104の点を結ぶ ~ハイドンの交響曲分布~
この記事ではハイドンの交響曲の分布と特徴について記述します。
まず動機として、「ハイドンの交響曲って、もっと演奏されていいんじゃない…?」という疑問(もとい想い)から来ています。というほどに、ハイドンの交響曲には魅力があるのです!彼の人生や音楽について、特に交響曲の概要については過去の記事(リンクです↓)をご参照ください。
ですが、まぁ104曲もあれば、説明なしでは訳わからないですよね...どれも演奏機会が少なければどれから聴いたらいいかも分からないですし。笑
こち亀だって、初めて読むときにどれから読んだらいいのかわかりませんでした。(結局どれからだっていいんです)
この記事では、個々の交響曲について詳細に述べる言葉難しいですが、その前にまずハイドンの作品番号について、そしてハイドンの交響曲の時代ごとの特徴と該当する作品をまとめました。 ざっと目を通してみてください!
ホーボーケン番号
アントニー・ファン・ホーボーケン(1887-1983)さんというオランダ人が、1957年にハイドンの膨大な作品に番号をつけて整理しました。いわゆるホーボーケン番号というやつです。素晴らしい功績です。96歳まで生きていらっしゃいましたが、ハイドンと似て長生きですね...
彼は曲のジャンルごとに、年代順に番号をつけた"はず"でしたが、中にはのちの研究により「え、この曲ってもっと早く書かれてるじゃん」って作品もありました。
そこで、以下、現在研究で明らかになっている範囲で年代順に並べ直しました。ハイドンはご存知の通り長生きで曲もたくさん書いたので、おおよそ5つの時代に分類しました。それぞれの時代のことは各項目に書きましたので、ご参考に...
1. モルツィン家時代 (1757-61)
1757年、"作曲家"ハイドンの初めての就職先です。
現在はチェコ西部・ドルニ=ルカヴィツェという場所にあります。
1761年までの5年間、ここで曲を書きました。
モルツィン家はそこまで裕福ではなかったのでお金がなくなってしまい、ハイドンを音楽家として雇えなくなってしまったんですね。
1757年: No.1
1758年: No.37
1759年: No.2, 59
1760年: No.4, 10, 20, 27
1761年: No.3, 5, 11, 15, 17, 19, 25, 32
↑交響曲第27番第1楽章 (1760)
やはり古典的な作品。
2. エステルハージ家・副楽長時代 (1761-67)
1761年、モルツィン家をあとにしたハイドンは、エステルハージ家の宮廷副楽長となります。今度はハンガリーです。そしてこの家柄、大変裕福でした。現在も続いており、エステルハージ城で造られるワインはとても有名で、オーストリア・ドイツ・ハンガリーのワインショップに行けば"Esterhazy"という名前で大体売っています。
ハイドンがこの家で仕事を初めてすぐに城主になったパウル・アントン・エステルハージは音楽好きだったため、モルツィン家とは違って音楽への出資を惜しみませんでした。
**ありがとうございます!おかげさまでここまで素晴らしい作品がたくさん生まれました...! **
1761年: No.6「朝」、7「昼」、8「夕」
1762年: No.9, 14, 33, 36
1763年: No.12, 13, 16, 34, 40, 72
1764年: No.21, 22「哲学者」, 23, 24
1765年: No.28, 29, 30「アレルヤ」, 31「ホルン信号」, 39
1766年: -
↑ 交響曲第6番「朝」 (1761)、終楽章
「みんな」で演奏する交響曲にはないような、個人プレー的なフルート、ヴァイオリン、チェロのソロが目立ちます。
3. エステルハージ家・楽長時代 (1767-90)
1766年、ハイドンの時代がきます!楽長昇進です!
それまで楽長だったグレゴル・ヨーゼフ・ヴェルナー(1693-1766)が死去。この方は73歳まで活動されていました...この方もめちゃめちゃ長生きです。笑
楽長の時代は1790年まで続きます24年間もトップで仕切っていたわけですね。この期間は長いので2つに分割します!
3-1. 嵐と衝動の時代 (1767-73)
ハイドンが楽長になった時代に、文化芸術界に新しい流行が生まれます。
「シュトゥルム・ウント・ドラング」です。
ドイツ語、かっこいいですね...中学生でこれ覚えてたら、次の日学校で使いたくなる言葉ですね...
この言葉、「疾風怒涛」という意味です。なにが疾風怒涛...?聞いたことがある方も、イマイチピンと来なかったりするかもしれません。(僕がそうでした)
啓蒙思想
当時はジョン・ロックやジャン=ジャック・ルソーをはじめとした「啓蒙思想/啓蒙主義」が色々な分野において主流でした。げっ、なんか難しい言葉が出てきた...って感じですよね、分かります。"けいもう"と読みます。
この啓蒙なんとやらってなに??
