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事源

 小一時間ほど待たされた後、山本有三はシリエに連れ出された。田舎道をシリエの後について歩く。田舎道の周囲には田圃が広がる。所々稲株が残る茶色の田圃の向こうにぼんやりと紅色が霞む。鶯の初音が長く響く。高い空から降る雲雀の囀り。田圃に人が立ち耕し始める。道は里山に入り、どこか見覚えのある高台に山本は導かれた。満開の枝垂桜が一本、その下に男がひとりこちらに背を向けて佇んでいた。枝垂桜の根元には幹に凭れて眠る特務司書と彼女がいる。
「山本有三先生をお連れしました」
 シリエは男に声を掛ける。
「ご苦労さま」
 早春の残雪のような声が響く。
「私はこれで」
 眠る二人をちらりと見て微笑むと、シリエは戻っていった。男が振り向く。白衣に浅葱の袴、シリエより二、三歳ほど年長の理知的な面差しの青年がゆっくりと頭を下げた。
「ようこそ、と申し上げてよいものか。わざわざのお運びを歓迎する」
 上げた面の髪色と同じ鉄紺の瞳が山本にひたと向けられた。そこに言葉どおりの戸惑いがあった。
「この事態には我等も困惑している。まあ、これを引き起こした当人たちはこの世界では眠っているが」
 そういって男は桜に凭れる二人に近づいた。右手で特務司書の髪を労わるように撫でる。
「貴方は私達の拙さの被害者だ。答えられることは全てお話しよう」
 山本の脳裏にいくつもの疑問が浮かぶ。
「答えらえること……。この期にまだ秘密があるというのかい。それにアンタのことはなんと呼べばいいんだい」
 一瞬、男の表情が驚きに固まる。ややあって答えた。
「シリエも言ったが我らには"名"がない。仮にヤブレと呼んで欲しい」
 山本の脳裏に"破"という文字が浮かんだ。はっとして周りを見渡す。視線が彼女にぶつかると"守"、特務司書にぶつかると"離"と同じように文字が浮かぶ。それぞれ"マモリ"、"ハナレ"と読むと理解した。
「「名付け」だ」
 山本が眉を顰める。
「ヒトがもつ「ことのはのちから」だ」
「ことばの……、力、かい」
 低く呟いた山本にヤブレは頷いた。
「話は長くなるだろう。こちらへ」
 指差す先にするすると茅葺の四阿が現れた。背凭れのついた籐椅子が二脚、テーブルに茶器が用意されている。潜書のときと同じ、書き足しているみたいだ、と思いながら山本は籐椅子に腰を下ろした。

