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貴寵 - 華、蝶々 後日譚 1

 ふう、と特務司書は息を吐いた。森鷗外が去った方を見つめ、枝垂桜の枝に腰を下ろす。
帝國図書館の敷地内、裏庭と呼ばれているそれは緩やかに里山と繋がっている。なだらかな丘が連なり、やがて山脈となす入り口が帝國図書館の裏庭に当たる。桜の樹が多数植えられている。植林されたと分かるのは、一定の間隔とそれを縫うように走る小径。特務司書が今いる見晴らし台と呼ばれる、中程の平地から下に扇を広げるように桜の樹が植えられている。植えられているのは染井吉野ではなく山桜。さらにいえば特定の地域の物。その山桜の群れの中心をなすのは見晴らし台の枝垂桜。おとなの男が二人、手を廻しても抱えきれないほどの幹。その根元辺りから分かれた枝も人ひとりが座れるぐらいの大きさがある。
 その枝に特務司書が座って桜に身を持たせかけている。
 未知の仕事が一つ終わった。初めてのことが続いて、事態収拾が実験のようだった。いや、実験だった。失敗しても業務に大きな影響はない。そう判断して事を進めた。が、森の怒りを買ったのは間違いがなかった。森が怒ることは特務司書の計算の内であった。が、怒りの感情があれほどとは。それを処理するのは特務司書には荷が重すぎた。第一そういう風には造られていない。
「疲れた」
 誰にも漏らすことのない呟きを口にした。桜に凭れたまま目を閉じる。誰にともなく問いかけた。
「私は上手くやれましたか」
「まあまあだな、もっと効率は考えられなかったか」
 ナイフのように冷たい男の声が近づいてすぐにどこかへ行ってしまった。
「ご苦労さまでした」
 入れ替わるように、特務司書をねぎらう声がした。そして抱き寄せる腕、頭を撫でる手、頬ずり。
「少しお休みなさいな」
 ねぎらう声が特務司書を誘うが、それを許さぬものがいた。 
 かさり、という音がした。特務司書が視線を投げると、ゲーテが坂道を登ってくるところだった。
「森先生とすれ違いました」
 文豪でありアルケミスト。ゲーテの立ち位置も複雑である。ましてや特務司書の能力により転生したとあっては。ゲーテが元々所属していた欧州のアルケミストの集団<結社>はゲーテの復帰と特務司書の引き渡しを要求してきた。帝國を上げて、といっては間違いない組織・機関・人物が動いて、そ要求を退けた。何よりも帝國図書館に残り特務司書と共に研究を進めることを<結社>に要求したのはゲーテ自身であった。ゲーテが何故その判断を下したか、特務司書には予測できた。
「かなり怒っていらしたようですが」
 森が敬愛するゲーテを前にして自らの怒りを隠そうとしなかったとは。
「今回の事で森先生がお怒りになるのも無理はないでしょう」
「とは」
 特務司書は再び桜の幹に凭れ目を閉じる。限界か、と特務司書は思ったが、目を閉じたままゲーテの問いに答えた。ただし女の声が。
「ゲーテさんは、ファウストさんが無能だと私が申し上げたらどう思われますか」
 文豪達にはそれぞれの「匂い」や「香り」があると彼女は思う。森鷗外はリラの香り、ゲーテは楡の木の香りがする。今欲しいのはそれではない。
目を閉じた彼女に楡の木の香りが近づいてくる。目蓋を上げるとゲーテの顔が目の前にあった。右手で彼女の顎掬い上げ上を向かせる。
「随分とお疲れのご様子」
 すいっと唇を寄せてくる。これだから気を抜けない。近づくゲーテの唇を右手で抑えて言った。
「好い人がいるのに、そんなことはできませんよ」
 そのままゲーテの肩を押さえて立ち上がった。ふらりと身体が揺れたが構わず欲しい匂いに向かって歩く。
「彼は眠っているでしょうに。つれないですねえ」
 揺れる特務司書を支えるように、ゲーテが左腕を取る。そのままゲーテの腕を借りて何とか坂道を降りた。日向の匂いが近づいてくる。日向に負けない金の髪がこちらを向いた。
「貴方が欲しいのは私達の力ではありませんか、アルケミスト・ゲーテ」
 彼女は言い切るとゲーテの身体を突き放し、日向の匂いに飛び込んだ。
「有三さん」