ざっくりいきます。
「啓蒙思想」とは「理性って大事!」っていう考えです。
簡単でしょ?笑
この考え方は政治においても主柱となっただけではなく、哲学や文学においても基礎となりました。時代的には17世紀後半から18世紀いっぱいにかけてです。んー、音楽史に置き換えれば、大体バロック派から初期古典派でしょうか。
この頃の哲学も「やっぱ人間なんだからさ、ちゃんと考えようよ」みたいな内容が多いです。
疾風怒涛
「疾風怒涛」は、「シュトゥルム・ウント・ドラング (Sturm und Drang)」の日本語訳です。直訳すれば「嵐と衝動」、単に衝動と言っても、もう抑えきれないような衝動のことを言います。この名前自体は、同時代の作家(F.M.クリンガー)の作品名から付いた名前です。ここで重要なのは、啓蒙主義との違い、「人間らしさって理性よりも感情だ!」という部分です。
これが啓蒙思想を踏襲し、18世紀後半から流行ってくる思想です。
その影響をハイドンが受けたであろう作品がこの時代に生まれているわけです。まぁ、ハイドンは「ボクは影響を受けたから感情に任せたり、訴えかける曲を書く!」なんて言っていないので(少なくとも資料はない)、断言はできませんが...しかし作品がそういう作品なのですから、そういうことなのでしょう...きっと。笑
この時代から、あまり常識に囚われない実験的な作品を書くようになります。有名どころで言ったら...No.45「告別」でしょうか。
1767年: No.35, 38, 58
1768年: No.26, 41, 49「受難」, 59「火事」
1769年: No.48「マリア・テレジア」, 65
1770年: -
1771年: No.42, 43「マーキュリー」, 44「悲しみ」, 52
1772年: No.45「告別」, 46, 47
1773年: No.50, 51, 64
↑交響曲第45番「告別」 (1772)、終楽章
演奏者がだんだんといなくなっていきます...
これは、楽団の規模が大きくなり演奏会が増えたことで、楽団員の「家族が待ってる家に帰りたいよ...」という声を音楽で表現するために、このような作品になったと言われています。
3-2. ハイドン、人気の時代 (1774-84)
ハイドンの名前はみるみるうちに知られ、エステルハージ家以外からも作品の委嘱を受けるようになります。
そこで、彼の作風はただ実験を行うというより、それを踏まえた上で「もっと人にわかりやすい曲」に傾倒します。この時、作曲だけではなく演奏活動で忙しくなったことにより、歌劇から引用された作品もいくつか生まれます。
1774年: No.54, 55「校長」, 56, 57, 60「うかつ者」
1775年: No.68
1776年: No.61, 66, 67, 69
1777年: -
1778年: -
1779年: No.53, 63, 70, 71, 75
1780年: No.62, 74
1781年: No.73「狩り」
1782年: No.76, 77, 78
1783年: -
1784年: No.79, 80, 81
↑交響曲第73番「狩り」(1781)、終楽章
開始早々に急に全員が休みになり、狩りのシンボルが登場する。
昔の貴族たちは馬に乗って狩をするときに、お互いに合図を出すためにホルンを持って狩を楽しんでいました。まさにこのような荒々しいホルンのモチーフは狩を象徴しており、「あ、これって狩りの時の合図だ!」というように、耳ざわりだけでなく、音楽としても(当時の人にとっては)分かりやすく書かれています。
4. 国境をこえた名声 (1785-89)
その名声は国境をこえてフランスやイギリスまでも届きます。やはりパリ、ロンドンといえば豪華絢爛、しかしどちらも長い歴史を持ち、古典を重んじるような場所です。
そこでハイドンは「わかりやすい作風で豪華、しかし古きものも大切に」という作風の作品を書きます。こうしてハイドンさんはどんどんと忙しくなります...
