確悟
志賀直哉は潜書報告書を持って朝食の席に着いた。目覚めは快適だった。数日前の台風襲来の後、気温が下がり節気通りの彼岸前の気候だった。天気予報によれば暑さのぶり返しはあるようだが。
擦違う文豪達から己の有魂書の浄化成功と覚醒ノ指環獲得を祝われる。芥川龍之介と太宰治、両名の調査潜書から始まり志賀で12人目。術者が生成するこれまでの〈指環〉と違って、文豪の側に準備ができないと進めることができない覚醒ノ指環とその獲得のための浄化業務は、転生文豪全員には(正式には)知らされていない。秘密任務めいたその潜書は着手前にはひそひそ声で話されることが多いが、成功の一報があると皆こぞって本人を言祝ぐ。
先先月の小林多喜二とその前月の中野重治が苦労したことは誰もみな知っているから、より一層その傾向が強まった。
潜書報告書は昨晩の内に仕上げた。後は特務司書に手渡しするだけだ。
通常の潜書報告書は潜書準備室に詰めている術者や司書室にいる輔筆に渡しておけばいいのだが、今回の潜書-紡の有魂書への潜書報告書に関してだけは、特務司書へ手渡しのみとなっている。
己の有魂書への潜書は常の潜書とは異なる点かある。一つは報告書に関して。紡の有魂書への潜書では報告書作成と提出の義務がない。報告書の作成要請はあるのだが、提出が義務とはなっていない。
「理由はなんだ?」
潜書前、志賀は特務司書に問うた。潜書室ではなく補修室で。
常とは違うもう一つは潜書を潜書室ではなく補修室で行うことだ。特務司書が見守る中で。
「潜っていただければお分かりになると思います」
特務司書は言葉少なに答える。抑えた照明のせいか些か顔色が悪いように見えた。
先月、武者小路実篤が紡の有魂書の潜書を成功させた後すぐに、志賀の著作が2冊同時に浸食された。己の有魂書への潜書が決まっていた志賀は、著書の侵蝕浄化を急がせた。武者小路の有魂書潜書も、2冊同時浄化も、どちらも特務司書は立ち会っている。そのせいか、と志賀は考えたが、それを明らかにする特務司書ではない。
台風接近の天気予報を受け、設備点検に本館職員も研究棟職員も駆り出されている。静かだがどこか落ち着きのない図書館敷地内にあって、補修室には常と同じく静謐な空間だけがある。開け放たれているはずの医務室との扉は閉ざされて、志賀は特務司書とともにこの世から切り離されているような錯覚を受けた。黒檀の本体に黒大理石の天板をはめ込んだ小机-紡の有魂書への潜書の為に造られた潜書卓-に志賀の有魂書が置かれている。
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一年と少し前、侵蝕現象を引き起こした首魁を討伐した後、特務司書が体調を崩した。充分な休息を取らせることが出来ぬまま、侵蝕への対処療法を繰り返すだけのツケが回ってきたのかと、医務室の主である鷗外森林太郎と斎藤茂吉が気に病んだが、事態はそういうレベルではなかった。
文豪たちが転生されるとき、依り代として有魂書が生成される。そこには≪文豪としての概念≫と≪人としての魂≫が込められる。≪創作者の自覚≫と≪生活者の情動≫と言い換えても良い。
作品が侵食されることは、この≪文豪としての概念≫と≪人としての魂≫が傷つけられることになる。文学を創造し愛でる者の意思と情愛が侵食される。侵蝕現象は、人の負の感情を元に作品中の負の概念に取り憑いて起こるのだが、今まで行っていた侵蝕の浄化は、作品の負の概念に取り憑く侵蝕に対してだけだったことが、<結社>のアルケミスト・ファウストからもたらされた。特務司書の不調は、文豪達が人として持つ負の感情を浄化出来ていないためのものだ、その浄化のために特務司書のアルケミストの力が無意識に使われ続けている、というのがファウストー<結社>の結論だった。