※※※ ※※※ ※※※

「それで、アンタ達は何者だい」
 ぬるく淹れた煎茶で口を湿らせると山本は訊いた。
「「ことのはのちから」の者」
 山本の器に茶を注ぎ足すとヤブレは言った。
「正式な名ではない。そもそも我等を指す言葉はない」
 山本は黙ったまま先を促す。
「もともと「ことのはのちから」は誰にでも使える能力ちからだ。しかしある時を境に使われなくなった。ことたまが侵蝕されたり、ことだまに変質したりするようになってからと言われている」
 侵蝕される、と山本が繰り返す。ヤブレは頷く。
「遥か昔の話だ。私も伝承として聞いているだけだ。ことたまは「ことのはのちから」を集め珠にしたもの。古来、人はことたまを使いあらゆるものを生み出したという。そのことたまが侵蝕されたり、ことだまに変質したり、人にとってよきものが生み出されなくなった。多くの人はことだまに侵蝕けがされ、ことたまを生み出す力を失ったともいわれる」
 ヤブレは手元の茶器を見つめて続ける。
「「ことのはのちから」を失わなかった者達の末裔が我らだ。「ことのはのちから」でことだまの浄化を続けてきた」
「それじゃあ、アンタ達はずっと侵蝕と戦ってきたというのかい」
 ヤブレが一口茶を啜って答える。
「ことたまの、という意味なら最初から。しるされた文字の、という意味ならこの3000年ほどだ」
 3000年、と聞いて山本は絶句した。
「我らがそうやって侵蝕けがれに抗ううちに一大事件が起こった。帝の、今の帝室が持つある書物が侵食された。それを侵蝕されてしまっては「ことのはのちから」そのものが失われてしまう。我らは帝に名乗り出て以後代々の帝の命により侵蝕けがれと戦うこととなった。そのときから我らは術者アルケミストと呼ばれるようになった」
「それで……、今かい」
 ヤブレが茶器を置き山本を見る。
「大まかには。だが、我らだけでは侵蝕けがれに対応できなくなってきた」
「何故だい」
「一大事件の浄化は出来たが「ことのはのちから」の者の大半を失った。同時に侵蝕けがれの勢いが強大になった」
 ひとつ息を吐いてヤブレが続けた。
侵蝕けがれを一つ浄化すると術者アルケミストの命が一つ、失われる」
 高台から見渡せる風景に視線を外して、ヤブレが言った。
「このさとにいる者達は侵蝕けがれの浄化に携わってきた者達。シリエもその中のひとりだ」
 シリエという言葉と同時に山本の脳裏に”終”という文字が浮かんだ。山本もヤブレの視線を追った。途中の田舎道から見た紅色は淡い桃色に変わっている。ひらりと花弁が風に乗り舞う。
「桜……」
 山本が振り返ると枝垂桜に花がつき、開き始めていた。
侵蝕けがれの勢いに対抗する手段が、あの子と貴方達だ」
 ヤブレが振り返り特務司書を見た。山本は顎を引いてヤブレの様子を伺う。キチキチと百舌鳥の鳴き声が響く。
「どういうことだい」
 山本が声を低く問うた。ヤブレが山本に正対した。
「この国の歩みが大きな変化を迎える頃、一人の少年と猫が我等の元にやってきた。少年は記憶を失い、猫は人語を解した」
「館長とネコちゃんかい」
 ヤブレが頷く。
「少年は我らと同じ「ことのはのちから」を持っていた。極めて弱い力ではあったが。猫は本の世界にいた、と言った。彼らを保護せよという帝の命と彼らを調べよという時の為政者からの依頼があった」
 ヤブレが高台からの景色に右手を差し伸べる。ゆらりと帝國図書館の研究棟が現れ、消えた。
「彼らを調べてわかったことがある。書物にはそれを記した者の意思や魂が宿る。人はそれを読むことによって記した者を定めることが出来る。術者アルケミストのようにはいかないが人もまだ少しだけ「ことのはのちから」を有しているから、その力で記したものが形造られる。そして」
 そこまで言ってヤブレは言い淀んだ。特務司書よりも青みが優った黒の瞳が山本を見た。
しるした者の意思や魂は術者アルケミストよりも浄化する力が強い。それが分かって、ネコのように本の中の意思や魂を具現化できるかの調査と実験が始まった」
「それが……アタシ達の転生につながるのかい」
 ヤブレの表情が能面のように固まる。心なしか声が震えていた。
「簡単にはいかなかった。失敗の度に術者アルケミストの命が失われた。侵蝕の浄化以上に転生には「ことのはのちから」が必要になる。なんとか呼び出すことが出来ても、術者アルケミストの「ことのはのちから」で呼び出した魂では浸食の浄化が進みにくい。それで」
 ヤブレがまた振り返る。彼女と特務司書をじっと見つめた。
「私と彼女が禁じ手を使った」
 ヤブレが言葉を切った。鶯の谷渡りが一つ、二つと遠くに聞こえる。向き直ったヤブレが言った。
「彼女の身体と魂を器に、私の身体と魂で器を強化し、彼女と私の「ことのはのちから」を入れた、ことたまの浄化という使命しか持たない人工生命ホムンクルスを創った。それがあの子特務司書だ」
 山本は声もなくヤブレを見つめ返した。すとんとヤブレが視線を落とした。
「信じてもらわなくていい。途方もない話だからな」
 ヤブレの肩が小刻みに震える。己の内の何物かを耐え凌ごうとしている。肩を上下させ浅い呼吸を繰り返す。爆発しそうなものを堪えようとしていると山本有三は思った。やがて、深く息を吐き、袂から手巾をだして、額の汗をぬぐった。
「すまない」
 ヤブレはそれだけを言った。横顔に夕日が差す。
「続きは明日にしよう。迎えが来ている」
 振り返ると枝垂桜の下にシリエが佇んでいた。