 山本有三は急いでいた。
 急いで特務司書を探さないと。今回も限界まで能力を使い切っているだろうから。簡単にボロを出すようなコではない。けれど数日前に顔を合わせた時に既に萌していた。変なところで倒れると大騒ぎになる。それで耗弱や喪失になる文豪たちが出てもおかしくない。
 図書館本館から研究棟を繋ぐ渡り廊下の出口にでると、渡り廊下の途中で、森鷗外とゲーテが話をしていた。山本は無意識に扉の影に身を隠した。森の表情が険しいことが遠目にも見て取れた。森が何かを言い放った。唇は特務司書と形を変え続けた。そのまま研究棟に足早に向かった。ゲーテを敬愛している森らしからぬ行動だった。ああ、終わったんだね、と山本は思った。今回の騒動は終結した。けれど森の心には引きずるものがあった。ならば、と山本は考える。
 森を見送ったゲーテが裏庭の小径に向かった。特務司書は見晴らし台にいるらしい。ゲーテが山桜の群に姿を消すと、山本は渡り廊下の途中から裏庭の小径へ降りる小階段付近で特務司書を待った。その間に持っている鍵を確認する。スラックスの右ポケットに自室の鍵。右の尻ポケットに特務司書の家の合鍵。準備は整っている。大丈夫だ。山本は自分に言い聞かせた。すぐにかさかさと草が何かに擦れる音がした。山本は振り返って中庭から誰もこちらへ向かって来ないことを確認した。
 やがてゲーテに左肘を掴まれた特務司書が現れた。随分と足元がおぼつかないが、まだいつもの特務司書の姿を保っていた。山本が渡り廊下から小階段を下りて特務司書を迎えに行った。山本を見つけた特務司書がゲーテを突き放して、山本の胸に飛び込んできた。有三さん、とだけ言うと特務司書は意識を手放した。特務司書を受け止めた山本がゲーテに道を譲った。山本とゲーテは目を合わせずにすれ違った。

 特務司書の家は研究棟に隣り合っている。研究棟と裏の里山の間。研究棟の通用口と特務司書の家の裏口がつながった研究棟の付属施設のようになっている。山本は裏口ではなく、裏庭の小径を使う玄関から特務司書の家に入った。もともとは小さな礼拝堂だったという特務司書の家は1階屋の洋館で、リビングとダイニングキッチンと寝室という拵えだ。特務司書をリビングのソファに寝かせ靴と靴下を脱がせた。怪我の有無を確認しようとした山本は、特務司書の身体が変化し始めているのに気付いた。男の身体から甘くねっとりした好ましい匂いを発する女の身体に。
「山本、さん」
 うっすらと目を上けた特務司書が山本を呼んだ。まだ特務司書としての意識が残っているらしい。くらりっとなにかが山本の頭を痺れさせた。
「すみません。終わっ、たら、すぐ、に、籠る」
「いいよ、気にしなさんな」
 山本の右手が、特務司書の左頬を撫でる。特務司書は両手で山本の右手を縋りつくように掴んだ。はあはあと浅い息を繰り返す。
「もう辛いだろう。後のことは任せな」
 はい、と答えて特務司書は意識を手放した。特務司書が眠ってしまうと、山本は戸締りを確認した。在室が確認できるよう、リビングの照明は常夜灯の明るさまで落とし、もう一度戸締りを確認すると彼女を抱き上げとベッドルームに運んだ。
 造り付けのクローゼットと古いチェスト、小さなライティングデスクとファブリックを白で統一したベッド。前に来た時と同じ、最低限の家具が山本を出迎えた。彼女をベッドに寝かせベストを脱がせた。ワイシャツはそのままにして、反対側に回り込む。山本も靴を脱ぎ裸足になってベッドの上にあがった。彼女に添い寝するように横になる。右腕を伸ばして腕枕をするとそのまま彼女を抱き寄せる。姿勢を探るように寝返りを打つと、彼女は鼻先を山本の胸に押し当てた。山本の右手が彼女の髪を撫でる。
「いいよ。何があってもアンタを守ってあげるから」
 言い聞かせるように呟いて、山本もまぶたを閉じた。

 山本は腕の中のものが身じろぎするのを感じて目を覚ました。腕の中の大切なものは寝返りを打つ。山本の胸に擦り付けていた鼻が向こうを向く。目の前には金が混じる銀の滝が見える。そろりと腕枕の右腕を引き抜くと、右手と左手の中指でその銀の滝をかき分け、山本は鼻を近づけた。特務司書が使う整髪料の香りとそれを凌駕する彼女に匂いを肺一杯に吸い込むと、そのままうなじに口づける。
「有三さん」
「ああ、いるよ」
「森先生を怒らせました。仕方のないことだけど」
 彼女がはぁとそのままため息をつく。山本は抱き寄せると、口吻を何度もうなじに落とした。抱き寄せた身体が熱い。息を整えるように何度も彼女はため息をつく。そのたびに彼女の匂いが山本を刺激した。
「辛いだろう。我慢をおしでないよ」
 身体を反転させ彼女は山本を見た。黒い瞳が潤みただ山本を望んでいた。
「有三さん」
 その先を言わさぬように、山本が唇を寄せた。彼女は顎を引いて避けた。
「今回はいけません。有三さんを」
 山本の唇が追い付いてその先を言わせなかった。山本の舌が彼女の口内に入り込み、歯朶をなぞり、引き籠った舌を探る。一瞬の出来事に固まった彼女の身体が蕩けだすと、息を継ぐのに唇を離した。今度は彼女の方から唇を寄せ舌を絡めてきた。彼女の匂いが濃くなる。
 山本は身体をおこして、ベッドのヘッドボードに背中を預け彼女を腰の上に跨らせた。彼女は顔を左に向け山本に凭れかかった。山本の右手が彼女をシャツのボタンをはずそうとするのを、彼女は左手で止めた。彼女が山本を見上げる。山本の紫水晶アメシストが彼女の漆黒を受け止める。狂おしいほどに紫水晶アメシストを求める漆黒に山本は囁く。
「構わないさ。もしもの時はまた、ワタシをあの場所から呼んでおくれ」
 とぷん、と水音がした。そう思った山本は潜る感覚に捕らえられた。

 <合歓>へつづく


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