そして、ファウストの言葉には、<結社>ではその対策ができるから、特務司書と館長とネコを差し出せというものが含まれていた。師であるゲーテには研究室の準備ができたと告げ、ファウストが極東の見知らぬ錬金術を手土産に師の帰還を果たしたがっているのは明らかだった。
志賀が聞くに-有島武郎経由の国木田独歩情報だが-、ファウストの提案を一蹴したのは当のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテだという。研究者として帝國図書館研究棟で特務司書のサポートをする、と弟子に向かって宣言したということだ。国木田の見解は、ゲーテは術者達の力に白旗を上げたのではないか、ということまで志賀は有島から聞いていた。
確かに決戦前、特務司書の内面世界に潜書するなどという突拍子もない経験を経たゲーテの行動には変化があった。理由なく医務室や補修室、潜書準備室をうろつくことはなくなり、研究棟3階で研究室の術者と一緒にいることが多くなった。それでもまだ、ゲーテが特務司書を研究対象と見なしているように志賀には見えるのだが……。
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念のために栞紐を付けます、と言って、志賀の有魂書に術式を掛ける。
「そんなに危ないのか」
特務司書が緊張を隠さずに術式展開するのを見て、志賀は聞いた。
栞紐は、潜書中の緊急事態が発生した場合、有無を言わさず文豪達を帰還させる為ものだ。潜書陣を解いて帰還させるより早い。栞紐という命綱で文豪達を強制的に引き戻すのだ。
「有魂書を通じて向かう先はご自身の魂の世界です。自分自身と向き合うことに危険がないとは言えないと斎藤先生がおっしゃっていました。念のためです」
「なるほど。医者の助言か。わかった」
では、と言って特務司書は潜書卓の天板に潜書陣を展開させた。
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志賀は、己の有魂書への潜書にほとんど危険を感じなかった。
それよりも、転生してから忘れていたことの多さを実感した。忘れていたことは自分が前に進むために必要なことだと感じた。前へ、前へ。進むためには思い出す事はまだまだあるのだろう、と手に入れた覚醒ノ指環を見て思った。
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「お帰り、志賀君。成果は上々のようだな」
帰還した志賀を迎えたのは、特務司書と森だった。特務司書は椅子に座り、胸を押さえている。
「おい、司書。何かあったか」
「いえ、何も。少し落ち着かなかったので……」
珍しく言葉を濁す特務司書の後を含み笑いを浮かべた森が続ける。
「うろうろと補修室内を歩き回っていたのでな。俺が落ち着かせた」
恥ずかしさを隠すためか早口で特務司書が志賀に告げる。
「有魂書と指環を補修しますから、一晩医務室にいていただけますか」
志賀の有魂書を指環を天鵞絨張りの盆に収め立ち上がろうとした特務司書の身体が揺れた。顔を見ると漆黒の瞳に紗が掛かっている。
「貴方も随分疲れているようだ。医者としては退勤を勧める」
咄嗟に差し出された森の腕を丁寧に断ると特務司書が悪戯っぽく言った。
「補修しませんと、志賀さんが変な夢を見てしまいます」
それよりも、志賀さんの身体の方をお願いします、と森を医務室に追いやろうとする。
「栞紐が引っ張られるようなことがなかったので、大丈夫だと思いますが、指環を取り出した直後の有魂書は著者が受けた侵蝕を吸収できないんです。補修をしないと後々面倒なことが起きかねません」
診察をするように特務司書を見ていた森がはあとため息をつく。
「では、志賀君のことは斎藤君にまかせよう。私は貴方が補修を終えて帰宅するまで見張ることにする」
わかりました、と特務司書が答えると森は斎藤を呼びに行った。
