紫笑
里見弴は帝國図書館研究棟の階段を上っていた。2階から3階へ。3階にある術者の実験室を目指して。研究棟の3階は普段の里見なら足を踏み入れることはない。里見でなくても転生文豪は皆近づかない。ただ一人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを除いては。
ただし、今日の里見は業務の一環で3階へ向かっている。潜書準備室の洋墨の備蓄の補充、という名目で。里見のいるグループは今月、潜書業務の担当だ。が、1年ほど前に侵蝕者討伐に一応の目途がついて、大きな侵蝕を受けることはなくなった。今の潜書業務は残務処理のような有碍書浄化が主だ。最近は失われた本の概念の欠片を拾い集める潜書業務も加わったが、どれも緊急業務ではない。どれも日常業務である。
なので、里見はなんやかんやと理由をつけて待機場所である潜書準備室を離れる。とくに3階の術者たちの実験室へ。実験そのものを見せてもらえるわけではないが、手の空いた術者から聞く話は物珍しく飽きることがないし、通達前の最新情報をうっかり漏らす術者もいる。今日の潜書業務は午前午後ともトルストイの『復活』を復元させる欠片集めのみだ。本当に暇。志賀兄はリーダーだから離れられないだろうし、レフは自分の本のことだから一日張り付いてるだろうし、広津君はそれに付き合うだろうし…… だったら、午前中畑仕事をしている武者さんと交代して、午後は畑にいってサボろうかな…………。
里見がそう考えるうちに3階に着く。廊下の窓から梅雨前の湿り気を帯びた風がゆるりと吹きこんでくる。3階の玄関側は以前館長が使っていた実験室があり、現在はゲーテの実験室兼自室となっている。里見はその反対側に向かって歩く。そちらの実験室には里見と懇意にしている術者-筆頭術者の下に三人いる筆頭補術者の一人で3階の術者のリーダー格-がいる。なにか新しいことが聞けるかな、武郎兄が驚くようなことが聞けたらいいけど、くふふと子どものような笑みを浮かべて扉をノックしかけた。その扉が開かれたままである。居ないのか、と思った里見の鼻腔が花の香りを捉えた。百合と茉莉花と梔子とが入り混じったような香りがうっすらと漂う。あれ、と思い里見は実験室を覗き込んだ。
「やっぱり、司書さんだ」
来訪を告げずに里見は実験室に入った。
「おや、里見さん」
穏やかにほほ笑む特務司書の隣にゲーテがいた。うっと思わずうめき声がでる。その声にゲーテは少し悲しそうな顔をした。
「潜書準備室の洋墨をもらいに来たんだけど。なにかあったの」
訊かれる前に里見は先手を打つ。術者の一人が実験室の奥へ向かった。洋墨を取りに行ったらしい。特務司書はなるほどと頷き、先程まで見ていた方に向き直った。召装研究専門の術者達が集まって二人の男を取り囲んでいた。姿見の前には芥川龍之介、その隣にもう一人こちらに背を向けた男がいる。まるで仮縫いのようだ、と里見が思う。
召装には専用の本-有装書-に潜書する。文豪たちはその本に潜書して衣装や装像を拾ってくる。衣装や装像は文豪達の記憶や夢といった概念や文学書に秘められた力が形となったもので、侵蝕者と戦う際に文豪たちの戦闘力を高めてくれるものだ。それらを拾ってくるというのは比喩表現ではなく、潜書した有装書世界では目に見える形で置いてある。文豪たちが有装書世界から現実世界に帰還する際、術者が洋墨を使って現実世界に錬成する。術者の力量の良しあしで拾ってきた衣装や装像の強さが決まり、数にい限りがないので、場合によっては何度か同じ衣装や装像を拾ってくることがある。が、ごく稀に-特に衣装で-特別な概念や力を込めて錬成されるものがある。
何日か前、筆頭補術者と食堂で昼食を摂った際、ちらとそんな話が出たのを里見は思い出した。特務司書とゲーテが共同研究した特別な洋墨の錬成に自分も成功したと彼は言った。それを使って特別な概念を織り込んだ衣装を作る予定ではあるけれど、洋墨の錬成に時間がかかるのでまず少人数で、かつお誂えのような形で錬成すると。里見が誰のを作るの、と聞くと彼は黙り込んでしまったが。
