永遠日記
2022年5月29日日曜日、
初めて映画を観た日。
人生で初めて香水を買った。
初めての映画館で、場所がちょっとだけ怖かった。心臓が喉につっかえているみたいな感覚。イベント前はいつもそう。『永遠が通り過ぎていく』を観た。観るのをずっと待っていた映画。映画の途中にふわっと初めて買った香水の匂いがした。香水を付ける度にこの光と彩度の高い緑とオレンジと赤と青を思い出すんだろうな、なんて思った。
私には難しいよ、まこりん。って思ってた。でも、言葉の美しさとか映像の美しさにずっと飲み込まれていて、包まれていて、それだけでもいいと思った。夜のゲームセンター、懐中電灯からの光がスクリーンから映画館の客席にまっすぐのびて、繋がったと思った。その瞬間が好きだった。帰り道、あまりに美しい光を、いつか見た夢に似た色の景色を観たものだから、自分が見る景色が濁って灰色にみえた。自分の感性というか、眼が赤ちゃんみたい。竜巻みたいにくるくると円をなぞりながら電灯に向かう虫を見て、いつもは大嫌いなのだけれど、その日はなんだか光の使者だ、と思った。一瞬だけ。顔に寄ってきた瞬間から、いつもの煩わしい怖い虫だった。そんなことを考えながら、靖子ちゃんのKintsugiをシャッフルで聴いていた。
2022年6月2日木曜日、
舞台挨拶やその後のサイン会の緊張で映画をちゃんと観られていなかったからもう一度観る。
映画のパンフレットも読んだ後だったからより言葉がちゃんと入ってきたし、映像がより鮮明に隅々まで観れた。マリアの声色がちょっとずつ違うことに気がついた。やっぱり、言葉が美しくって好き。今日も懐中電灯の光でスクリーンと繋がれたと思った瞬間が尊かった。
永遠、と聞くと、決まって脳内で、Q10の富士野月子が「永遠は無いの」と言う。瞬きする間に生まれて死んで、目まぐるしく変わっていく今が、全部を持っていたいと願う私には恐ろしくて、いつの間にか死ぬまで持っていこうと抱えていた愛しいものをどこかに手放してきていて、そのことすらも忘れてしまっている。永遠は無いのだ、と。だから、焦がれている。
私も永遠が欲しい。新しいサンダルを履いてきてしまったから足首の靴擦れが痛くてゆっくり歩く。あいちゃんが切った場所とちょうど同じ位置が痛くて、お揃いがなんだか嬉しかった。
2022年6月24日金曜日、
少し遠くの劇場で上映されることが決まった。その劇場での舞台挨拶の日。
もう一度あの光と言葉に浸りたいと想いながらも、夜の少し遅い時間で、少し遠くの知らない土地だったから、本当は行くつもりはなかった。でも、前日のイベントで、上映をしない選択肢が挙がるほどの大変だったこととか困難の片鱗を知ってしまって、届けてくれてありがとうって絶対に伝えたかったから行くことを決めた。私にとっては人生の宝物になったんだよってただただ伝えたかった。
やっぱり、この映画を観ると自分がリセットされる気がする。この映画を観た後、赤ちゃんになる。生まれなおしたみたい。そんな状態で帰ることがいっとう好き。そんな感覚ずっと持っていたいとおもいながらも、すぐに染まってしまうから、定期的に観たいと思った。でも、DVDじゃなくて、この映画は映画館で観るべき映画だと思うから、ずっとあって欲しいと思った。保健室みたいに。こんなことを伝えたかったけれど、口じゃ上手く伝えられなくて、でも、頑張って伝えた。全部を取りこぼさないようにと見つめ返してくれる眼が好きで、私はずっと救われていた。
毎回の帰り道、ずっと目に涙が溜まっていた。言いたいことを言えない時みたい。喉がきゅっと締まって定期的に深呼吸しないと上手く息が吸えなかった。
まこりんの言葉に触れると、いつも、ずっと前からこの言葉を知っていた様な感覚に包まれる。産まれた時から使っているやわらかいタオルケットを抱きしめて眠る時みたい。細胞の1つひとつから安堵する。だから好き。
『永遠が通り過ぎていく』もそうだったと同時に、古い皮膚がめくれて新しい赤い皮膚に触れている時みたいに、敏感に、くすぐったいような痛いような、自分の奥深い肉に爪を立てて触れられている気がした。生々しく美しく私を揺さぶった。
小さい時からずっと、この気持ちを記して置かなければなかったことになる。そんなの今の私があんまりにも可哀想と思って、言葉をノートに書きなぐっていた。嫌いな子のこと、お母さんと喧嘩したこと、お姉ちゃんでいなければいけないこと、私だけを見ていて欲しかった女の子のこと。紙が破れるくらいボールペンを掌で握って書いた。泣きながら書いたからところどころ字が滲んだ。スマホを持ち出してからは、メモに、Twitterの下書きに、私のこと誰も知らないアカウントに、Wordに、noteに。その時はしんどいのだけれど、振り返ってみると、そうして書いて足掻いている時が1番生きている気がする瞬間で、傷ついてそれをなんとか自分で治癒していようとしている瞬間が、その瞬間に吐いていた言葉がこの世のなによりも美しかったとずっと信じている。