※※※ ※※※ ※※※

 田舎道の両側に広がる田畑の一角に笹竹が4本立っている。紙垂を垂らしたしめ縄で笹が繋がれている。そこへ向かって歩く人影が見える。
 ではここで、とシリエは軽く頭を下げ、畦道をその一角に向かって歩いて行った。
 朝餉の場でシリエが言った。
「申し訳ないのですが、今日は山本先生おひとりでの方々のもとへお出かけいただけますか」
 訊けば、言祝ぎのため、と言われた。
「もうすぐ米作りが始まるので、豊作を意宣いのりにいくのです」
 笹竹の内側に祠が見えた。神事なのであろう。山本は似たようなものをはるか昔に見たような気がした。

 田舎道の先、枝垂桜の高台には昨日のままに、ヤブレがいた。彼女と特務司書も桜に凭れて眠っている。桜の近くに椅子と茶器を載せた小卓が据えられていた。
ヤブレが山本を招く。桜の花びらがちらりほらりと舞った。
「ここには随分人がいるんだねえ」
 椅子に腰かけながら山本はヤブレに声を掛けた。
「彼らは……亡くなった術者アルケミストの概念の欠片だ。彼らの最期の思惟や感情を彼女が取り込んだ。忘れないように」
 忘れない、と山本が呟く。ヤブレは特務司書を見て続けた。
「共に在ったことを忘れないように。そしてなぜあの子特務司書を創ったのかも」
 ヤブレが特務司書から視線を外し山本に向き直った。ひたと山本を見据えて続ける。
「それに書物から概念を掬い上げ転生させることは、輪廻の輪に干渉し、死人を蘇らせ、使役することともとれる。人が行うことではない。なので、あの子特務司書には感情を持たせなかった。侵蝕を、ことたまの浄化を最優先にするためもあったが」
「感情を持たないなんて、随分歪じゃないか」
「……その時は、最善だと思った。……人が行うことではないなら、人でないものが行えばいい。術者アルケミスト達が命を落とすこともない。書物の中の概念も確実に掬い上げることが出来て、侵蝕を浄化出来る」
 自嘲するようにヤブレが言い、下唇を噛んだ。
「最善だと思ったことが、いけなかったのかい」
 山本が宥めるように問うた。俯いたヤブレがぽつりと言った。
「思いもしなかった」
 山本はヤブレが話し出すのを待った。さわさわと風が吹き、桜の花びらが舞う。チチチと雀の声がした。
「感情にのみ込まれたのは私と彼女だ。あの子特務司書の存在概念を支える私と彼女が……感情を処理できずに……。あの子特務司書は悪くない」
 ヤブレが視線を上げ山本を見つめる。鉄紺の瞳が潤む。もしかすると、と山本は考える。見た目から受ける印象よりもヤブレは若い、いや幼いのかもしれない……。
「感情が引き起こす力は強力だ。その力をあの子特務司書の「ことのはのちから」に変えてしまえるかと思ったが……」
「叶わなかったのかい」
 ヤブレが手元に視線を落とす。山本は心なしか肩が窄み背が丸くなったような気がした。ふいと立ち上がって山本はヤブレに近づいた。細かく震えている両肩を掴んで引き寄せるとヤブレの頭を両腕で抱きかかえた。ひゅうという驚きの声が聞こえ息を詰める気配を感じたが、構わず右手で髪を撫でつける。身体のこわばりが解けると嗚咽の声が洩れ始めた。

還戻>へつづく

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