
往焉
<それ>はゆらりと目覚めた。揺すり起こすものがいたからだ。
―ダレダ?
<それ>は辺りを<見回し>た。
濃茶褐色の絨毯に<本>が詰まった同じ色の書棚が無数に並ぶ白い壁に囲まれた空間に在ることを自覚した。<ぱちぱち>と<瞬き>をする……。
すとん、とすべての感覚が蘇る。前かがみになりこほこほと咳をする。
どうやらあの日のままに、猫足のティテーブルの前にいるらしい。
尻の感覚はティテーブルとお揃いの椅子の座面にあった。
視覚でティテーブル上を見た。最後の一杯を分け合ったティカップがそのままだった。
―ああ……
紅茶を飲み干し、<彼>を概念に戻し<本>に保護すると術を掛けた。
<彼>の<本>を書棚に仕舞うと、<それ>は眠りについた……。
目覚めるあてのない眠りに。……それがなぜ。
<それ>は空間全体に意識を拡げた。空間の一点、<ここ>と<あちら>を隔てる境の<あちら>側に<意志ある存在>がいた。
―まさか……
<それ>は<喜び>を抑えきれなかった。いや、しかしと思い直す。
<それ>はじっと<意志ある存在>を観察した。
が、暫くするとその<意志ある存在>は離れていった。
※※※ ※※※ ※※※
それは麗らかな早春の午前だった。
この日の報道は帝都復興200年を記念する行事の発表で持ちきりだった。帝國図書館研究棟の談話室に取り寄せている新聞の全てが一面報道となっている。世界情勢を鑑みて施行とはあるが帝都が華やかな一年を過ごすことに違いはない。中野重治が何かを言いかけたが、それより先に同じように小林多喜二が読む新聞を覗き込んでいた徳永直が紙面を指さし言った。
「おお、もう桜が咲き始めよる」
紙面の一角、囲み記事で桜の開花状況が伝えられていた。
「裏山ん桜も、すぐやなあ」
また、師匠と志賀先生と檀くんで弁当を作らにゃなあ、という声に中野が苦笑いするのを見てから、小林は紙面を捲る。
国際情勢の紙面には、紛争が続く欧州と内乱が絶えない米国で精神疾患の患者が増加しているとある。
「精神疾患って……。戦いの影響かな」
誰に問うともなしに漏れた言葉を、隣の席で別の新聞に目を通していた斎藤茂吉が受け取った。
「可能性としてはあるな。が、診察してみないと分からない」
斎藤は読んでいた新聞を几帳面に折りたたんで、小林ら三人に向き直った。職業柄、そして任務遂行上、転生文豪の精神傾向を全て-自分も含めて-斎藤は把握している。中野と小林は精神:不安定、徳永は精神:安定。侵蝕者との戦闘が続く状況に不安を覚えたのかと、斎藤は小林に医者の眼を走らせた。
斎藤の山吹の瞳と小林の抑えた猩々緋の瞳がかち合うと、小林があっ、と声を上げた。
「あ、うん……。精神疾患が起きるほど負の感情が高まってるなら、本の世界も影響を受けて……。司書さんの負担が増えるかも……」
転生文豪達の覚醒も進んでいるが、魂の世界で83人と繋がっている司書の負担を小林は考えたのだろう。
「……そうだな」
小林の胸に揺れる彼の覚醒ノ指環を見て斎藤は短く答えた。
そんな時、ばたばたと誰かが走ってくる音がした。
「みんな、居るかな」
食堂の入り口に走り込んだ主は、食堂とそれに続く談話室に声を掛けた。
「外に、研究棟から出てる人はいるかい」
いつもは子供姿の文豪達に、廊下は走るな、と小言を言う徳田秋声が常の彼にはない大声を上げた。その勢いに押されて何人かが答える。童話作家たちが里山の方に、武者小路実篤と徳冨蘆花が畑仕事に出ているらしい。食堂から談話室とぐるりと一周した徳田が、他にはと確認する。
「本館に行ってる連中はどうなんだ」
菊池寛の問いに徳田は短く答える。
「すぐに帰ってくる。それよりも、オダサクさん、高村さん、檀君、ついてきて。連れ戻しに行くから」
それだけ言うと、徳田は食堂から走りでた。ばたんと玄関の扉が開く音が続く。高村光太郎が徳田に指名された織田作之助と檀一雄に目くばせをするとすぐに德田の後を追う。それに遅れて織田と檀も出て行った。
