作るより繕う
お気に入りのカップの口元が欠けた。カップがひとりでに欠けたかのような、責任転嫁した言いぐさだが悪いのはもちろん僕である。すいません、茶碗ぶつけました。金継ぎしてお詫びします。
初めての試みであったため試行錯誤と漆を固めるのにほとんどの時間を費やした。
作ること、何かを新しく生み出す能力に憧れ続けて、いろいろ突発的にやってきた。しかし作っている途中や出来上がったものを見ると、上手くなるまでの果てしなさが嫌になる。そもそも、僕自身がモノを増やすことに懐疑的である。それなのに自分が何か作ることがおかしいとも感じていた。作りたいけど、それって何の意味があるんだろうとか、とにかく心底楽しんでいたとは言えなかった。それでも作る側に憧れていたが、今回繕うことを経験したことで自分の向き不向きがよく分かった。作ることは向いていない。
繕うこと、長く使い続けようとする行いのほうが自分には向いていた。好きなものが装いも新たに復活して、今までと同じように過ごせる快適さ。時間と資材を使ってゴミを生み出す怖さもない。誰かが作ったものを気に入って手元においているわけだから「出来上がったらゴミでした」なんてことは起こりにくい。
モノづくりに憧れていて、それこそメーカーにまで転職したものの結果がこれだ。なんという遠回りだろうかとも思うが、金継ぎを心の底から楽しむためだと思えばいいかとも思う。コペ転とはこういうものかと思い知らされて清々しい。