人は死んではならないのか。横浜市の飛び込み自殺から考える。
横浜市で女子高生が飛び込み自殺した事件が話題になっている。飛び込む瞬間をライブ配信していたことと、彼女の自殺願望が赤裸々に綴られたツイッターのアカウントが特定されたからだ。ここでは、この事件に関心を持った経緯を書いてみようと思う。
まず第一に、ライブ配信されたのだからどこかしらにログがあると思い探した。現代を生きていた高校生が自殺する瞬間をとらえた映像なんて見たことがないからだ。彼女はどんな顔なのか。どんな飛び込み方をしたのか。なにを思っていたのか。もしかしたら、グロテスクなものが映っているのかもしれない。ようするに、ただの好奇心である。その後、より彼女の内面を知りたくなりツイッターのアカウントを探した。なにが彼女を自殺するまでに至らせたのか気になった。これもまた、ただの好奇心である。僕は自分の好奇心のままに自殺した彼女のことをとにかく探った。
ライブ配信とツイッターを見てまず思ったことは、そこまでに至ってしまったことが可哀想だと思った。もしその場にいたならば、手を引いてあげたかったと思った。缶コーヒーをあげれば、ほんのわずかでも希望を見せられたのではないかというあわい期待だ。また同時に、自分はいま自殺願望を抱くような環境にいないことが、すごく恵まれていることだと思った。だけど少し考えるとこれらの考えが良くないものだと思うようになった。
最近おもうのは、他人から嫌われたくない人は嫌われないように愛想を振りまくし、それよりも自分を貫きたい人は他人から嫌われようが心にないことは言わなかったりする。そこで出世したい人は偉い人に気に入られるように動いて着実に評価されていくし、それよりも今を大切にしている人は行き当たりばったりの言動を積み重ねて信頼を失っていく。現状に文句をいう人が多いけれど、それはようするに暇だからなんか喋っているにすぎないのであって、なんだかんだわりと望むようになっているのではないだろうか。
そう思うと、いま生きている人の大半は生きたい、またはなにも考えることもなく生きており、死んだ人は死にたいから死んでいる。なかには生きたくても生きられなかった人もいるけれど、それを持ち出して自殺を悪くいうのはお門違いだ。なぜなら、自殺する人にとって生きることはけっして素晴らしいことではないのだから。こう考えるけれども、上記において一度「死んでしまった」と書いたのを書き直した。それほど自殺は正解ではないという感覚が僕には強く根付いている。
自殺した人を見て自分が恵まれているなどと思ってしまうのは差別だと思った。結局は自分が正しいのだと思い込んでいる愚か者だと思った。決めつけてはいけない。相対的に幸せを感じているようでは、自分より恵まれない他人を見ることでしか幸せに気づけないままだ。もし全人類が幸せだというユートピアを目指すならば、みんながみんな、他人と比較することなく自分の幸せに気づかなくてはならない。今までの歴史を現代をもって脱却しなければならない。ただ、それが正しいことなのかはわからない。今のままで、いいのかもしれない。
妄想してみた。僕が仮にそれ以前から彼女のツイッターを知っていたとする。僕は本気にすることなく、なにも触れずに見過ごすだろう。あのとき同じホームにいたとする。飛び込むのを察して手を引くだろう。その後、缶コーヒーをあげたとする。僕は彼女を前にして臆病になるだろう。想像できないような言動をしてくるだろう。もし、うまくいってその場を乗り越えることができたとして、ではそのまま別れるのか。話を聞くのか。缶コーヒーを持ち出して人生を諭し、説教をし始めるのか。児童福祉施設にでも連絡するのか。たとえ彼女がそれを望んでいないとしても。
ところで、僕は生まれることを望んでないのに生まれてきた。なぜなら両親は子どもが欲しかったから。結局はその程度なのだろう。少しくらい自分の正義を押しつけなければ、この記事のように、なにも語ることがなくなってしまうのかもしれない。そう思うと、やはり言わなくてはならない。僕は彼女を救いたかったし、自殺はよくないし、人生は、素晴らしいものである。
しかし、そういった正義の押し付けというものがまた争いを生む。もし本当にユートピアを望むのならば、なにも語ってはならない。それがユートピアなのかはわからない。