逬発 3
島崎藤村は国木田独歩を連れて談話室に向かった。田山花袋が後に続く。
道中、国木田は島崎に手と引かれるままに歩いていた。談話室の入り口で北村透谷にあった。
「あ、藤村、と独歩君。どうしたの」
国木田の手を引いた島崎に目を丸くした北村が田山に問いかける。分からない、という風に田山は両手を広げた。そのまま四人で談話室のいつもの場所に向かう。田山が国木田の肩を押してソファに座らせた。その隣に島崎が座る。国木田を挟んで北村が、田山は国木田と向かい合って座った。
「何かあったみたいだけど、どうかしたの」
尋ねる北村の視界は廊下を走る織田を捉える。左から右へ、そしてすぐに檀一雄を連れて、右から左へ。太宰、という声が聞こえたような気がした。
「司書さんの家で何かあったらしい」
島崎が北村に言う。
「斎藤さんと術者達がいた。どうやら病人がいるらしいんだ。入れてもらえなかった」
「菊池は入っていったよな」
田山が確認するように言う。
「うん。国木田が見てたと思うんだけど」
国木田、と呼び掛けられて初めて視線をテーブルを囲む三人に向けた。
「国木田、何か聞けた」
国木田は問いかける島崎をぼんやりと見つめる。
「おい、独歩。どうした、大丈夫か」
田山が国木田の両肩を揺する。島崎が国木田が持っているメモをちらりと見た。何も書いていない。白紙だ。
「あ、悪い。ええと……」
国木田はぽつりぽつりと太宰を追いかけるところから話し始めた。
※※※ ※※※ ※※※
筆頭術者は、研究棟の通用口に誰もいなくなるのを待っていた。通用口は結界術で封印されている。封印したのは特務司書だろう。ごくりと彼は唾を飲んだ。特務司書が想定した最悪の事態が起こっているようだった。特務司書の自宅裏口の結界を解く。とたんに空気がどろりと身体に纏わりついた。同時に百合と梔子と茉莉花の混じり合ったような甘い香りが鼻腔を襲った。彼は保護陣を展開すると合鍵を取り出し扉を開錠した。
ゆっくりと内開きの扉を開くと、甘い香りが更に濃くなった。どさり、と何かが倒れる音がした。振り向くと若い術者が一人、通用口と裏口を繋ぐ石畳みの上に倒れていた。もう猶予はない。筆頭術者は首を左右に振り向き直った。向き直る間に菊池と斎藤の様子を見る。顔色は悪いが、耗弱に陥ってはいない。先に立って家の中に入る。裏口すぐにダイニングキッチン、裏山の側にバスルーム、ダイニングキッチンから開け放たれた扉越しにリビングルーム、リビングルームの研修棟側にベッドルームがある。リビングルームは明度を落とした灯りがついている。ダイニングキッチンとリビングルームに人気がないことを確認した筆頭術者が斎藤と菊池に入室を促す。やってきた二人に彼は聞いた。
「先生方、気分はいかがですか」
菊池と斎藤は顔を見合わした。
「頭がぼんやりする。患者が待っているというのに気が散ってしまう」
「斎藤先生と同じくだ。頭がぼんやりする。気が散る。匂いのせいか」
筆頭術者は二人の文豪の能力を思い出した。菊池先生は精神=安定、斎藤先生は精神=普通。状況の確認はしていただけるはず……。
「詳しくお話しする時間がありません。この状況は特務司書が引き起こしたものです。これからご覧になるものはどなたにも口外されぬよう、お願いします」
斎藤は勿論だと言いたげに頷く。菊池も斎藤に倣って頷く。彼はほかの術者達にその場で待つように指示を出し、菊池と斎藤を連れてベッドルームに向かった。
※※※ ※※※ ※※※
志賀直哉は武者小路実篤と連れ立って医務室に向かった。考えながら。何が起こっている。小萩の件は終わったはずだろう。医務室のスライド扉の前で武者小路が呼び出しベルを鳴らす。反応がない。武者小路がもう一度ベルを鳴らそうとした時にやっと扉が開いた。扉を開けたのは不穏当な笑みを浮かべたゲーテだった。
「ゲーテさん」
