄り乱暴に左手を掴む。何かから引っ張り出すように手を引くとそのまま無言で見晴らし台を下りる。途中誰かとすれ違った気がするが、山本は特務司書の手を引いて中庭までやってきた。
 先ほどまで影を作っていた雲は晴れ、夏へ向かおうとする陽射しが戻ってくる。不思議なことに特務司書は何も言わず、何の抵抗もせず山本に左手を取られたままついてくる。中庭を突っ切って茶室まで来ると、山本は中の様子を伺う。運の良いことに今日は茶室の利用者は居ない。入り口の床几台まで引っ張り込むと特務司書を座らせた。
 山本が特務司書の顔を覗き込む。ぼんやりとこちらを見ていた漆黒の瞳が二、三度瞬き、山本の紫水晶アメジストの瞳が交差する。
「大丈夫かい」
 特務司書の隣に腰を下ろしながら山本が尋ねる。
「………山本……さん。…………私は……」
 目覚めたばかりのような呟きが特務司書の口から零れた。
「里山の枝垂桜の処にいたんだけど、覚えてるかい」
 特務司書はゆっくり首を左右に振る。
「そうかい。桜の根元でぼんやりしてたからね。心配になって連れて来たんだよ。あんなに走らせてすまなかったね」
 陽射しが特務司書の身体を温めたのだろうか、顔貌に赤みが差し、一度伏せた瞳を上げた時には特務司書はいつもの特務司書に戻っていた。
「いえ、ありがとうございます。館長と今後の事を話していて息が詰まったものですから、気晴らしにと点検に研究棟の周りを歩いていたのですが。時間を取ってしまいましたね。堀さん達に任せっきりになってますので、司書室に戻ります」
「…………それじゃ、一緒に研究棟まで戻ろうか」

 ※※※ ※※※ ※※※

「ワシ、見てたんです」
 え、と山本は織田を見る。ぺしゃんと背を屈め、両手に持ったグラスに唇をくっつけるという行儀の悪い姿勢のまま織田は続ける。
「山本せんせが特務司書おっしょはん引っ張ってくん。多分利一さんも」
 織田は身体を起こすとグラスの酒を一口含むと、ちらりと坂口を見た。
「ワシ、今の特務司書おっしょはんに何すんねんって思うて……カッとなって追いかけようとしたら、安吾に止められて。同じように川端せんせに止められてる利一さん見て……」
 山本は明日以降の横光利一の詰問を覚悟する。
「桜は怖いもんなんだよ。取り込んで連れて行っちまう。どっか向こうの世界にな。司書はもしかしたら……」
 坂口の言葉に山本が続く。
「特務司書の内面世界にもね、桜が咲いてるんだよ。見晴らし台と同じ枝垂桜がね。綺麗で見事で満開の桜さ。いつまでも眺めていたいような。その下であの子特務司書は眠ってるんだ。あの世界ではあの子特務司書は目覚めた事がないんだってさ」
 ああ、あの桜、と言いかけた織田に吉井が割って入った。
「子供だな」
「…………なんやて」
 それまで黙っていた吉井の一言に織田が気色ばむ。吉井は松岡に酒のお代わりを頼みながら続ける。
「生まれて初めての悲しみ、苦しみにどうしていいか分かんねえんだ、あの司書は。まるっきり子供じゃねえか」
 松岡から受け取ったグラスを掲げ見上げながら言い足した。
「こうやって酒でも飲んで憂さを晴らすことさえ、知らねえんだぜ」
 あのねんねは、と言い終わると酒を口にして、山本と松岡を見る。
「人ならば当然経験して乗り越えることを司書さんはいま経験していると」
 松岡が吉井に柔らかく問い返す。
「それにしても、あれはきつ過ぎる初めての経験ではないかい」
 山本が特務司書を擁護するように言う。
「初めてでも乗り越えてもらわねぇと。逃げちゃいけねえだろう。あいつは俺達とは違う」
 山本に言い返す吉井の眼は普段の酔いに霞むそれではなく波瀾の人生を生き抜いた七十四歳の男のそれであった。
「そんなん……させるの……」
 吉井の常ではない静かな言葉に織田が怯む。
「ああ、そうだったら寄り添えばいい。慰めればいい。尻を叩いて司書の本分に引き戻す奴もいてもいい」
 吉井はくいとグラスを仰いで言った。
「己のくそったれな経験を売り飛ばして生き抜いてきた連中しかいねえんだからよ」

<了>

 
 

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