葬半身
帝國図書館研究棟
夕食の時間も過ぎ、就寝前の団欒に何組かの文豪達が談話室のそこかしこを埋めている。常なら会話が時に文学論議へと発展することもあるが、今はぽつりぽつりと、途切れがちな声が続くだけだった。
談話室が、いや研究棟全体がある予感に身構えている。季節の移り変わりを告げる長雨が裏庭とそれに続く里山を静かに濡らし続けている。
気温の低下に伴って閉じられていた談話室の扉を開けて鷗外森林太郎が入ってきた。さっと室内を一覧する森の眼に手を挙げて呼ぶものがいた。
夏目漱石と正岡子規が談話室の奥まったテーブルにいた。何人かがもの言いたげに森を振り仰いだが、目礼だけ返して森は夏目と正岡のテーブルに座を占めた。森が腰掛けるや正岡が尋ねる。
「どうだい、森さん」
なにが、と問わずに森が短く返す。
「あと数日といったところか」
「そうですか」
夏目が短く返したところに、談話室付きの術者が森に飲み物の希望を聞きに来た。途中、森の言葉を聞いたのか、動作がぎこちない。術者が茶のお代わりを入れるために夏目と正岡の茶器を引き取って離れたのを確認して夏目が訊いた。
「司書さんはどうされてます」
森が眉間の皺をもみほぐしながら答える。
「帰した。あのままでは最期まで付き添いそうだったからな」
「それでは司書さんは今、ご自宅でお独りなんですか」
森の背後から声が届く。振り向くと唇を引き結んだ堀辰雄が森を睨めつけていた。森の先ほどの言葉は静かな談話室に意外に響いたようで、その場にいる文豪達が皆森を見つめていた。
「大丈夫でしょうか。このところかなり無理をされているのでしょう」
特務司書を心配する堀に向き直って答えた。
「斎藤君が付き添っている。無理にでも睡眠はとらせることで筆頭術者とも話はついている。場合によっては薬を使う。輔筆には三階の術者が交代で付き添う。最期までな」
森がそこまで言い切ると堀は肩を落として元居たテーブルに戻っていく。そこには川端康成と横光利一がいた。森の言葉を聞いて文豪達は元の姿勢に戻る。が、ひそひそ声が幾分増えた。
※※※ ※※※ ※※※
輔筆は、大きな討伐作戦の後、特務司書を補佐する名目で本館の事務室から異動してきた。特務司書の補佐には文豪達の誰かが助手として交代で務めていたが、それとは別に主に文書関係を補佐するのが彼女の職務だった。
しかし、それは名目で真に求められていたのは彼女の人間としての感情-笑い、泣き、喜び、怒る-それをそのまま特務司書の前で表す事だった。
特務司書は見た目は整った麗しい-転生した文豪達にも劣らぬ-青年だが、その実は研究棟の術者達が遥か昔から携わる使命の為に造りだされた人工生命であった。その使命を遂行するために感情の全てを知識としてしか与えられていないのだった。
これからは知識以上の感情の理解が必要になる。しかし、今から感情を与えることは特務司書の存在意義を歪めることになる。第一、当代随一が二人いると称された術者がその存在の全てを注いで作り上げた人工生命を改変出来るだけの力のある術者は皆無であった。では生身の人間の感情を傍で観察させてはどうか、と当時の筆頭術者が考え、提案された館長は難渋をしめしたが、本館の主任司書はそれなら適任がいるといった。
それが彼女だった。
※※※ ※※※ ※※※
ゆらりゆらりと揺蕩う。それが身体だけなのかそうではないのか彼女には判断がつかない。瞼を上げようと思うがなかなか思うようにはいかない。何度目かの試みの後、彼女の瞼は恐ろしくゆっくりと持ち上がった。
緩やかな角度ではあるが背中がもち上がっている。左の腕にちくちくとする痛みはあったが、何かが当たっているという感覚はない。滲む視覚の焦点があう。左側に窓、遠くに書棚が見える。ゆらりと誰かがこちらを覗き込むのが目に入った。のぞき込む顔に見覚えがある。床に伏した後に彼女が行っていた業務を引きついた術者。彼女は業務遂行の要領を尋ねに、度々特務司書の自宅にある彼女の病床を訪ねてきた。