意外な人物の登場に武者小路は名前を呼んだだけで言葉が続かなかった。志賀は様子の違う笑みを怪しんだ。が、次の瞬間にはいつもの穏やかな笑みを浮かべて言った。
「志賀さん、武者小路さん。有島さんはこちらです」
有島は医務室のベッドで眠っていた。そばに松岡譲がいて、有島の奥のベッドには久米正雄が眠っていた。志賀が小声で松岡に聞いた。
「里見は。どこにいった」
顔色を悪くした松岡が答えた。
「里見さんは、有島さんの有魂書を取りに向かわれました。補修をすると。今は久米が補修を受けています」
そこに、森鷗外とゲーテがやってきた。
「ゲーテ殿、彼らを入れたのですか」
「いけませんでしたか」
「いや。一言声を掛けてほしかったが」
武者小路が怪訝な顔をする。見間違いかと思った不穏当な笑みをゲーテが浮かべているのを志賀は見た。
「それに、志賀さんに下での出来事を教えていただきたくて」
そうでしょう、という風にゲーテは森を見た。
「筆頭術者が何も言わずに向かわれたので、一体司書さんの身に何が起こったのか。心配ですので。確認しようと思ったのですよ。同時補修などと他の術者の皆さんがなさらないようなことをされて、平気でいられるのか。もしそれが原因ならば……」
松岡と志賀が眉を顰めた。明らかにゲーテは秘密を暴露するような話し方をしている。
「原因ならばどうされるおつもりですか。アルケミスト・ゲーテ」
久米の有魂書を手に補修室から出てきた術者が強く窘め、睨みつける。彼女はゲーテを弾き出すように久米のベッドに近づき、眠っている久米の腹の上の彼の有魂書を乗せた。有魂書の輪郭が金色に輝き、それが収まると久米が目を覚ました。
「松岡」
久米が弱々しい声で親友を呼ぶ。
「司書さんは、無事かい」
松岡が久米に顔を寄せていった。
「寛が斎藤先生と様子を見に行ったよ。帰ってくるのを待っている」
久米の目からみるみるうちに涙が溢れた。
「ねえ、松岡。あの時、司書さんが助けてくれなかったら……。僕らぎりぎりの状態でいたのを……。司書さんが……。こうやって松岡と一緒に居られる。芥川君とも話ができるようになったのは」
松岡がぎこちなく立ち上がって、久米のベッドに腰を掛ける。親友の手を握りめていった。
「久米、僕も気持ちは同じだよ。でも今の僕たちじゃ……。寛に任せよう」
そうだね、というと久米はまた眠りに落ちた。ゲーテが一部始終を興味深げに見ていた。志賀にはそれが実験動物を観察しているように見えた。補修室の呼び出しベルが鳴ってすぐにスライド扉の空く音がして、里見が兄の有魂書を抱えて入ってきた。森が術者に声を掛けた。
「貴方も休んだ方がいい。有島君の補修は少し時間をおいてからにしなさい」
志賀は医務室奥の補修室の方を見た。ほかに術者がいる様子はなかった。術者はゲーテを警戒しながら答えた。
「いえ。6月が近いのですぐにでも取り掛かりたいのです」
術者の言葉を聞いたゲーテがまた興味深そうに有島を見るのを志賀は気づいた。有島にも久米に向けたような視線を向けている。何かを感じた里見が有島に寄り添う。武者小路も眉を顰めた。
その時、菊池たちが戻ってきた。
※※※ ※※※ ※※※
翌日、館長から特務司書の現状についての周知があった。イレギュラー事象の対応で特務司書が過労状態にあること。自宅で療養すること。週明けからの潜書業務は、特務司書の回復を見てから決めること。引き続き行動制限のない待機指示が出た。特務司書を見舞おうとする転生文豪たちは、自宅玄関と裏口に張り付いている術者に丁寧に追い返された。曰く、錬金術的な過労なので特務司書の力で転生された先生方に影響がでる可能性があります。現に山本先生が、と言いかけた術者がいた。山本有三の姿が見えないことが説明の信憑性を裏付けた。
守秘義務のある斎藤に直接聞くことが出来ないので、島崎や田山は執拗に菊池を追いかけたが、館長からの説明通りだと突っぱねた。特務司書の自宅で見た事は胸一つに収めると菊池は誓った。
<春待郷>へつづく