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朝食の席に着いた後も、文豪達の志賀への言祝ぎは終わらなかった。志賀よりも先に覚醒ノ指環を手に入れた者たちは自分事のように喜んでくれた。
食事を終えた頃、泉鏡花が広津和郎を連れて志賀がいるテーブルにきた。
「志賀君ならば、何事もなく浄化成功すると思っていました。順調に終わったようで何よりです」
泉の隣にいた広津和郎も頷く。
「自分は鏡花さんの体験を伺って心配していたが、杞憂であったようだ」
「ああ、ありがとよ……」
広津、と答えかけた志賀の唇が半開きのまま止まった。
志賀の瞳からぽろぽろと涙が零れた。
その様子に朝の挨拶にやってきた小林と中野は狼狽え、テーブルを囲む武者小路は困惑した。叫び出しそうな里見を有島が抑え、紙ナフキンを志賀に持たせる。取り乱しかけた広津を静かに制して泉が志賀に言った。
「覚醒ノ指環を身に着けていると、不思議なことが起こるようです。報告書の提出も兼ねて、特務司書に確認してはいかがですか」
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師匠の不具合に同行すると主張した小林を残して-中野に押し付けて- 泉の勧めに乗っかって-照れ隠しに-強引に朝食の席を立つと志賀は司書室に向った。特務司書は不在で、特務司書の輔筆と助手の織田作之助がいた。
ケッケッケといつもの笑い声をあげて織田は言った。
「おめでとうさん。これで志賀センセも覚醒ノ指環仲間やなぁ。ま、太宰クンは嫌がるやろけど」
おう、と答えかけた志賀の唇がまた止まった。怪訝な顔をする輔筆の前で、また志賀の瞳からぽろぽろと涙が零れた。
おやおや、とあきれる織田が志賀をじっと見つめると、何か思い当たったかのようにニヤリと笑った。
「はは~ん。志賀センセ、さっそく覚醒ノ指環に中ったなぁ」
「なんだ、それは」
輔筆の差し出すティッシュペーパーを受け取りながら志賀が聞き返した。講釈を垂れるように織田が右手の人差し指を立て志賀に言った。
「覚醒ノ指環を着けてると不思議なことが起こる」
「…………泉さんもそう言ってたな」
ふーん、泉センセもか、いや泉センセやからか、とブツブツと呟いて織田は考え込む。暫くすると輔筆の顔を確認するような目で見た。
「輔筆ちゃん、なんか、聞いとる?」
「いえ、特には……」
輔筆はきょとんとして答えた。
「あー、まだ何もわかってへんからなぁ。そりゃそやな。あんなぁ、志賀センセ。覚醒ノ指環は何とも摩訶不思議な力があるらしいねん。その力って、持ち主のワシらに由来するみたいやねんけどな。不思議なことが起こるかも、ってワシは辰ちゃんこと一緒に特務司書から聞いてんねん。不思議なことって文豪によって違うから、指環しててちょっとでもおかしいことあったら報告してって。ワシはそんなもんかと思うたし、辰ちゃんこも何も言わへんかったからそっから先は聞いてへんけど」
織田はそこで話を止めて、志賀が理解するのを待った。
「それで、太宰クンはそんなこと聞いてへんねんて。芥川センセには確認してへんけどな。調査やゆうて真っ先に潜書した太宰クンは知らんねん。で、ワシの後に潜書した德田センセも佐藤センセも知らんのん。朔センセも犀星センセ通してやけど知らんみたいやし……。中野センセと小林センセは……、それどころちゃうか……。泉センセは色々と気にしぃはるお方やし、特務司書に訊かはったんやないかな」
そこまで言うと織田はニタリと笑った。なぁ、これ、なんか思わへん、と織田の笑いが付け加えられる。
「精神が安定、か」
志賀は思いついたことをそのまま口にした。意を得たりといった顔で織田が続ける。
「ケッケッケ、志賀センセやったら、特務司書は答え合わせしてくれるんとちゃう。センセが考えてはることも、涙の理由も。今、特別書庫やから」
※※※ ※※※ ※※※
志賀は研究棟の地下にある特別書庫の入り口に立った。
――輔筆ちゃん、特別書庫に入られへんかったけ?