―――ああ、そうだ
無理を言って、以前にいた研究棟四階の部屋に戻してもらったのを彼女は思い出した。ついでに命を繋いでいた点滴も。
―――司書室に近いですから
そう言って特務司書の負担を減らしたつもりだったが、業務が終わると夜半を過ぎるまで特務司書はここにいた。彼女の背を支えるように抱きしめ、ぽつりぽつりと昔話をする。叱るように諭して自宅に帰らせていたが……。今日は帰ったみたいでよかった。
ゆるりと唇が微笑みに変わると傍にいた術者が静かに声を掛ける。
「お水を……」
瞬きで是を伝えると術者は小机の吸い飲みを手に取り彼女の唇に添えると少し傾ける。唇の力で水を飲むと舌先で押しやった。
「ここにいますから安心してくださいね」
小声で声を掛け、掛布を整える術者の顔が近づいたのでその耳に微かに囁いた。
「特務……司書は……」
そっと、彼女の右腕を掛布の上から撫でおろして術者が答える。
「お戻りになりました。斎藤先生が付き添われて」
その答えにゆっくりと頷くと彼女は瞼を閉じた。術者が真っ白になった彼女の髪を整えるのを感じながら、彼女は特務司書の腕の中で聞いた言葉を思い返す。
―――綺麗な濡羽色がすっかり私と一緒になってしまった
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互いを連理の枝と認めたのは何時からだろう、と瞼を閉じた輔筆は思いだそうとした。いや、そんな記憶はない。そんなことを言い交わした覚えはない。特務司書の体質上の障り-時に女性の姿をとる-を支援するうちに自然とそうなったのだ。そこには特務司書の意図も輔筆の意図もない。私は本館で居場所を見つけられなくて、主任司書の勧めに応じて研究棟へ来ただけ。勤務初日に特務司書から依頼された奇妙な業務内容に従っただけ。
そう思った彼女の脳裏にいくつもの特務司書の表情が浮かんでは消える。その時常に思ったことを彼女はありありと思い出す。前半生にはついぞ感じなかった甘やかな慕わしい思い。それに漣を立てるのは置いて行かねばならないという刺すような痛み。
彼女の前半生-研究棟に異動するまでは-政府に首輪をつけられていた。こう言い放ったのは志賀直哉と中野重治の前だけであったが、物心ついてからは首輪に着けられた政府の引綱の長さの内でしか動くことが出来ないのは分かっていた。災害孤児として施設に収容され最低限の援助を受け、学力上位者として援助を受け、最上位の成績を取り続け援助を奪い取ってきた。卒業後の政府機関や組織への奉職義務に肯ずると大学でも最上位の成績を修めてきたのだ。が、卒業間際になって恩師と慕っていた研究者と生涯の友と親しんでいた同期に全てを奪われた。
大学職員の口利きでなんとか帝國図書館の事務所に職を得たが、研究への執着は振り払い難く、時間をみては閲覧室の書棚を徘徊していた。そんなときに研究棟異動の募集があり、募集に応じるかを考える前に主任司書から異動の推薦があった。その後はあれよあれよという間だった。彼女は本館での煩わしい人間関係-いじめやいやがらせ-から逃れた。
そうやって今まで。床に臥すまで彼女は特務司書に寄り添って、研究棟の業務となっている文豪と術者達の使命遂行の手助けをしてきた。
森林太郎に診察され、森が斎藤の意見を聞き診断を下されるまで。
※※※ ※※※ ※※※
特務司書が寝入ったのを斎藤は確認して腕時計を見た。睡眠導入剤の効果で特務司書は七時間は眠っているだろう。覚醒のおおよその時間をを筆頭術者に伝えておかねば。ネクタイを緩め深く息をついたところに佐藤春夫が台所から顔を出した。
特務司書を自宅に送る途中で斎藤は佐藤と行き会った。食事をしていない特務司書を気遣って、佐藤は檀一雄と食材と連れて斎藤の後に続いた。檀が台所で調理する間、斎藤が特務司書を診察するのを見守った。大丈夫だ、と言い張る特務司書は佐藤の眼から見ても大丈夫ではない。斎藤は今日は君を寝かしつけるように言われていると告げ、聴診器などを入れているポーチから薬を取り出した。
