還戻
文豪達への周知の後、筆頭術者は館長と共に司書室にいた。
「それで、特務司書からの指示は」
館長の問いに筆頭術者は施錠された執務机の引き出しから書類の綴を取り出し、館長に差し出した。特務司書が書き残した"最悪の事態"に対応する方法と館長の許可を求める書類に館長は目を通した。
「これで、事態を収拾できるのですか」
黒に近い茶色の瞳が筆頭術者を見つめる。筆頭術者には見慣れた瞳が不安に揺れていた。子どもを宥めるように筆頭術者は言った。
「おそらくは。あの子は自分の出自を知っている。自分がどういう存在なのかも」
「貴方は隠しませんからね。特務司書も自分の事を調べることもあったのでしょう」
館長は特務司書が出現した日のことを思い返していた。それまでの木造の建物が今の研究棟に変わり、帝國図書館本館の建設が始まった頃。潜書室として使っている部屋の一室で二人の術者が犯そうとする禁忌を見守るしかなかった。成人した自分が政府との連絡役を務めることになった日。術者としての修養が終わり一人前の術者として認められた日……。
書類の綴を手に持ったまま、館長は窓の外をぼんやりと眺める。筆頭術者は猫を抱いた記憶を失った少年の面影を館長に見た。成人した少年が保護者であり師である二人の術者から説得される光景。自分に向けても言われている説得の言葉であり、この先の覚悟を促す言葉でもある事。二人の術者が引き受けようとしている事も。館長と同じように筆頭術者も窓の外をぼんやりと眺める。
暫くして執務机の上のペンを取り上げると館長は書類に署名をし、筆頭術者に返した。
※※※ ※※※ ※※※
館長の周知があった午後、名指しで一部の文豪達に潜書室に集まるように通達があった。菊池寛も名前を連ねていた。研究棟の2階、階段を上がって直ぐ、最近はあまり使われていない一番広い潜書室の入り口に筆頭補の術者がいた。菊池を見ると黙って潜書室の中を指した。
菊池が中に入ると既に何人かの文豪達がいた。それよりも菊池の眼を引いたのは2つの簡易ベッドー病衣を纏った特務司書と山本が横たわったーだった。二人を青白く輝く半円状の紋様が包む。菊池は昨日の特務司書の自宅での事を思い出した。寝室で同衾していた二人。明らかに閨事の後で……。眠っているように見えて、山本からは何も感じられなく空っぽで……。
奥には館長と筆頭術者がいる。彼らも黙って二人を見つめていた。菊池の後からも何人かの文豪がやってきた。皆潜書室に入るなりこの状況に息をのみ、黙って待った。
やがて、潜書室のスライド扉が閉まる音と施錠される音がした。
「急な呼び出しに応じてくれて感謝する」
館長が話し出した。菊池は集まった文豪達の顔ぶれを見た。森鷗外、斎藤茂吉、徳田秋声、織田作之助、佐藤春夫、堀辰雄、中野重治、、徳永直、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、永井荷風、北原白秋、高村光太郎、若山牧水、正岡子規、坪内逍遥、幸田露伴、尾崎紅葉、井伏鱒二、坂口安吾、中里介山、田山花袋、正宗白鳥、内田百閒、鈴木三重吉、小川未明、宮澤賢治。そしてゲーテ。国木田独歩と島崎藤村はメモを取り出している。彼らの"取材"を許したのだろうか。それにしてもこの面子は……。
「特務司書についてだが、実際はこの通りだ。筆頭術者から現状と対処について話がある」
館長が壁際に下がり、能面のような顔をした筆頭術者が一歩前に出た。彼は国木田と島崎に視線を送った。二人が頷いた。
「ご覧いただいておりますように、特務司書と山本先生が人事不省に陥っておられます」
ざわ、と空気が震えた。永井が声を上げた。
「人事不省というなら、医学の担当ではないのかね。森先生や斎藤君の」
筆頭術者が永井を見て返答する。
「通常の人間ならばそうですが、山本先生の身体は転生文豪の概念を収める器、そして特務司書は術者が侵蝕を抑えるためだけに作った人工生命です」
ざわざわ、と今度は声が立った。島崎が口を開きかけ、国木田がそれを制する。静かに、と尾崎が一喝した。筆頭術者は一点を凝視して続けた。
「特務司書に潜書して2つの概念を呼び覚ましていただきたいのです」
幸田が筆頭術者に尋ねた。
「特務司書に潜書するとは、どういうことだ」
筆頭術者は姿勢を変えず言った。
「特務司書の在り方は皆さんの有魂書と似ています。器である身体のうちに概念が収められており、概念が特務司書の内面世界を作る。通常の潜書と同じように、そこに潜書して特務司書の概念と取り込まれている山本先生の概念を呼び覚ましていただきたいのです」