――はい。人だからですかねぇ。中、どうなってるのか見てみたいです。
などというやり取りに見送られて。
そういえば、と志賀は思い返す。芥川龍之介らが緊急潜書した一件で、輔筆に転生文豪と研究棟の実像が暴露された。一時、輔筆が研究棟を退職すると噂されたが彼女は勤務を続けている。勤め先の内実が不明なまま8カ月も勤務していた彼女には、勤務継続は当たり前のことなのだろうか。それともあの特務司書と付き合うとああなるのか。志賀には理解できなかった。
階段を降り切った先、廊下の高さの扉が立ちふさがる。ドアノブも引き手何もない一枚扉に志賀は右掌を押し付ける。右掌を押し付けた周りがぼんやりと光る。どういう仕組みになっているのか、するりと音もなく扉は右に移動する。入り口をくぐると、絨毯を敷き詰めた床の上に何処までも本がぎっしり詰まった書棚が並ぶ。部屋に足を踏み入れた志賀の背後で扉がするりと閉まる。音はしないが施錠された気配がした。
部屋に入ったとたん、自分とは別の<意志ある存在>がいることを志賀は感じた。それ以外は本という概念が静かに迫ってくる。この特別書庫を志賀は苦手にしていた。純粋に作家の作物しかない空間-他には何もない、望まない限り-が広がっており、のめり込むと時間を忘れてしまうことがある志賀は緻密に作られた蟻地獄のように感じるのだった。
<意志ある存在>は一所にとどまって動かない。気配を辿って志賀は部屋の中を移動する。すると書棚の一角に黒い宝玉を置いて、特務司書が立ったまま瞑想していた。絨毯で足音が聞こえないはずだが、何かに気づいたように、特務司書の半眼が揺らめいた。宝玉に向かって柏手を打つと志賀に向き直った。
「志賀さん、何かありましたか…………。ああ、わざわざこちらまでお出掛け下さったのですね」
振り向いて声を発する姿は常の特務司書だった。振り向く前から志賀がそこにいることを確信した声だった。怪訝な顔をする志賀に笑いかけ、特務司書は部屋の一所を指さした。書棚の一角を切り取ったような窪みにティテーブルと2脚の椅子が置かれていた。ティテーブルの上には茶器のセット一式が準備されている。
それらの現れ方が潜書で記述を書き足す時に似ていた。そこにそうあると書き足せば、記述の緻密さに応じて記述内容が具象化される。気持ちの良いものではないが、そういうことだろうと志賀は理解した。ただ、侵蝕者との戦闘中に書き足した記述は浄化されると消える。ここではどうなんだ……。
特務司書は志賀をティテーブルに誘うと紅茶を淹れ始めた。何とはなしにその仕種を見ていて志賀は思った。友人の兄の手業に似ている。友人、と意識が移った志賀の瞳からまた涙が零れた。
「またか……」
志賀の唇から呟きが洩れた。くそっ、なんだ今朝は……。思いがけず洩れた言葉に志賀自身が驚きを隠せなかった。志賀に紅茶を出した後、様子を伺っていた特務司書が思いついたように言った。
「志賀さん、有魂書をここに……」
特務司書はテーブルの一角を指さして続けた。
「有魂書の上に覚醒ノ指環を置いてみてください」
それだけ言うと、特務司書は志賀の行動を待った。仕方なく志賀は特務司書の言葉に従った。
テーブルに置かれた志賀の有魂書は、新刊書のようであった。生前に出版した本の中の一冊の装幀を模しているそれは、今製本されたばかりの体裁であった。懐かしさと誇らしさが志賀の心を通り抜ける。その上に獲得したばかりの覚醒ノ指環を載せた。指環を外すと一瞬目の前に紗が掛かり、ティカップの輪郭がぼやけた。瞬きをするとすぐに消えた。いや、消えたというよりも慣れた、という感じか。ころころと切り替わる意識の隅で、覚醒の指環が光るのが見えた。
それは指環自体が光っているのではなかった。覚醒の指環の周りの空間が凝縮される。凝縮された空間が肌理の細かい光の粒子に変わる。光の粒子は七色に輝き指環の周りを旋回する。旋回速度が急激に高まると光の粒子は渦を巻く。光の渦はしっぽから指環の石に吸い込まれた。ことり、と音がしたように震えると指環の石から絽紗のように光が広がり有魂書を包み込んだ。有魂書を包んだ光がプリズムを通した光の様に煌き始める。光は有魂書の周りをゆっくり旋回するとまた指環の若草色の石に吸い込まれた。