1785年: No.85「雌鶏」, 87
1786年: No.82「熊」, 84, 85, 86, 87「王妃」
1787年: No.88, 89
1788年: No.90, 91
1789年: No.92「オックスフォード」
↑交響曲第84番 (1786)、第3楽章 メヌエット
当時の新しいパリのオーケストラ "Concert de la Loge Olympique" のために書かれた作品。明るく、符点による装飾がついているものの、しっかりと重さのあるメヌエットとなっています。
5. ザロモンセット ~ハイドン、ロンドンへ~ (1791-95)
↑ 交響曲第103番が初演されたロンドンのHer Majesty's Theater
ハイドンの名声は止まるところを知りませんでしたが、ここで転機が訪れます。音楽好きの城主の死去です。
そして次に城主になった人が音楽に全く興味がなく、ハイドンに年金生活を言い渡します。普通でしたらショックですよね...?そこでハイドンは「まぁ、今までたくさん働いてきたし、他の人たちからの依頼もすごく忙しいし、ちょうど良かったのかもしれない」といった感じで、隠居生活には興味がありませんでした。
そして興行師ザロモンとの出会い...興行師とはイベントを主催する人のことをいいます。その彼が「せっかくの機会だからイギリスへ演奏旅行をしない?」と持ちかけ、結局2度の演奏旅行を行います。ハイドンは「ボクのこれまでの結晶をこの機会に...!」と意気込み、これまでの総決算となる作品を書きます。
1791年: No.93, 94「驚愕」, 95, 96「奇跡」
1792年: No.97, 98
1793年: No.99
1794年: No.100「軍隊」, 101「時計」, 102
1795年: No.103「太鼓連打」, 104「ロンドン」
↑交響曲第94番「驚愕」(1791)、第2楽章
静かに始まって、聴衆が「あ〜遅いやつね」という雰囲気になった頃に急にハイドンが大音量でツッコミを入れる曲です。笑
↑交響曲第100番「軍隊」(1794)、終楽章
「軍隊」とは当時の最強軍隊、オスマントルコ軍のことを表しており、その軍楽隊が使う楽器(シンバル、トライアングル、大太鼓)が使われています。
楽しい曲です...
↑交響曲第104番「ロンドン」(1795)
奇しくもこの録音もロンドンでの演奏です。笑
重ーく始まりますが、雲がパッと開けるようにワクワクする本編が始まります。
調性とデータにみるハイドンの交響曲
長くなってしまってもわかりづらいので、最後に調(長調/短調)を比較して、グラフからハイドンの交響曲を見てみましょう...!
モーツァルトは41の交響曲の中で短調の曲は2曲しか書いていません。
しかしハイドンは104の交響曲中、11曲の短調の交響曲を書いています。
明らかに多いですね。やはり宗教的な意味合いが若干強い短調の曲は交響曲には不向きなのですが、ハイドンはあえて使ったことがわかります。
次に、時代ごとの調性(主音を持つ調性)の推移を見ながら、ハイドンの調性に対する動きを見てみましょう!
わかりづらいのも微妙なので、
駆け出しの 1. モルツィン家〜2. エステルハージ家副楽長時代、
安定した生活と実験の 3. 楽長時代、
そして名声を得て外国へと活動の幅を広げた 4. 楽長名声期〜5. ザロモン(ロンドン)期の3つのカテゴリーに分けました。
こうしてみてみると、初期はハ長調、ニ長調などのいわゆるスタンダードな調性に偏っていますね。ホ長調で作曲された交響曲も2曲ありますが、ハイドンが若い頃に勉強していたG.F.ヴァーゲンザイルという作曲家の作品にもホ長調の交響曲がありますので、不思議ではありません。
次に中期を見てみます。調性がかなりまばらなことがわかります。初期の偏り具合とはえらい違いです。短調の作品も多いことがわかりますね。
特にこの中ですと、嬰ヘ短調とロ長調というどの時代においてもあまり使われることのない調性が使われているのは面白いです...特にロ長調は#が5つもあり、弦楽器は弾きづらいのであまり使われません。
最後に後期です。あまり使われない調性は使わず、こちらもオーソドックスな調性を選んでいますが、偏りはありませんね。
上のグラフから、やはり中期のハイドンの実験的な試みはハンパじゃなかったんだなぁ、ということがわかります...
さて、ハイドンの大まかな交響曲の推移が少し分かってきました!この記事では音源データに乏しく、もちろん実際に聴いていただくのが一番わかりやすいのは大前提として。
今まであまりハイドンの交響曲に触れたことのない方…数は多いですが、服選びとかブックオフの立ち読み程度にゆっくり色々聴いてみて、好きな曲を探してみてください。
「お、面白そう…もうちょっと聴いてみようかな」と思ったら、飽きるまで聴いて、飽きたら他の曲を聴いてみてください。ご用意はたくさんありますよ!笑
大井駿
参考文献
Jones, David Wyn (2009): The Life of Haydn. Oxford University Press.
Werner-Jensen, Arnold (2009): Joseph Haydn. C. H. Beck, München.
重田園江 (2013): 社会契約論. ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ. 筑摩書房.