一転して沈黙が支配する。それぞれが理解に努める中、坪内が呟いた。
「ふむ。取り込まれている……。さきほどから山本君がいるようないないような気がしたのはそういうことですか。しかし……」
菊池が筆頭術者に尋ねた。
「山本は……生きているのか」
筆頭術者が少し考え、そして答えた。
「山本先生の概念が存在するか、という意味ならイエスです。しかし長時間特務司書の内面世界に捕らえられたままですと特務司書の概念に吸収されてしまうおそれがあります」
「……吸収されてしまったら、山本の作品はどうなる」
菊池は喉を詰まらせて訊いた。床の一点を凝視していた筆頭術者の視線が足元に移る。
「わかりません、なってみないと。最悪の場合、侵蝕された場合と同じように消滅するかもしれません」
消滅という言葉に潜書室の空気が揺れる。文豪達はそれぞれの思考の中に降りていった。
※※※ ※※※ ※※※
「それで、どなたが特務司書に潜書するのですか」
沈黙を破ったのはゲーテだった。館長と筆頭術者が緊張の面持ちでゲーテを見つめる。ゲーテは挑むように館長と筆頭術者を見返す。場合によっては自分が立候補しようというのか。文豪たちがじっと三人を見つめる。ゲーテの視線を跳ね返すように筆頭術者が言った。
「貴方にも行っていただきます。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」
おい、という館長の声を無視して続ける。
「どうぞお気のすむまで特務司書をお調べになればよい」
ゲーテの挑むような視線に対抗するように低い声で筆頭術者が言い放つ。図星なのかゲーテが顔色を無くして口を噤む。館長にちらと目くばせをした後、筆頭術者は構わずに続けた。
「菊池先生には第一陣の会派筆頭をお願いします」
菊池は黙って頷いた。館長と筆頭術者にはいろいろと聞きたいことがあるが、それは他の文豪達も同じだろう。いま尋ねても全ては答えてもらえないような気がする。
「第一陣、ということは追いかけ潜書もあるのか」
志賀が筆頭術者に聞く。やっと文豪達を見て答えた。
「第一陣は、菊池先生を会派筆頭に、織田先生、中里先生、ゲーテさん。第二陣は、志賀先生を会派筆頭に、谷崎先生、永井先生、尾崎先生にお願いしたいのです」
言い終わると筆頭術者は頭を下げ、震える声で続けた。
「特務司書が転生文豪を取り込むなど、本来あってはならない事です。特務司書の内面世界が危険なのか安全なのか全くわからない状態でお願いするのは……。ただ、我々術者の力では、生身の我々では……」
志賀は菊池を見た。志賀の視線を受け止めて、菊池は山本を改めて見た。筆頭術者は猶も頭を下げていた。
「頭を上げてくれ。それしか方法がないなら、やってやろうじゃないか。なあ、菊池」
志賀が文豪達の了解を取り付けるように言った。
「念のために、第三陣も準備しておいた方が良いのではないか」
幸田が後を継いだ。文豪達は幸田の言葉に頷いた。
※※※ ※※※ ※※※
潜書室では、特務司書への"潜書"の準備が進められていた。文豪達の話し合いで、第三陣には会派筆頭は井伏鱒二、武者小路実篤、坂口安吾、北原白秋が当たることになった。第二陣は第一陣の"潜書"から二時間後に"潜書"、第三陣はその二時間後と決まった。第三陣が"潜書"の二時間後には成果がなくても全員が帰還することも決まった。
打ち合わせの最中に志賀直哉が菊池寛を部屋の隅に呼んだ。
「菊池、分かってると思うがゲーテに気を付けろ」
菊池は文豪達の肩越しにゲーテを見た。森鷗外と斎藤茂吉と一緒にいる。
「何事もない、と思いたいですね」
「ああ。だが、筆頭術者の言い方が不穏だ。館長の態度も気になる」
志賀も同じようにゲーテを見た。仲の良い者同士が集まるというよりも、他の文豪達から引き離すような場所に三人は立っていた。
「できれば俺たちが"潜書"しないで済めばいいのだがな」
井伏がぽつりと言うと何人かが頷いた。そろそろ、と筆頭術者が声を掛けると、坪内逍遥が文豪達に呼び掛けた。
「皆も承知していると思うが、この場に居ない者達に知らせるには忍びない事態だ。早々に終わらせようではないか」
それでは第一陣の皆様は、お二人の紋様に指を添えていただけますか、と筆頭術者が言った。
<還在>へつづく
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