じっとその様子をみていた特務司書が静かに志賀に頭を下げ言った。
「申し訳ありません、志賀さん。私の判断ミスです。もうすこし補修に時間を取ればよかった」
※※※ ※※※ ※※※
「これは……。どういうことだ」
我乍ら随分と曖昧な尋ね方をしたものだと志賀直哉は思った。何をどう説明して欲しいのか自分でも分からない。そんな志賀の様子を見て、特務司書は何かを決めたように居住まいを正した。
「いまのは、志賀さんの有魂書に残っていた記憶が覚醒の指環に移った、ということです」
記憶が移った……という鸚鵡返しに、はい、と答え特務司書は続けた。
「潜書の後、有魂書と覚醒ノ指環をお預かりして補修するのは、この確認があるからです」
志賀は無言で特務司書の続きを待つ。
「覚醒ノ指環は、文豪ご本人の魂が必要と認めた時に初めて作るます。具体的にはご自身の有魂書で出会う記憶を材料にして覚醒ノ指環は作られます。記憶の歯車を辿ってくださいとお願いするのはそのためです。ただ……」
「拾いきれない記憶があるってことか」
頷いて特務司書は志賀に指環を嵌めるように促した。
とたん、志賀の意識の内に様々な事柄が映像になって流れた。そのうちの一つに志賀はあっと声を上げかけた。
熱海、我儘をごり押して車を出した先、年少の友は……。
忘れていた……いや、覚えている、ただし情報として……。そんな事があったという知識として……。これはあの世界では見なかった記憶……。
志賀が落ち着くのを待って特務司書は続けた。
「転生直後には、有魂書に生前の記憶や作家としての業績や評価そのほかご自身にかかわる事柄がひとまとめの概念として記述されます。潜書中の戦闘や開花で、転生時には失われていた記憶を思い出したり、文豪であるという自覚の深まると、それも有魂書へ書き足されます。その記述が有魂書から溢れ始めると、ご自身の記憶や魂、在り方についての概念だけがその拠り所を求めて覚醒ノ指環の素材として記憶の歯車に変わる、と私達術者は考えています」
「転生後の経験が、覚醒ノ物語を作る、と」
特務司書は頷いて続ける。
「有魂書を通り道に、魂の世界まで潜書して記憶を集めていただいて魂の器である覚醒ノ指環をご自身で創っていただく。ただ拾いきれない記憶があるので、補修で有魂書を読みながら、残っている記憶を覚醒ノ指環に移します。志賀さんが特別書庫まで来られたのは、不具合があったからではありませんか」
志賀は黙って頷く。特務司書はもう一度頭を下げた
「補修で私が慎重に読んでいれば、このようなことは……」
「ちょっと待て。いつもの補修でも術者は俺達の有魂書を読んでるじゃないか」
「あれは……。読んでいるのではありませんよ。頁を捲って侵蝕された場所を探して浄化しているだけです。本の中の書き込みを見つけて消しゴムをかけるようなものです。紡の有魂書になって、作家としての実績や評価、読者からのイメージだけが記述されるようになって初めて私も含めて第三者である術者が読めるようになるんです」
それまでは魂の拠り所ですから、と特務司書はさらりと言った。
「なら、有魂書の潜書中も読めないのか」
「ええ。そのために栞紐を着けていただいたのです。何が起こっているのか分かりませんから」
実際、小林さんでは使いました、とまた特務司書がさらりといった。
「多喜二が……」
「はい。でも小林さんの時は予測をしていましたので、慌てることはありませんでした。予測より早い段階でしたが」
特務司書が一息つく。
「芥川さんと太宰さんにお願いした調査潜書の時に、皆様方の私的領域が浄化対象になると分かりました。第三者である私達術者が潜書の状況を読むことができないのもそのせいなのでしょう。潜書中何が起こってもご本人に委ねるしかない。しかし……」