「檀君の食事を食べこの薬を飲みたまえ。食事をし薬を飲み終えるまで我々はここを離れない」
ちらと視線を寄越した斎藤に佐藤は大きく頷く。
通常業務は回っているといえ、佐藤が思い出せる限りで特務司書の体調も顔色も一番悪い。普段は特務司書の事など爪の先ほども話題に上げない山田美妙や島田清次郎まで、あれはどうなっているのかと身近にいる尾崎紅葉や徳田秋声に訊いているほどであった。
台所の片付けが終わったのか檀も寝室にやってきた。特務司書の寝顔を見た檀がすんと鼻を鳴らす。斎藤が寝台の傍を離れるのと入れ替わり、佐藤は特務司書の髪を撫でる。夢を見ているのか、眉間に皺が寄り、瞼がぴくぴくと動く。うぐっと喉を鳴らして檀が後を向いた。
「檀、どうした」
弟子の様子に佐藤は気遣いの声を飛ばす。
「い、いえ……。なんでも……ありません」
振り向いた佐藤は弟子が右手の甲で目を擦るのを見た。ああ、と思った佐藤は斎藤と見返し、檀の肩を叩くと退出を促した。
裏口から三人が出ると斎藤は鍵を掛け、筆頭術者に報告するからと研究棟の二階に向かった。佐藤は自室に戻る気にもなれず、そういって談話室に寄る気持ちにもなれなかった。ぼんやりしている檀を誘って喫煙室に向かう。
運よく喫煙室は誰も居なかった。強制排気の換気扇が低くうなるなか、佐藤はソファに座ると煙草を取り出す。備え付けのライターで火をつけると檀にも勧めた。師に勧められた煙草を手に取ると檀はぽつりといった。
「さっきは、すいません……」
「いや、俺も……。もうちょっと気遣えばよかったな」
「いえ……。このところの様子を見てどうやったら食べさせられるか、志賀さんや、露伴先生と話してて……。食べてくれてよかった……」
「そうか……」
敢えて自分の事を避けた弟子にそれだけ言うと佐藤は煙草の煙を深く吸い込みふうと吐き出す。
ここは、見送った者と見送らせた者の巣窟だ。
改めて佐藤は頭の中できちんと言葉にする。そして皆どちらでもある。佐藤にその死を見送らせた太宰治は織田作之助の死を骨を拾うという形で見送っている。若年で亡くなった新美南吉や中原中也でも親しい間柄の人間を見送っている。自分だって芥川龍之介を見送ったし、谷崎潤一郎に見送らせた。ここに居る面子で皆を見送った井伏鱒二も誰かに見送らせたはずだ。
特務司書が今何を感じているか、輔筆が今何を考えているか、ここにいる転生文豪は皆分かりすぎるほど分かっている。特に檀は、いや檀だけだはなく織田や堀や横光は愛する女を見送っている。
佐藤は、ちらりと檀の横顔を盗み見たが、俯いたその顔からは何も読み取れなかった。
※※※ ※※※ ※※※
咲き切った花が散るように輔筆は逝った。
特務司書と言葉を交わしながら、瞼を閉じ、特務司書と繋いだ手がするりと落ち、小さく息を吸うと、輔筆はもうこの世にはいなかった。
付き添っていた術者に呼ばれた森と斎藤が見たのは、寝台に座り両手で輔筆の手を取っている特務司書だった。先に斎藤が動いた。特務司書の肩に右腕を回し身体を支えると左手で軽く特務司書の手を叩く。何度か繰り返すうちにゆっくりと斎藤に視線を向ける。特務司書の漆黒の瞳を覗きこんだ斎藤が森に視線を送ると、初めて森は特務司書に声を掛けた。
「最後の診察をさせてもらえないか」
微かに特務司書が頷くと、森は寝台に近づき脇にあった椅子を下げる。斎藤が特務司書の身体を支えその椅子に座らせた。特務司書は抵抗せずに大人しく椅子に座った。
森が臨終を確認し終わる頃、筆頭術者がやってきた。森と斎藤に一礼すると、特務司書の傍に跪いて諭すように言った。
「これからの事は我々に任せてください」
一瞬、特務司書の瞳が筆頭術者を睨み、すぐ止んだ。しわがれた声が途切れに聞こえた。
「わかって……います。私は…………立ち会えない。戻ります…………ので、どなたか……」