今日の本館業務は志賀直哉、里見弴、広津和郎、谷崎潤一郎だった、と小林が思い出すと同時に席を立つ。察した中野が続いて立ち上がると、またばたんと玄関の扉が開く音がする。廊下に出た小林と中野は、谷崎を抱えた師匠の志賀と里見、永井荷風に肩を貸す佐藤春夫と扉の外を伺う有島武郎に出くわした。扉の隙間から術者が一人滑り込むと、有島は扉の三カ所の錠を下ろした。
「德田さん達が外にいる奴らを連れ戻しに行くって出て行ったが……」
音に釣られて廊下に出た菊池が有島に声を掛ける。私共が、と術者が階段を下りてきた一人と連れ立って裏口に走った。それに続いて特務司書が降りてくる。
「皆さんご無事で……。ああ……」
谷崎と永井の様子を見た特務司書がエレベーターの行き先釦を押す。谷崎と志賀と里見、永井と佐藤、特務司書が乗り込んだエレベーターの籠に斎藤が入り込む。斎藤を飲み込んだエレベーターは静かに二階に向かった。
「何があった」
遅れて降りてきた筆頭術者に菊池が気色ばんで詰め寄る。
「皆さまが揃われてから、ご説明いたします」
筆頭術者は酷い顔色であった。
※※※ ※※※ ※※※
<意志ある存在>が来て以来、<それ>の意識は揺蕩う。波間を漂うように彷徨う。光射す方へ、密やかな暗がりへ、ゆらりゆらりと動く。沈黙の暗黒へ落ちて途切れることはない。
<それ>を揺り起こした<意志ある存在>は何度も境界へやってきたが、隔ては強く、<それ>が<意志ある存在>を視覚で認知することは出来なかった。
一度、<意志ある存在>とそれよりも数段小さい<意志ある存在>達がやってきたが、数段小さい<意志ある存在>達は境界の<あちら>へたどり着くなり恐慌して<意志ある存在>ではなくなってしまった。残された<意志ある存在>を感知して<それ>の内側にずきりと何かが走った。
※※※ ※※※ ※※※
陸は大人達の様子を伺った。イネを世話する作業を割り当てられていたが、兄姉達が陸の分もせっせと熟していた。今なら抜け出せる-陸は自分の走る速さと大人たちが追いかけてくる速さを秤にかけるとそろりとタンボから離れる。
陸が育てるとイネが良く育つ-陸が大人達に交じってハタラクようになってからずっと言われてきたことで、陸自身もそう思っている。でも今はあそこのことが気になって仕方がない。
あそこ-≪クチナシ≫が屯するヤマを迂回した向こう側にある石で作ったタテモノ-にある扉は、陸が何をしようとも開かない。
それどころか、陸が大人の目を盗んで出かけようとするのを見つけた弟妹達を連れて-運よく≪クチナシ≫は一匹もいなかった-行ったとき、陸には扉に見えた場所が弟妹たちには崩れかけた洞窟の入り口に見えたらしい。
―陸兄がおかしなものを見てる
口々に叫び逃げ出した弟妹達を拾いながら戻った陸を待っていたのは大人達の𠮟責だった。イネの世話を放り出したから-兄姉達は他の作業をしていた-当然だったが。が、その夜眠るまで、弟妹達が洞窟と見た陸には扉と見えるモノのことをずっと考えていた。
陸には扉に見える。扉というものが何か分からなかったが、最初見つけた時すぐに、これは扉だ、と思った。そして扉の向こうに何かがいることも。
ずっと待っていたんだ、そんなことも陸は思った。
会わなきゃ、あれに。必ず……。
※※※ ※※※ ※※※
意識が揺蕩うのを<それ>は嫌わなかった。揺蕩う意識で声を聞いた。
そして今も聞こえてる……
―……へえ、それでアレ、やったんや。結果が斎藤センセの鬼顔……。
―尾崎先生がおっしゃって、ならみんなで作ろうって。厨房もシュークリームは作ったことがないっておっしゃったので、志賀先生が……
―志賀センセ、朝から妙に張り切っとったんはそれでかぁ
―クロカンブッシュを二つ作ったまでは。ですけどね。
―あとは、オモロなった面々が作りすぎたんやな。それで志賀センセが席を外したら……
―山田先生は大喜びでしたけど……
―食べ過ぎがお二方、いやお三方、かぁ。ケッケッケ。まあ、余裕のセンセ方は別腹やろうし。輔筆ちゃんは……