特務司書は言い淀むと、志賀を見つめた。漆黒の瞳が若草色の瞳を探る。言うべき事か否か、決めかねているように漆黒が揺れた。志賀の若草の瞳は真正面から受け止め、先を促した。訊けるだけのことは訊いてしまえ……。
「絶筆の可能性がある、と。研究棟の術者全員の意見です」
絶筆の可能性がある、という断言が志賀の肚に響いた。
「太宰さんは一度喪失に近い耗弱状態で戻ってこられました。織田さんも耗弱状態で一度戻られてます」
三度、特務司書はさらりと言い放った。
「危険、なのです。斎藤先生がおっしゃる以上に」
手元の紅茶に口をつけてから暫く、特務司書は口を噤んだ。志賀の理解を待つというよりも、これから話すことを考えている風であった。特務司書の眉間に小さく皺が寄っていた。志賀の記憶する限り、特務司書がこういう表情をすることはなかった。オマエはオマエで悩むことがあるのか、と志賀は思った。特務司書はティカップに視線を落としたまま話し出した。
「私が考えた対応策は、皆様方の著作物や年譜を読み込んで、躓かれるであろう事柄を予測することと、緊急時に有無を言わさず撤退させるように準備することだけでした」
「予備知識を仕入れておく、か」
「…………はい」
珍しく、返答に時間が掛かった。志賀は視線を落としたままの特務司書を見た。外見の印象は初めて会った時から変わらない。肌理の細かい白磁の面、漆黒の瞳を飾る睫毛は頬に影を作る。均等に引かれた眉は理知的で、白に近い白銀に金が混じる頭髪が額縁のように囲う。志賀ほどの上背がありながら、圧迫感は無く、黒ボトム白シャツ黒のローファーのいで立ちで滑るように動く。見目好い転生文豪達に混じっても遜色がない。特務司書をちらと見かけた本館の利用者が同好会を作っているという噂を本館職員から聞いたことがある。
沈黙が続いた。やがて大きくため息をつき、深く息を吸うと特務司書は居住まいを正し直した。
「正直に申し上げます。今回の志賀さんの潜書に関しては、栞紐をつける以外の対応を思いつかなかったのです」
眉間の皺はそのままに、同じ高さで漆黒の瞳が若草の瞳を見る。
「何度も志賀さんの著作物や年譜、評論まで広げて読み直しましたが、躓きのきっかけが見つからなく……。気持ちが落ち着かずに潜書当日を迎えました。言葉にできなかった何かに出会って、絶筆される可能性を考えながら」
漆黒が揺らめいたように志賀には見えた。コイツ、自分で言うほど……。
冷めた紅茶を飲み干すと、志賀は低く呟いた。
「不遜、だな」
虚を突かれたように漆黒が見開かれた。こんな顔もするのかと驚きと笑いを内に隠し志賀は続ける。
「俺にだって苦悩はある。が、それを喧伝するのは好きじゃねぇ。それに、書くことは自分と向き合うことだ。人間としての自分とな。それぞれ長い短いはあるが俺達文豪はそうやって言葉を残してきた。今更自分に向き合うことにビビる奴は図書館にはいねえ」
しかし……と言いかける特務司書を制して志賀は続けた。
「書いたものを好きに読むのは読者の勝手だ。が、それをネタに色々憶測を飛ばすのは読み手の領分を超えてるぜ。下衆の勘繰りだ」
言い終わると志賀は立ち上がり、特務司書に背を向けた。
「転生文豪を信じろ」
言い残すと志賀は特別書庫を後にした。
※※※ ※※※ ※※※
研究棟の地下から戻ると、自室には戻らず玄関から中庭に出た。晴天に浮かんだ雲は秋の訪れを告げていた。ぼんやりと空を眺める志賀の後ろから声が掛かった。振り返ると作業着を着た武者小路実篤が居た。
「司書さんとお話、終わったの……って、志賀、それは」
武者小路の指さす先に特務司書に渡すはずだった潜書報告書があった。
「うん、あぁ……。……出さないことにした」
「えぇー、僕は出したのに……。遭ったことを書いても、司書さん、僕らの私的領域は内緒にしてくれるよ。大丈夫だよ」
口を尖らす親友の美少女めいた顔にも随分慣れたものだと志賀は思う。
「それは……。信じてるよ。…………ああ、信じてる」
ああそうだ、と志賀は言葉を魂に響かせる。
俺達も信じる。
<了>