頷いた筆頭術者が特務司書の手を取り出て行くと、入れ替わりに補修室付きの術者が何人か入ってきた。遺体を整えるのを彼らに任せて、森と斎藤は死亡診断書の作成に医務室に戻った。
※※※ ※※※ ※※※
輔筆の逝去は速やかに転生文豪達に知らされた。
三木露風は聖書から死者のための祈りを読み、海外文豪達はそれに合わせて十字を切った。
新美南吉と宮澤賢治は里山で野の花を摘み枕元に添えた。
文豪達は入れ代わり立ち代わり弔問に訪れたが、柳田國男は死者の傍に特務司書が居ないのを訝しんだ。
「特務司書はどうしている。まさか……」
柳田の問いに文豪達の挨拶を受けている筆頭術者が答えた。
「特務司書は、我々術者を率いる立場でいらっしゃるので…………、死の穢れには触れてはいけないのです」
「死の穢れをそれほどまで厭うんですか」
柳田の傍にいた折口信夫が問い返す。
「我々の古い習わしです」
答えた筆頭術者は柳田と折口の顔を見て続けた。
「死の穢れは全てを浄化する原動力となる。特務司書ほどの術者はそれを取り込んではいけないのです」
筆頭術者の瞳はそれ以上の答えを告げなかった。
弔問を終え、談話室に行こうとした柳田と折口の耳に術者が立ち話する声が聞こえた。
「葬送は郷で行います」
「郷で、ですか」
「彼女も我等の学びの輩ですよ」
「では、筆頭が付き添われるのですか」
「いえ、私が行きます。皆さんは筆頭ともども特務司書の補佐に専念してください。迎えは明日の朝到着します」
足を止めた柳田と折口に向かって、付き添うと言った術者が微笑む。二人は軽く術者達に目礼してその場を去った。一階に下りた柳田に折口は言った。
「せんせ、美味しいお菓子を頂いたので部屋にいらっしゃいませんか」
柳田は折口の顔を見つめ、弟子の意を汲んで頷いた。
館長からはなるべく普段通りに過ごしてくれという要請はあったが、通夜ぐらいはさせてくれといって、輔筆の枕辺には常に文豪の誰かがいた。ここでも特務司書は姿を見せなかった。皆は愛する者の死の衝撃に特務司書が耐えかねて引き籠っているのかと噂した。
「そんなんじゃないよ。司書さんは葬儀には参加できないんだ」
感情を映さない瞳を伏せたまま島崎藤村が言った。
「それはどういうことですか。島崎さん」
珍しくその場にいた泉鏡花が詰問する。泉の強い視線にも動じず島崎は淡々と答える。
「どうしてかは聞けなかったけど、術者達は当たり前のように言ってるよ。それが習わしなんだって。柳田と折口は筆頭から聞いてたっけ」
「二人は夫婦であろう。夫が妻の葬儀に出ぬとは、おかしなこともあるものよ」
尾崎紅葉がその場全員の疑問を代弁する。そういえば、と尾崎と泉に付き添ってきた広津和郎が口を挟む。
「我々が転生してから随分と経つ。輔筆が老いるほどに。だがその間に研究棟で暮らしている術者で、病を得たと言ってここを去る方は居ても、ここで療養する方はいない。ましてや亡くなった方は居ない。輔筆が初めての死者といってもいい」
広津の後を受けて菊池寛が思いついたかのように話す。
「前の筆頭術者は老いたといってここを出て行ったな。あれは何処へ行ったんだ」
「サト、だと思うよ」
島崎が菊池の問いともいえぬ言葉を受けて言った。
「輔筆の葬儀もサトでやるみたいだよ。明日の朝迎えが来る」
島崎の感情を映さない瞳が皆を眺める。
「明日の朝だと。慌ただしいな。徹底して死を遠ざけるようにみえる」
師の言葉を受け泉が続ける。
「恐らくそうなのでしょう。僕も里見さんから仲の良い術者がここで病気療養するわけにはいかないと出て行ったことを聞いたことがあります」
「術者の長でもある特務司書にとっては習わしにしたがうことは自明のことでしょう。しかし司書個人としては……」
広津の言葉に皆深く頷いた。
※※※ ※※※ ※※※
