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叢雨

 志賀直哉は潜書準備室に向かう。自室を出て宿舎の通用口から研究棟の通用口に向かって歩く。もちろん宿舎の玄関から出て研究棟の玄関から向かうという方法もある。研究棟の階段もエレベーターも玄関側に設置してあるから、玄関を使う方が便利だが、通用口を経由するほうが好みに会う。
 研究棟の通用口をくぐって直ぐの大浴場-人影が見えるので休暇中か休日の誰かが朝風呂を楽しんでいるらしい。左に折れてすぐの遊戯室兼ダンスホールから音楽が聞こえてくる。ちらと覗くと堀辰雄がレコードをかけている。そばのソファに横光利一と川端康成が並んで座っている。堀たちが所属するグループは今月は図書館業務が担当だが、彼らは今日は休みらしい。広いダンスホールを独占しているが、かかっている音楽は踊るというよりも静かに楽しむ種類のものだ。廊下を挟んで反対側には談話室と食堂。まだ朝食の提供時間内なので食堂からは食器とカトラリーがぶつかる音が響き、談話室では夏目漱石が新聞をテーブルに広げ、反対側に座る正岡子規と紙面を指さしながら何か話し込んでいる。彼らを囲んで高浜虚子と河東碧梧桐、内田百閒がいる。彼らのグループはバックアップ担当だが、彼らも今日は休日らしい。

 侵蝕者討伐が一つの成果を得た昨年の今頃、特務司書は館長に諮って転生文豪を四つのグループに分けた。潜書業務の専任、潜書業務のバックアップ、図書館業務の支援、そして休暇。それぞれを1カ月交代で行う。担当業務は、グループメンバーで交代して当たり、何日かに一度は必ず休日がある。グループ内での了承が取れたら連休も可能、ただし業務が誰かに集中するのを避けるため3連休以上は特務司書に相談。1か月休暇中は旅行も可能。これも事前に届け出ることと居場所を報告することが決められているが、内田や中里介山、ランボーや若山牧水など生前放浪癖のあった連中が喜んだ。それまでは、研究棟全体が侵蝕者討伐に明け暮れ、決まった休日や休暇がなかった。それを一番憂いていたのが補修室付きの術者アルケミストたちでグループ分けのプランも彼らから提案されたものだと館長が話してくれた。

 志賀が食堂の前を通り過ぎようとするとき、食堂から赤いものがふらつきながら出てきた。前を見ていないそれは志賀にぶつかる-というより抱きついてきた。志賀も相手がだれか確認せずに抱きとめた。
「直哉サン」
「太宰君」
 食堂から二つの声が掛かり、志賀は腕の中の人物を確認した。
 太宰治。一触即発まではいかないが、なるべくなら顔を合わせたくない相手だ。その太宰が偶然とはいえ、志賀の腕の中に転がりこんできた。酒の匂いがする。朝から酔っぱらっているらしい。
 声がした方向を見ると、織田作之助と小林多喜二が太宰を追うように食堂から出てきた。そのあとに檀一雄と坂口安吾が続く。織田と檀と坂口が志賀の様子を見て固まった。小林が太宰サン、と声を掛けると、魔法が解けた坂口が無言でぎこちなく太宰を志賀から引きはがした。
「済まない、志賀さん」
 無頼派を代表してぎこちなく檀が志賀に謝罪した。
 おお、と答えて志賀は歩きだす。その後を小林が追う。
「ワシ、テーブル片付けとくさかい、太宰君のこと頼むわ」
 おう、任せろ、という声がする。追いついた小林に志賀が尋ねた。
「朝っぱらから、なんだ赤いのは」
「直哉サン、今日は6月13日だから」
 ああ、そうか、と志賀は思った。
 転生した文豪は生前知らなかったことを知ることになる。その最たるものが自分の命日だ。不思議に皆自分の命日の前後には調子が悪くなる。精神エネルギーの塊である転生文豪が調子を崩すというのは精神の調子を崩すことに他ならない。死因が老衰で、自分が死にゆくことを受け入れていた志賀でさえ、命日である10月21日は何もやる気が起こらなくなる。ましてや、太宰は……
「前までは太宰サン、ずっと引き籠ってたでしょ、この時期」
 ん、そうかと志賀は小林に返事する。
「それが、今年は無頼派の人たちを呼んで、昨日からお酒を飲んでいて。太宰サンの部屋で」
「アイツら、今月は休暇だからな」
「途中で太宰サンが図書館の皆と飲むって言いだして、3時ぐらいから食堂で飲んでたっていうのが、坂口サンの話です」
「おいおい」
「朝になって食堂に来る人皆に、『迷惑をかけた』って謝って廻ったっていうのが、オダサクサンの話です」
 ふ、と志賀は笑った。精神の不調がそういう風に出たか。
「俺も、『変にプロレタリア文学に首を突っ込んでごめん』って言われて、どんな返事したらいいか困ってしまって。そんなときに直哉サンが通りがかるのをみて、太宰サン『志賀だ』っていって食堂を出ていこうとして」
 あの状況です、と愛弟子は締めくくった。志賀は爆笑した。足を止めて。
なるほど、そういうことか。志賀と無頼派三羽烏といわれた太宰、織田、坂口とは雑誌誌上でやりあったことがある。あの場面だと嫌味の一つもあっていいものだったが、それがなかったのは。 
 太宰とやりあうきっかけになった一文が、どういう経緯で生まれたか、漏れ聞いて知っている。それを詳細に書いた本も転生してから読んだ。先ほどの太宰が自分に何を言いたかったのか聞いてみたい気もする。でも……
 おうよ、ラッキーだったな、赤いの
 ひとしきり笑うと、志賀は小林を連れて潜書準備室に入っていた。
<完>

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