―私は一つで充分です。あんなに大きいシュークリーム……。
―失礼する。おや……。
―あ、館長とネコさん。++++は今……。
―ニャんだ、昼寝か。あやつ、仕事はしておるのか。
―今朝は、高浜センセと河東センセの有魂書潜書やったんやで。覚醒ノ指環が出来たんが同時やったし。ちょっとは寝さしたってぇや。
―それどころではニャい。輔筆、あやつを起こせ。
―すまないな、輔筆。潜書準備室で待っているから来るように伝えてくれ。
…………ああ。これが<始まり>だった。
※※※ ※※※ ※※※
夕食後にも関わらず、談話室と食堂は静かだった。誰も自室に戻る-一人になる-ことはせず、談話室で食堂で遊戯室で静かに筆頭術者から聞かされた話を反芻していた。新美南吉までも、いつもの悪戯小僧ではなく児童文学者として己の思考に閉じこもっていた。
「南吉……」
「けんちゃん……」
遊戯室の長椅子の一方-反対側には堀辰雄が音量を最低限にした蓄音機を回していた-の腕に凭れるように座っている新美を探して宮沢賢治がやってきた。
「隣で、考え事してもいい」
「うん」
新美は黄色いミトンを外すと宮沢の手を握った。
―恐れていた事態が始まりました。
筆頭術者はそんな言葉で話し始めた。
「この動きは止められません。欧州と米国で増加している精神疾患は精神崩壊。皆様に分かりやすく申し上げると、人の心や精神、魂が侵蝕を受けているのです」
欧州で確認されていることは、と特務司書が続ける。
「知力の減退。というよりも消滅、とファウストさんからの報告がありました。<結社>の調査ですが、精神疾患の罹病者は知性ある動物以下という結果が出ています。ファウストさんの報告を受けて帝國での状況を調べました。欧州での発現とほぼ同じ時期に帝國でも罹病者が発生しています。絶対数は違いますが増加率は米国と同等です」
特務司書も筆頭術者も、そろって顔色が悪い。
文豪達は何がそんなに深刻なのか理解していなかった。が……
「人から知力が失われるというのは、言葉を操る能力が消えるということです。言葉は概念を形作る。言葉が消えると概念も消える……」
「概念である我々も消える、ということだな」
遊戯室の壁に凭れて話を聞いていた正宗白鳥が言った。何人かがぎょっとして正宗を見た。
「今日明日というわけではありません。対策は………考えています。早急に対処します」
本日は現状の報告で終わらせてください、と筆頭術者が締めてお開きとなった。
「僕は司書さんたちを信じてるよ」
ぽつり、と宮沢が言った。新美の視界の隅でぴくりと堀の肩が動いた。
「今までだって、司書さんたちは僕らがいいようにしてくれてた。これからもそうだと思う」
新美は宮沢を握っていた手にぎゅっと力を込めた。
「そうだね、けんちゃん。でも今夜は一緒に眠ってもいい」
「うん、いいよ」
二人は手をつないだまま遊戯室を出て行った。
「いきなり、だ。谷崎が殴られた。いや殴られたなんてもんじゃねえな。野生の猪か熊に突撃されたみたいだった」
食堂の一角、厨房に近い辺りに志賀と織田、檀がいた。山本有三がウイスキーの炭酸割りを作って志賀に出す。その手が檀のグラスを引き取り丸氷を替えてウイスキーを注いで返す。織田はグラスに指を掛けて断った。手酌の盃を呷った中原中也が志賀に言った。
「それじゃ人間がいきなり猪か熊になっちまったっていうのかよ」
「ああ、人じゃねえ。あれは野生動物だ。永井さんが噛みつかれたしな」
ウイスキーのオンザロックを呷って檀が言った。
「野犬の群れ、だったな」
ぶるっと体を震わせて織田が続ける。
「南吉君らも武者センセらも、囲まれてたしな」
「おう、武者のこと、ありがとな」
にまっと笑って、織田が答える。
「いや、ワシらが行く前に、蘆花センセがおかしいて、気づきはって。南吉君らと一緒に居てはったから。応戦したんは檀くんと高村センセやし」
「宮沢先生達に怪我がなかったのは、よかった。けどよ……」