翌朝、図書館が開館する前のまだ早朝と言ってよい時刻、研究棟の通用口を叩くものがあった。鈍色の衣に袴を穿いた男たちが七人、対応に出た術者に一言、迎えに参りました、と告げた。対応に出た術者を始め術者達は皆男たちと同じように鈍色の衣に袴を身に着けていた。
その様子を朝の散歩に出掛けようとしていた夏目漱石が見つけた。すぐに宿舎に引き返す夏目を見て、筆頭術者はため息をついた。
男たちを先導しながら、先頭に立つ男に小さく耳打ちする。
「先生方に見つかりました。少しお時間をいただいても宜しいでしょうか」
男は筆頭術者を見て小さく微笑んだ。
「本来ならば速やかに退出するべきですが、最大限譲歩するようにと長から指示をいただいています」
感謝します、と頭を下げ筆頭術者は輔筆が眠っている部屋の扉を開けた。男たちが棺を運び込む。そこには尾崎達と入れ替わりに夜伽に立った織田と坂口安吾、太宰治、檀が輔筆を守るように取り囲んでいた。
突然の男達の入室に驚く太宰の腕を取り檀が立ち上がる。坂口と織田は男達に声を掛ける。
「今から納棺か。付き合うぜ」
「特務司書の代理や。おってもええやろ」
そう言いながら男達に場所を開ける。床に白布を敷き棺を置くと、男達は輔筆の身体に手を伸ばす。男達に、暫くお待ちを、と声が掛かった。
声の主が男達をかき分けて輔筆に近づく。ああ、この子輔筆ちゃんに仕事、習おとった子や。そう思った織田は男達の前に踏み出す。
「特務司書から言伝があります」
そういうと入ってきた術者は衣の懐からハンカチを取り出した。開くと中に黒石をはめ込んだ指環が出てきた。
「これを持たせるようにと」
男達に指環をかかげて見せ、筆頭術者を見る。肯の頷きを受けると輔筆の左手を取って薬指に指環を嵌めた。嵌めた指からふわりと花弁が舞って消える。
「椿、いや山茶花か……」
男達の誰かが呟くのを織田はしっかりと聞き取った。
輔筆の棺は、研究棟の裏口から運び出された。研究棟と宿舎の間をゆっくりと通って通用口へ向かう。打ち合わせたわけではないのに、文豪達はだれもが帝國図書館の正装に身を包んでいた。ぐずぐずと鼻を鳴らす新美の手には前日に摘んだ花畑の花束があった。同じような設えの花束を伊藤左千夫が通り過ぎようとする棺の上にそっと置いた。新美の背を支えていた高村光太郎が新美を抱き上げ、葬列に合わせるように歩く。新美が花束を伊藤のものの隣に置き、バイバイと呟いた。
納棺に立ち会ったために、着替えるのが遅れた織田と坂口と太宰と檀は談話室の窓から輔筆の棺を見送った。研究棟から輔筆の棺に付き添う術者が文豪達に深く一礼するころ、織田の視界の隅に白いものが走った。ぱたぱたを足音がする。するりとその場を離れた織田を、同じく談話室にいた堀と横光が追う。檀は三人を静かに見送った。
ぱたぱたという足音は二階に上がるとそのまま潜書室に入った。大きく開かれた扉からカーテンを開ける音が聞こえる。織田が潜書室に入る。続いて堀、その後に横光。三人は普段はカーテンで隠れている潜書室の窓に白い衣を着た人物がかじりついているのを見た。
「司書さん……」
堀が呼び掛ける。術者達と異なって白衣に白袴-紋が浮き出ている-を身に着けた特務司書は織田達が入ってきたのに気づいていないのかじっと窓の外を見つめている。
「司書さん……」
堀がもう一度声を掛けるが、特務司書は振り向こうとはしなかった。窓の外は輔筆の棺が宿舎の玄関の前を通ろうとしているところだった。しっ、と織田が右手の人差し指を口の先に立て、堀に窓の外を見るように促す。つられて横光も窓の外を見る。棺が通用口を通り、何人かの文豪がついて行くのが見える。やがて、窓越しに自動車のエンジンのかかる音が聞こえ、滑るように走り去る音が遠ざかった。
ああ、という嘆息と特務司書が身体を崩れ落ちるのが同時だった。瞬時に動いたのは横光で、特務司書の傍に駆け寄ると背中から包み込むように身体を支えた。特務司書は初めて気づいたかのように横光を振り返る。
「大丈夫ではないな。しばらくそのままでいるとよい。すぐに椅子を持ってくる」