ああ、これか、と里見は思った。何か特別の事があれば、全て芥川龍之介から始める-決められたわけではない決めごとが研究棟にはあった。例外は誕生日に贈られるケーキで、厨房担当の術者がXmasケーキの練習で作ったものを、その日がたまたま誕生日だった小林多喜二を祝うものだと皆が勘違いしたことから、館長の鶴の一声で福利厚生の一環となった。それがなきゃ、12月1日ではなく3月1日から始めたんじゃない、とその逸話を聞いた時に兄に感想を漏らしたことがある。
「この花束も衣装なの。花の香りがまるで祝福してくれているようだね」
芥川龍之介は相変わらず芥川龍之介だった。鈍色のドレスシャツにパールグレイのレースタイ。ひざ丈の瞳の色の薄手のオーバーブラウスに白のイブニングコート様の上着と同じく白のパンツ、媚茶のジレ。パンツとジレの裾には金の縁取り、踝にかかる上着の裾を落ち着かせる金の重り、ブーツは金と媚茶のコンビ。美麗、そうとしか言わせない誂えに、里見は不安げな瞳を投げた。生前、面識のないころに、彼を評した言葉が里見の脳裏によみがえった。こんなにされて後で困らないの。覚醒ノ指環の時にも……。
背を向けた男も金の縁取りのある白のイブニングコート様のジャケットと裾を金で縁取ったラベンダー色のパンツ、桑の実色のブーツの底は金で彩られている。心もち背が丸まって不安げな様子で、傍らの小机の眼鏡に手を伸ばしていた。
「眼鏡がないと少し照れくさいですね」
誰に言うともなくそう呟くと手に取った眼鏡と掛けようとした。
「眼鏡がなくとも見えるように補整をつけていますよ」
傍らにいる術者が遠くを見てみるよう促して、こちらを指さした。男がそれに誘われるようにこちらを向いた。
乳白色に栴檀の花色を混ぜ込んだような淡い紫の髪、引き結んだ唇を乗せた細い顎を引いて、不安げにこちらを見る青紫の瞳。ジャケットの内は瞳の紫色のヴァリエーションのようで滅紫のドレスシャツ、艶のある古代紫のボータイ、ジレの縁取りは京紫。ジャケットの襟と袖口、白のジレの飾りベルトはブーツと同じ桑の実の色。美しい男が里見を見ていた。芥川が評される美麗という華やかな美ではない。強いて言うなら己の兄、有島武郎のような貴族的な美しさをたたえた男。
ぽかんと眺める里見に気づいて、男が言った。頬を赤らめて。
「さ、里見君、いたんだ。あ、あんまり見つめないでくれるかな」
誰だこいつ、という頭の中の言葉が、見知った友人の名前に置き換わる。
「ほら、言ったろう、久米。里見君も見とれてるよ」
芥川の声に誘われるように、里見が二人のもとに近づく。にこにこと笑う芥川と対照的に久米は怯えるように二、三歩後ずさった。里見は芥川の周りをくるっと回って芥川の全身を眺めた。同じように久米の方もくるりくるりと二度回ると次は反対に一度回り、正面に立つと爪先立って久米の顔を見上げた。
「眼鏡がない。帽子がない。久米君の顔がよく見えるや」
雀斑もないし、という言葉は喉元で止めた。
真っ赤になって里見を避けようと首を背けて逃げる久米を、里見は下からのぞき込んで追いかける。くすくすと周りから笑いが漏れる。
「もう、やめてよ。里見君」
久米と里見の追いかけっこは里見に軍配が上がり、微苦笑の嘆願が久米の口から洩れた。幼子の邪気を含んだ朱の瞳で久米を磔にした里見が特務司書に聞いた。
「ねえ、司書さん。この服何時できるの」
笑いを堪えながら特務司書が答える。
「一度概念に戻してから白い本に埋め込んで特別の有装書を作ります。今日の仮縫いでほぼ完成なので、早ければ明日か明後日の有装書潜書でお願いすると思います」
聞くなり里見は唇を突き出して抗議した。
「あぁーあ。明日と明後日って、僕休みだよ。久米君のために僕が取ってこれないじゃん」
「休日の交代は受け付けますよ。夕方の5時までなら」
笑いを湛えた特務司書の声が里見に告げると久米はますます赤くなった。
「うん、分かった。志賀兄に言ってみる」
里見は言うなり、術者が準備した洋墨の一箱を抱える。
「僕がその服を持って帰ったら、その服を着て僕とデートだよ。分かった、久米君」
実験室を出る間際にそう言って里見は立ち去った。里見の後ろ姿に芥川がやられた、という風に呟く。
「あ、先越されちゃった。僕も狙ってたのに」
実験室の中、穏やかな笑い声に包まれて、耳まで赤く染まった久米はいつもの微苦笑に満更でもない笑みを付け加えた。
<完>