言いかけて中原はまた手酌の盃を空ける。いつもなら場を回す山本が黙って自分のグラスを呷った。
「あんなこと、ちぃとも感じさせへんから……」
愚痴るように織田が言うと、志賀が呆れたように言った。
「あれだけ調べてるのにだんまりだったからな。まあ、なんか考えてるんだろ、これまでみたいに突拍子もないこと」
ことりとグラスを置いた山本が言った。
「…………特務司書《あの子》、ワタシ達を本に戻すかもしれないね」
おお、と息を吐いた志賀に山本が言った。
「特務司書《あの子》じゃなくて、特務司書《あの子》のなかの二人がそう考えるだろうね」
ああ、と織田が納得したように頷いた。
「…………俺は出来ることはやってやるさ」
言い切ると檀はグラスを空にする。ふん、と同意するように鼻を鳴らして中原も手酌を呷った。
※※※ ※※※ ※※※
あの出来事に菊池寛は偶然立ち会った。というよりも立ち会ってしまったというべきか。
欧州や米国で増加中の精神疾患が帝都にも発生し-まだ大っぴらに報道はされていない-帝國図書館がその被害にあってから一週間もたたないうちに、特務司書を始めとする術者達は今後の方針を決めた。
菊池達、転生文豪を<本>に還すことを。
その知らせは皆を集めてではなく文書-特務司書から文豪達への手書きの手紙という形でもたらされた。文末には質問などがあれば直接司書室もしくは自宅へ来て欲しいとあった。文豪達との話し合いは時間を惜しまないのだろう。
手紙が配達された日-夕食後に配達された-の翌朝、朝食のテーブルで中野が小林や徳永に特務司書からの手紙に憤慨していた。隣のテーブルの室生犀星や萩原朔太郎も巻き込んで、特務司書はいったい何を考えてるんだと言い募る。その様子を眺めながら、菊池は食後の珈琲を飲んでいた。菊池も思う所はなくもなかったが、今特務司書に迫っても何も引き出せないとも思っていた。それに、菊池宛の文面が-文面から受ける特務司書の意図が-気になっていた。
菊池から一つ置いて談話室に近いテーブルにポーとラヴクラフトがいた。その隣に徳田が今朝は独りで朝食を取っている。そこに島田清次郎がやってきた。
「秋声」
いつもの口調で島田が徳田に声を掛ける。
「俺は決めたぞ。すぐにでも本に戻る。帝王たる者、臣下に無用な労は取らせたくない」
島田の高らかな宣言に周りが瞠目する中、筆頭術者が食堂に入ってきた。島田を追いかけてきたようで何か言おうとしたがその前にポーが口を開いた。
「ほう、島田清次郎。それは殊勝な心掛けだ」
ポーの一言に気をよくしたのか、島田は筆頭術者に向かって言った。
「今ここでもいいぞ。すぐにでも。今の俺はこれだからな……」
爛爛と光る眼で筆頭術者を睨むと島田は右手を突き出した。筆頭術者が息をのむのを菊池は間近に感じた。そしてその理由も見て取れた。島田の右手を通して向こう側が、談話室担当の術者がやってくる姿が見えたのだ。島田の様子を見たポーがふん、と鼻で笑う。
「貴様もか。私もこれだからな」
島田に挑むようにポーも右手を差し出した。右手を透かしてポーの向こう側に座るラヴクラフトの顔を菊池は見た。
「私も、それにハワードもこうだ」
ポーの言葉にラヴクラフトは無言で頷く。言葉なく筆頭術者が狼狽える。その間にも、島田とポーの手の質感が薄れていく。
「いけない。筆頭、私がやります」
談話室担当の術者が手に持った盆を投げ捨てて島田に近寄る。
「だ、駄目だ。君では……」
制しようとする筆頭術者を押しのけて談話室担当の術者-松岡とシルバー磨きの競争をするような彼女が複雑な印を組んだ。
「筆頭はこれからのことを……。我々の使命を果たしてください」
言い残すかのような彼女に筆頭術者が聞きなれぬ名を呟く。それにちらりと返す視線が、せめて持っていきなさい、という筆頭術者が呟きに頷いた。同時に閃光が島田とポーとラヴクラフトを包む。
ぽすっという音が三つ、ばさりという音が一つして、閃光が収まった。そこにあったのは、赤い紐で縛られた本が三冊と彼女が着ていた服だった。
<回帰>へつづく