横光の声に応じるように堀が潜書室に立てかけてある折りたたみ椅子を持ってくる。広げると特務司書に座るように促した。
「申し訳…………ありません…………このような…………」
堀が労わるかのように特務司書の後から肩に手を置いた。三人は特務司書を守るかのように取り囲む。
「よいのだ……。このような時は。常と同じではいられない。手前もそうであった」
ふいに横光の瞳が遠くを見た。
「そうやで、特務司書、習わしは習わしやけど、自分の気持ちも大事や、輔筆ちゃんに持たした指環、あんたの気持ちやろ」
その言葉に特務司書は顔を上げ織田を見る。織田も労うように微笑む。
「綺麗な花、咲いとったで」
「織田さん……」
「泣いてもよいのだ、誰も笑いはしない」
「横光さん……」
特務司書の両手が細かく震えながら伸ばされる。そして織田と横光の正装のマントを握ると揺さぶるように震えが大きくなった。
「私は………私は………」
特務司書の声は擦れ、枯れきっている。言葉の合間にひゅうひゅうという息が混じった。
「私は……分かっていた……つもり……でした。彼女が……輔筆が…………私………とはちがう…………年齢を……年を…………取ることも……老いる…………ことも」
しゃべり続けることに耐えかねて呼吸が荒くなってくるのを堀が背中をさすって宥める。
「分かって……いる…………その……つもり…………だったのに……………いつかは…………いなくなると…………それが……………こんなにも………………」
苦しいと言いかけた言葉は静かなすすり泣きに消えた。
特務司書のすすり泣きは続いていたが少し落ち着いたのを見計らって堀は潜書室の扉を閉める。二階の様子を伺うが、森と斎藤はまだ医務室に戻ってきてはいない。泣き顔を晒されるのも恥ずかしいだろうと、カーテンを閉めるといつものほの暗い潜書室に戻る。落とした照明が洋墨瓶に当たって鈍い光を放つ。
「私は…………これから………」
不意に特務司書が言葉を発する。暗い照明が映し出した特務司書の顔は行き場を失った子供の様に三人には思えた。
「今までの様に………できるか………やり続けられるか………」
ぼんやりとした瞳が織田を横光を交互に眺める。特務司書の悲しみが伝播したのか二人は声を掛けられずにいる。そんな中、堀がまた宥めるように後ろから特務司書の両肩に手を置いて体温を分け与えるように引き寄せる。
「ねえ、司書さん。お話をしていらしたでしょう」
「話……」
「そやな、皆が心配するぐらい輔筆ちゃんとずぅっとなぁ」
織田が思い出したかのように付け加える。
「いろいろお話されたでしょう。それが支えになりませんか」
「支え……」
「そうだな、話し合った思い出は何時までも心に残る」
「何時までも……」
「輔筆さんは強くて優しくて立派な人です。僕達の事も、貴方の事も、ここで何が行われているかも、何もかも知っていて、何もかも受け入れて。そうしてご自分のやるべきことをやり遂げた」
特務司書は無言で堀の声を聞いていた。
「僕は大好きでした。緊急潜書の書類整備をする彼女も、仕事の合間に貴方の顔をチラチラ見ている彼女も。今も大好きです」
寂しそうにふわりと笑った堀を引き継いで横光が話し出す。
「茶会に招待すると緊張していたが、未知のものを学び取ろうとする意欲は見習わねばと思わされた。直木の悪巫山戯にいちいち対応していたがそれも彼女ゆえの事だろう。大抵は直木を反省させて終わらせたが」
それにな、と織田が続く。
「特務司書が辛いの、皆知ってんねん。辛いやろ苦しいやろって。でもなぁ、辛い苦しいって言うてもらわんと、ワシらどうしてエエのんかわからんのや」
引き寄せた手に力を入れて堀がまた話し出す。
「頼ってくれていいんです。僕達を。これからもずっと。だってこれからもここで、輔筆さんの想い出を持ちながら、一緒に侵蝕を浄化していくのだから」
特務司書は今度は声を上げて泣き出した。
<了>