この映画が撮られたこと、私がしてきたことの片割れみたい、と勝手に思った。舞台挨拶で戸田真琴監督が話していたこと、ものすごく自分だった。
私は私でありたいけれど、日本で育ってきた以上、普通から逸れること、異端であることを恐れていて、他人の目にどう映るかを常に考えた行動を無意識でしてしまう。だから、自分と似た考えや言葉を持っていることについつい安堵してしまう。間違ってなかったんだと。正解なんて何一つないのに。この映画を観て、監督の話を聞いて、安心してしまう。
そんな自分にどうしようもなく呆れてきたけれど、魂に染み付いてしまっている以上、生まれ直す以外になくて、でも、きっとこうでなかったら、この作品は作られなかったかもしれないし、“私”でなければ出会えなかったんだと思う。そんな瞬間に、私は生きていることを感じていて、自分の人生を肯定できる。きっと、そう思う瞬間が多ければ多いほど、人生が豊かなものになるのだと思っている。
歳を重ねるに連れてだんだん、鈍く、退屈に、怠惰になっている。惰性で生きている。高校を卒業してからは特に。もっと敏感に生きていたいと思いながら、怠惰であることもやめれらなくて、眠っているように生きている。
この映画に、足掻いていた時に見ていた景色を、光をみた。そうやってなんとなく生きていることがバレてしまったようで恥ずかしくて痛かった。それでも、そんな生き方をしている自分ごと包み込んでいてくれている気もするから、死にたくて、生きたくなった。
舞台挨拶で監督が眼が足りないと言っていた。心の底から共感した。
私もできることなら、人生を何十周もしてこの世の全部の景色をみたい。私じゃない全員の見ている景色をみたい。自分でみたものしか信じられないから、全ての眼が欲しい。もしかしたら言葉の意味や本質は全く違うのかもしれないけれど、自分の受けとったままに解釈するね。
私はすごく欲張りで、ほんとうに全部をずっと持っていたいから、歳を重ねることがすごく怖い。自分のみていた景色、選ばなかった未来、自分じゃない人からみえる景色、総てをそのままの温度と湿度と色と匂いと音で瓶にでも保存しておけたらいいのにとずっと願っている。なんでも、教科書の1冊でさえ、何かを捨てたり失くしたりする度にどこかでちゃんと傷つくくらいには、〝喪失〟が怖い。でも、全部を持っておくなんて、そんなこと叶わないから、だから私は、こうして言葉を吐くし、絵を描くし、写真を撮るし、看護師になりたい。
日々生きていく中で埋もれていった、そんな私の核達を映画が引っ張り出してくれたような気がした。
看護師になりたいこと、ほんとうに理想の綺麗事で、自己中心的な理由。看護師になれば、日本の色んな場所で生活がしやすいと思った。島でも、新幹線の窓から見た可愛い町でも、うんと頑張れば外国でも暮らせると思った。できるだけ沢山の景色を見れると思った。自分以外の人の人生をなぞることができると思った。そして、その人生が在っていいものだと、世界中の人を幸せにすることは本当に難しいけれど、せめて、自分の手の届く人達には豊かに生きていて欲しいと、おこがましいけれど、あわよくば、私がその豊かにする要因の少しを握っていたいと、人の生死に触れる看護師はそんな自分の理想を叶えやすいんじゃないかとおもった。すごく理想で、本当はとてもこんな出来た人間じゃなくて、ほど遠い生き方をしているけれど、ぜんぶほんとう。
“永遠日記”というタイトルで5月からずっとiPhoneのメモに眠っていた日記。
私にとって神様みたいな、大好きな人が撮った映画を観た帰り道に電車で打っていたもの。送りたいと思っていながらも、誰かに見せようとする言葉はあまりにも薄くなってしまうから、ずっと送れず、発信することもできずに眠っていた。でも、絶対に誰かには見せたかった。2022年の節目のタイミングを逃してしまって、次、1月31日を逃してしまったらもう一生、日の目を見ないと思ったから、今日ここに置いていく。
こんな言葉たちが映画によって自分から生まれてきたこと、幸せで、尊く思います。撮ってくれて、東京以外の土地にも届けてくれて、ありがとう。
これからもずっと好きで、応援しています。
(2023.1.31)
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